《同日正午。サファリランドホテル203号室。ユーベル》その二


 ノーマはユーベルにも何度か盗聴をしかけてきたし、本命のタクミにはしょっちゅうアタックしているが、むろん、Aランクの壁に阻まれている。彼女の意識的盗聴にタクミは気づいていないか、ノーマはウッカリ屋さん、と信じこんでいる。


 タクミ以外のメンバー、とくに女たちは、ノーマのに不信をいだいているようだ。


 それでも深刻な口論に発展しないのは、ノーマに言語障害があるからだ。ディスレクシアである。日常生活にはなんの支障もない。ふつうに話せるし、ふつうに聞きとれる。ただ、人より単語をおぼえにくく、文章を書くことが苦手なのだ。


 先天性の脳の障害によるもので、体のほかの部位のような遺伝子治療が難しい。クローンの脳細胞を移植しても、現在までの記憶に弊害が出る恐れがあるため、手術は見送れている。


 通常、こういう先天性の障害は、ゲノム編集されたデザイナーズ・ベイビーなら、設計の段階でとりのぞかれる。しかし、ノーマは自然交配で生まれた。


 幼いころから言語に対してコンプレックスともどかしさを持つノーマは、つい便利で手軽なに頼ってしまう。


 それがわかっているので、誰もあえてノーマを責めることはない。あたりまえの神経の持ちぬしは、ノーマの事情を知ると、多少のことは大目に見なくちゃと思うようだ。


 ユーベルはあたりまえの神経の持ちぬしではないので、エンパシーを使ったのぞき魔みたいな彼女が、まといつくハエのように、うっとうしかった。


 では、自分はどうなのだ、あの夢に寄生するクセは——と問われれば、好きでやってるんじゃない、夢のほうがひっついてくるんだとしか言いようがない。あれ以上は抑えようがないと。


 それに、あれでわかるのは、せいぜい喜怒哀楽だ。記憶や思考まで読んでいるわけではない。ノーマと自分は違う。だから、自分はタクミに軽蔑されるような人間ではない……と、ユーベルは思っていたいのだが、ほんとにそうなのだろうか?


 異常者にさらわれて、ひどい暴力を受けることがあたりまえだった日々。

 いつもまわりの大人たちの機嫌をうかがっていた。相手の考えを表情や仕草から先読みして、意にそうように行動した。少しでも苦痛をさけられるように。

 自分はとても勘のいい子どもで、たいてい、それはうまくいった。


 あれは今にして思うと、無意識にエンパシーを使っていたのではないだろうか。

 そうやって相手の感情を読むことだけが、幼いユーベルにできる、ゆいいつの生きのびる手段だったから。


 そのときの方法を今も無意識におこなっているのだとしたら、ユーベルとノーマは同じだ。まったく同質のことをやっている。ノーマを軽蔑するのは、自分を軽蔑すること。


 もしかしたら、ユーベルは自分のイヤなところを見せられる気がして、ノーマのことを好きになれないのかもしれない。


 昨夜の夢のことを考えるうちに、ずいぶん深く思案にふけっていた。気がついたときにはエレベーターの前だ。


「やだ。お化粧品、忘れた。とってくる」


 とつぜん、ノーマが言って、かけだしたので、ユーベルは物思いからさめた。

 その瞬間に昨夜の夢のなかで聞いた、かすかな悲鳴を思いだす。

 昨夜の夢は全体にあいまいで切れ切れだった。でも、これまでの予知夢がすべて現実になったことを思えば、あの悲鳴も、きっと……。


 悲鳴。階段。救急車……?

 事故だ。ノーマが階段から落ちて、そして——


(死ぬ……?)


 ユーベルは何も知らぬげに仲間たちと談笑しているタクミを見あげた。


(どうしよう。このままほっとけば、ノーマは死ぬ。うっとうしいライバルが一人いなくなるんだ。あんな盗み聞き女、どうだっていいじゃない。いなくなれば清々する。そりゃ、タクミなら助けようとするだろうけど……)


 もし、ユーベルが見殺しにしたことを、タクミが知れば……。



 ——なんで言ってくれなかったんだ。ノーマのこと。知ってたんなら、なんで!



 タクミなら、きっとそう言う。涙を流してユーベルを責め、自分を責める。

 ユーベルにそんなことをさせてしまったのは、自分の力不足だと言って、サイコセラピストを辞めてしまうかもしれない。

 タクミが苦しむところは見たくない。


 こんなことは初めてだ。生きのびるために、どんなイヤなことだってガマンしたし、自分以外の誰かが傷つけられても無関心だった。でも、今、それができない。


 ユーベルは自分で意識するまもなく、ノーマを追っていた。走りながらピアスを一対、外す。


「ああ、ユーベル、どこ行くの?」


 ビックリしたようにタクミがついてくる。が、それにもかまわず、ユーベルは全速力で廊下を走った。


(夢で見たのはどっちだった? あの廊下? それとも、こっちのまがりかど? 大丈夫。落ちついて。ノーマの部屋とエレベーターのあいだにあった階段と言えば……)


 とつじょ、ひらめいた。


(あそこだ! 非常階段)


 部屋と部屋のあいだに薄暗い非常階段があった。

 ユーベルが急いでそこにむかったとき、廊下のさきで悲鳴があがった。ノーマの声だ。


 夢中で走る。

 目の前でノーマが落ちていく。

 急な非常階段にはクッションになるものは何もない。


 ユーベルは走りながら念をこらした。念動力でノーマの体を受けとめる。つけたままの二対のピアスが、ユーベルの力をかきけして、いつもより力の伝導が遅い。それに力じたいも弱い。


 全身の血が急激に失われたような、ずっしりと重い疲労感に見舞われ、ユーベルはその場に倒れた。タクミの腕に抱きとめられる。


 階段の下を見ると、どうにかノーマは無事、床に着地していた。しりもちをついたようなかっこうで、ポカンとしている。


 夢で見た情景とはハッキリ異なっていた。

 未来を変えたのだ。

 運命をねじまげることに成功した。


 ユーベルは疲れきって、タクミにしがみついた。


「ユーベル、大丈夫かい? ノーマ、君もケガはない?」


 そこへ遅れて、ジャンやエドゥアルドがやってくる。彼らが階段下のノーマを見つけ、介抱にむかう。

 放心していたノーマはわあわあ泣きだして、何やらわめくものの、恐怖のあまり言葉になっていない。

 だが、あの感じならケガの心配はない。どっちかって言うと、ユーベルのほうが体力を使いはたしてしまった。


(やっぱり、ほっとくんだったかな。なんで、おれが嫌いなノーマのために、しんどい思いしなくちゃいけないんだろ?)


 そう思ったが——


 ふと見あげると、タクミが笑っていた。タクミは何も言わず、ユーベルを抱きしめてくれた。彼の胸はとても、あたたかい。

 これまで感じたことのない充足感をおぼえた。

 そのまま、意識は遠くなっていったけど……。

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