緋色の椅子

 スラム街の外。街とは正反対の方角へ進むとそこには広い平原がある。猫雅はまず最初に、三人の遊びを遠くから眺めた。桧綺は手に何か丸い球体を持っている。それを投げると迦銀がキャッチしてそれをまた猿弥に投げた。


「おーい、そっちいったぞー! あ! 猫雅、キャッチよろしくー!」


 猿弥が桧綺へ投げようとすると上手く飛んで行かず、遠くから眺めていた猫雅のほうへ飛んでいく。


「……え、あ、ああ」


 球体を手の中に収めようと、手を伸ばす。球体との距離を自然な動作で埋め、気がつけば手の中には球体が握られていた。その球体は、適度に柔らかい。握ってつぶれてしまうほど柔らくはなく、しっかりとした反発があるのだ。


「俺も、混ぜてくれないか?」

「んー? いいよ! やるならこっちにきてくれ!」


 迦銀の誘いで、猫雅は三人の輪の中に入っていく。


「ところでこれ、この球体はなんなんだ……?」


 手に握るこの球体はなんなのか、猫雅は思わず気になってしまい迦銀に尋ねた。


「それはボールだよ。さっきみたいに、投げて遊ぶんだ!」

「ボール……」


 聞き慣れない名前に首を捻るも、すぐにボールを猿弥へ投げ渡す。猿弥は迫り来るボールにあたふたしながら、ボールを掴み取る。

 ボールを投げてはキャッチする。そんな楽しい時間がしばらく続き、時間を忘れた頃には空が茜色に傾いていた。



「よし、帰ろっか!」

「そうだなー! もう夕方だし」

「うん、そうだね……残念」


 三人は遊びの疲れもあるようで、顔色がやや眠そうだ。帰ったらすぐに床に就く姿が容易に想像できるくらい、三人は欠伸を押し殺して我慢している。猫雅も遊び疲れた様子で、目を細めていた。

 やがて納屋に到着すると、漂う雰囲気が違っていることに四人は気づく。生活音がしない、というよりも黄昏時にしては静かすぎるのだ。

 無い勇気を出して、恐る恐る迦銀は戸を押した。ミシミシと軋む戸を動かすと、今度は何か鉄のような臭いが鼻を刺激する。不安と恐怖が綯い交ぜになって、迦銀はいっぺんに戸を開けてしまう。鉄の臭いが強まって思わず目を細めようとするが、目の前の光景がそれを許さない。


「なっ……!」

「お、おやっさん……?」

「嘘……」


 そこにあったものは──


「鯛、道……?」


 緋色に染まる椅子と、その手前で血を流して倒れ伏す鯛道の姿があった。


「なぁ、鯛道……? 起きてしっかりとしろよ! なんで寝てるんだよ!!」


 猫雅にとって、たった一日の出来事であっても鯛道という男は極めて不思議な人物だ。時に苦しそうな言葉を口にするが、常にどことなく安心感を与えてくれる。善と悪、その二面性を持つ人物だと猫雅は思った。


「猫雅……おやっさんはもう、死んでる。誰がやったのかは分からないけど……鯛道の身体は、冷たそうだ」


 猿弥が猫雅を宥めるように言う。猿弥自身も握りしめている手が震えていて、現実を受け入れることを強く拒否していたが。でもそれは、皆同じ気持ちでもある。

 だからなのか、迦銀が己の想いを口にした。


「俺まだまだ、おやっさんのスラム街で……生活を続けたい」

「「……うん」」


 迦銀の言葉に皆が頷き返した。ごくり、と誰かが唾を飲み込む音がやけに響く。


「猫雅も来いよ」


 猿弥が手招きをして、猫雅の心を数度温めた。しかし、迦銀だけは瞳に影を落としていて虚ろである。

 彼の虚ろな様子に気がついた者はこの場には誰一人としていなかった。



 ***



「今日も大量だ!」


 迦銀たちが帰ってきた。手に袋を下げ、その中にはたくさんの食料が入っている。

 鯛道の死から五年。あれから四人はスラムで生活を続けていた。迦銀が皆を引っ張るリーダー格、猿弥は冷静さを欠かない参謀格、桧綺は自然体な発言で皆の心を温めるように。

 そして猫雅はというと――自分の役割というものが決まっておらず、劣等感に苛まれていた。常に迦銀に守られる、そんな毎日が続く。


(俺だって、食べ物をとってくることぐらい……)


 帰宅した迦銀たちが手早く食事の支度を進めている横で、猫雅は自分だけ力になれない理由について考えていた。

 以前迦銀に尋ねたときは、


 ──お前がやるべきことじゃない。


 たったそれだけの、短い一言で返されて終わりだった。当然、これだけでは猫雅も納得できるはずがない。


(今度……こっそりとついて行ってみるか)


 そんなことを画策するしか、理由を知る手段はなかった。



 それからある日のこと。

 迦銀たち三人が出かけた後、猫雅はこっそりと家を抜け出した。目的もわからないが、ただひたすらに彼らの後を追いかける。普段、自分の兄貴分のような人たちがどこでなにをしているのか、もしかすれば力になれるかもしれないと。


「それじゃあに、いくよ……!」


 猿弥の声だった。合図を出して、それから迦銀と桧綺が動き出す。小走りどころじゃない、本気の走りで狭いスラム街の道から大通りへ飛び出た。


「あ……追わないとな」


 そろりそろりと足音を立てずに近づいて、道の角から大通りを覗く。


「あ……! コラッ! ちょ! 待て……っ、待て泥棒っ!!」

「え……なんで、だよ?」


 彼らは盗みをはたらいていた。

 それなりに裕福な人たちが一生懸命に売っている食料を。それを知ってしまった猫雅はもう、普段の食事が食べれないことを悟った。

 胃ではなく、猫雅自身の心が――あの食事を受け付けてはくれないだろう。


「もう、帰るか……」


 猫雅は喉まで込み上がった吐き気と罪悪感を必死に抑え込んで、走り抜ける迦銀たちを背に逃げ出した。

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