『慣れ』の果てに、

「さあ、今日もたくさん食べ物をきたぞ!」


 猫雅は先に帰宅し、その数十分後に三人が帰宅した。迦銀の言葉だが、よくもぬけぬけとでたらめが言えるなと猫雅は思う。その嫌悪はもちろん、今まで甘えていた自分にもあった。


「食べようぜ、猫雅……ん?」


 猫雅は手の平を垂直に前へ。それは拒否の意思。

 自分たちの居場所で食べることを辞めたという、その意思表示だった。


「猫雅、お、お前……」

「俺はもう、飯……食えないよ。ごめん」


 目を伏せて、猫雅は言う。絶望の言葉が似合う、そんな目をしていた。


「待て、猫雅! 俺たちの行いに気がついているのなら、待って欲しい! 俺たちはお前を巻き込むわけには──」


 猫雅の目は、死んだ。霞がかった瞳の奥には絶対零度の世界が映る。その瞳を直視するだけで、ような気分だった。


「養ってくれてたのに……ごめん、俺は──」


 そして放たれる言葉は、別れの言葉。


「行くよ。さよなら……」


 猫雅は寂しそうな背中を残して、あてもなく去っていった。



 ***



 逃げ出してから、どれくらいが経っただろうか。寒い路地裏で夜寒を迎え、泥の混じった水を啜っては廃棄された食料を漁る日々。最初の数日ならなんとか耐えれたものの、それが一週間、一ヶ月と続くと慣れは苦痛となり、絶望へと至る。


「今日も……これだけか」


 この日も手に入った食べ物はたった僅か。悲鳴をあげる腹に手を当て、猫雅は無言で下を向く。スラム街と、喧騒にぎわう街の丁度境目で、猫雅は壁伝いにしゃがみ込んだ。


「腹が、減った……。でも、絶対に──」


 犯罪に手を染めるわけにはいかない。それだけは貫こうと、必死に藻掻く。現実はいつも非情な側面ばかり見えてきて、猫雅の心は迷いと絶望が渦巻いていた。


「チッ! 汚らわしいわね! ちょっと誰か、これを退けてくれないかしら……」


 中年くらいの女性が、猫雅を汚物扱いしてはどけろと喚く。街ゆく人の中でも目立つような耽美な服を纏っているが、人を見下すその顔は卑しささえも見えてくる。


「ちょっと! 貴方にどけと言ってるのよ!? そんなことさえもわからないのね!!」


 中年女性の言うニュアンスを理解した猫雅は女性が一体、どんな顔をしているのか。一度だけ、見ようと少しだけ顔を上げた。その目はすぐに、氷の世界で閉ざされる。

 猫雅が抱いた印象は、凄まじき嫌悪感。

 鼻を膨らませ、唇を歪ませ、さらには目を細めて猫雅を嘲ているのだから、嫌悪感は想像を絶する。


「っ、いつまでもこんなことをしていたら、どうにもならない……っ!」


 猫雅は咄嗟に、スラム街のほうへ走り出した。目的地は迦銀たちの居場所でもなければスラム街の中でもない。


「はぁ、はぁ……っ」


 目的地は幼き頃にたった一日だけ遊んだ平原。平原を真っ直ぐに走り抜ければこんな辛い日常から脱却できると、自暴自棄な感情のままに行動する。


「どこに向かえば……俺は──!!」


 平原は広く、川すら見えてこない。それとともに、走るほどにスラム街の建物は見えなくなっていく。時には進む方角がずれて方位があやふやになり、大きな滝も霞んで見えなくなる。

 猫雅は迷いながらも、走り続けた。


「なんだ、あれは……? 緑?」


 見えてきたのは、緑色の何か。徐々に距離が近くなると、それは羊の毛皮のように膨れ上がっていたことに気がつく。


「なんだ……? これが、森だとでもいうのか……?」


 森であれば狩猟など人の益となる行動ができるはず。それなのに森にしては、人を寄せ付けない何かがあった。木の幹はうねり、人の入る隙間を無くしてしまっている。作為的な閉塞感。


「……進もう」


 猫雅は後ろを見ずに、ただ前だけを見た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る