《同日、夕刻、リラ荘。事務所兼リビング。ユーベル》
午後四時に引っ越し作業はすべて完了した。タクミの友人というのが、みんなでよってたかって荷物をひらいていったので、プライバシーなんてあったものじゃないが、めんどうな仕分けも、あっというまに片づいた。今さら年上美人に下着を見られたからと言って、恥ずかしがるような初々しさは、あいにく持ちあわせていないし。
「ユーベル。さっき、となりの人が帰ってきたみたいだよ。二人であいさつに行こう」
室内が片づくと今度はパーティーの支度だ。にぎやかな大人たちの声を聞きながら、部屋のすみで立ちつくしていたユーベルを、タクミがそう言って誘いだした。
ユーベルはホッとした。
同じ家のなかにいるとわかっていても、視界のなかにタクミがいないと落ちつかない。
タクミは不思議な人間だ。
世の中にサイコセラピストは多いけれど、タクミみたいにそばにいるだけで気持ちが安らぐセラピストはほかにいない。
それはタクミがセラピストだからではなく、彼自身の心が清風のように澄んで爽やかだからだ。子どものように純真で、まっすくで、だがそこにはちゃんと痛みや苦しみを乗りこえてきた大人の優しさがある。一見、のうてんきに見えて、意外なほど芯は強い。
だから、みんなが彼を慕って集まってくる。心地よい風と木漏れ日をあたえてくれる大樹のもとへ、自然と人が寄ってくるように。
ただ、タクミはある方面で致命的にニブイ。
わかっているのだろうか?
友人を自称する女のほとんどが、タクミ狙いだということを。
タクミのことだから気づいていないんだろうなと、ユーベルは思う。
(絶対、阻止してやる。タクミは誰にも渡さないぞ)
ユーベルの夢は十八歳になったとき、性転換手術をして女になり、タクミと結婚すること。
ほんとは自分が男であることに、ユーベル自身は不満があるわけではない。かと言って、男でなくなることに未練もない。どっちでもかまわないから、とにかくタクミと結婚したい。タクミが異性しか受けつけないノーマル人だから、その規格にあわせようというのだ。
性転換手術と言っても、ずっと昔の不完全な手術みたいに、出たとこやひっこんだとこを切り張りするわけではない。遺伝子操作によって性染色体を組み替え、十六倍速で成長させたクローン体に、脳細胞を移植する。体の内も外も、遺伝子レベルで完全な女性体にしてくれるのだ。
手術の許可がおりるのは十八歳からだが、ユーベルは幼時に誘拐されたという事情があるので、特例が認められた。
そう。すでに認められた、という段階。
タクミにはナイショにしているのだが、半年前にホスピタルのクローン再生科で申請が受理された。
イヤになるほどたくさんの心理テストや健康診断をされたが、とにかく受理されてしまえばこっちのものだ。
ユーベルは性同一性障害とやらではなかったが、右脳発達型の脳なのだそうだ。これは本来、女性に多いので、女性体に移植しても破綻をきたす危険はないと診断された。
というわけで、半年前に女性体のクローンが、すでに再生されている。
先日、八歳に成長した新しい自分の体を見にいった。人工子宮の培養液のなかで、まだ胸もぺったんこの女の子は、陶器の人形じみて見えた。もう半年もすれば、可憐な白薔薇のつぼみみたいな少女になるという。早く、あの体に入りたい。
「それで、クローン体に脳移植したあと、今のオリジナルの体はどうするんだね? 君は若い。テロメア修復薬未使用の健康体となれば、廃棄は惜しい。冷凍保存しておくこともできるが?」
薄暗い診察室で、担当の再生医師は言った。が、ユーベルはそくざに断った。
「廃棄してください」
「でもね。クローン再生には多額の費用がかかるんだよ。二度め以降は自費負担率も上がるしね。冷凍保存のコストは二十年契約で、クローン再生の十分の一。もう一度、男に戻りたいと思ったときのために保存しておくことを勧めるね」
「…………」
「あるいはクローン培養のまにあわない患者の移植用に売却することもできる。次のクローン再生費用くらいにはなるが、そうしたほうがよくないか?」
それはイヤだと、ユーベルは思った。
辛酸をなめてきた暗い過去を刻みつけられたこの体を、誰かに譲るなんて、そんなこと考えられない。町なかでとつぜん自分の古い体と対面したときのことを考えると、おぞましさに虫酸が走った。世界のどこかに古い体が存在していると思うだけで、めまいをおぼえる。
何もかも忘れて新しい自分に生まれ変わりたいのだ。どうしてそんなもの、この世に残しておけるだろう。
「ね? そうしたらいい」
ユーベルの心は決まっているのに、執拗に勧められると、こばめない。
アンドレ・ラリック医師は外見年齢三十代初め。銀色の髪と猫のようなオッドアイ。右目は緑。左目は琥珀がかった明るいブラウンの美青年。
こういう年上の男に強く迫られると、ユーベルは断れない。そういうふうに仕込まれてきたからだ。
だまりこんでしまったユーベルを見て、ラリック医師は苦笑した。
「私は強要したわけじゃない。あと半年、時間がある。よく考えておくといい。君のご両親とも相談してね」
そう言われて、ホッとした。
(どうしようかな。あの人の目って、じっと見られると変な力があって、なんにも言えなくなるんだよね)
タクミに相談したいのだが、そうするとナイショで再生申請したことを打ち明けなければならない。切りだせないまま数日がすぎていた。
「ユーベル? 早くおいでよ。おとなりさん、どんな人かなぁ」
タクミに声をかけられて、ユーベルは我に返った。
身長百七十センチちょっとの小柄でスマートな東洋人。切長の双眸はほんとならとがった印象になるはずなのに、タクミの目は優しい。この人のそばでなら、一生笑っていられる。
ユーベルはタクミの手をとって指をからめた。こういう仕草も、タクミが人並みはずれた鈍感だからゆるされるのだ。そう思うと、世界一の恋愛オンチばんざーい、だ。
廊下へ出ると、自分たちの部屋の扉には表札がとりつけられていた。
——T・Tサイコディティクティヴ——
前の事務所から持ってきたおさがりだ。
そのドアの前に大きな青い薔薇の花束が置かれていた。
「あれ? 誰かの引っ越し祝いかな?」
タクミはなにげないようすで花束をひろうが、ユーベルはイヤな感じがした。キレイな花だけど、毒々しいような念波を感じる。
「……タクミ。それ、すてたほうがいいよ」
「なんで? こんなにキレイなのに。でも、誰が持ってきたんだろ? うーん。カードも入ってないか」
タクミは何も感じていないらしい。Aランクのタクミはエンパシーのコントロールが完璧なので、ふだんはマインドブロックをかけている。みだりに他人の心を盗み見たりしない。そのせいだ。
花束のなかにゴソゴソ手を入れていたが、
「あいたッ。トゲ刺さった!」
悲鳴をあげてぬきだすと、指のさきから、だらりと血が流れた。
なぜか知らないけど、ユーベルは悪い予感に胸がドキドキした。
「ほら、言わんこっちゃない」
「大丈夫。大丈夫。これくらい——おーい、誰か、花瓶にいけといて」
扉のなかに首をつっこんで花を渡し、タクミは歩きだす。しょうがなく、ユーベルも追っていく。
新しい住居は五階建て。
中央に三階まで吹きぬけのエントランスホール。ホールをかこむU字の回廊。
ホールのつきあたりにエレベーターがあり、左右に各階二戸ずつの部屋がある。
四、五階はフロアが半分ずつ一戸だ。
三階のタクミとユーベルの部屋は東南かどだ。エレベーターから言うと奥側だが、表門から言うと手前側。
エレベーターと部屋のあいだに隣室のドアがある。隣人の玄関に表札はなかった。
「ごめんください。となりに越してきた者です。あいさつにあがりました」
出てきた男を見て、ユーベルは思わず声をあげそうになった。
こんなぐうぜん、あるのだろうか?
となりの住人は、ラリック医師だった。
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