4.ドッペルゲンガーと邂逅

 クロガネが乗る自転車が、猛スピードで突っ込んできた。

 事前に鳴らしたベルの警告もあって、詐欺被害者の男達は咄嗟に左右に分かれる。

 空いた道を自転車が通過し、清水と優利の前でドリフトして急停止。

 両者の間に、クロガネが割って入った。

「黒沢さん? どうしてここに?」

 突然の乱入に戸惑いつつ、その場に居た全員を代表してクロガネに訊ねたのは。

 意外にも、刃物を持った男達の一人だった。

「こんにちは、本田武史ほんだたけしさん。貴方がお捜しの青葉信子さんの所在が解りました」

 クロガネは自転車から降りてそう言うと、その男――本田が眉をひそめ、銀子の腕の中に居る松村彩子を指差す。

「いや、何言って……信子なら、そこに居るだろ?」

 そう疑問を口にすると。

「青葉信子? ちょっと待て、あの女は斉藤友美じゃないのか?」

「いや、坂口きよみだ」

「お前ら誰のことを言ってんだ? 倉橋素子だろ?」

 他の男達が、困惑した様子で口々に違う女の名前を挙げる。

 先程まで殺気で張り詰めていた空気が、僅かに揺らいだ。

「どうやら他の方々も、本田さんと同じ女性をお捜しのようですね。とりあえず、最初にハッキリさせておきましょうか」

 クロガネは背後を振り返り、松村を見た。

「初めまして、クロガネ探偵事務所の黒沢鉄哉です。失礼ですが、貴女のお名前を教えてくれませんか?」

「えっ、アッハイ」

 松村は戸惑いつつも頷き、名乗る。

「私の名前は、松村彩子です」

 混乱し、戸惑う男達に、ごほんと咳払いをするクロガネ。

「……状況を整理しましょう。

 まず数日前、私は本田武史さんから人捜しの依頼を受けました。多額の金を騙し取った結婚詐欺師の女性――青葉信子を捜して欲しいと。

 そして同時期に、その詐欺師と同じ顔の女性――松村彩子さんがストーカー被害の相談を、そこに居る白野探偵社の人達に持ち掛けました」

 一度言葉を切り、クロガネは本田たちが手にした凶器を見やる。

「そのストーカーは恐らく、同じ結婚詐欺被害を受けたあなた方の誰かだとは思います。動機はその手にある凶器を見れば、語るまでもないですね。

 しかしながら、いくら顔が瓜二つといえど、人違いで無関係な人間が殺されては堪ったものではありません」

 自転車のカゴから大判の茶封筒を取り、本田に差し出した。

 封筒は二つあり、差し出したのは右上に『①』と手書きでナンバリングされている方だ。

「これは?」

 封筒を受け取った本田が、クロガネに訊ねる。

「貴方が捜していた青葉信子の資料です。現住所から彼女が関わった詐欺行為を裏付ける証拠の数々。青葉信子本人であることを証明する科学的根拠もまとめてあります。それは同時に、そこの松村彩子さんは完全な赤の他人であると証明するものでもあります」

 本田は資料に目を通す。他の三人も隣から覗き見る。

 やがて、資料を封筒に戻した本田は顔を上げた。

「……ありがとう、探偵さん。ここまで調べてくれて」

 男達は刃物と殺気を収め、松村に向き直る。

「松村さん、でしたか? こちらの勘違いで怖い思いをさせてしまい、大変申し訳ありませんでした」

『申し訳ありませんでしたっ』

 腰を折り、深々と頭を下げて謝罪する。

「えっと……」

 当の松村は困惑しているが、どうやら事が丸く収まりそうだ。

 張り詰めていた空気が弛緩する。


「ところで」


 不意に、クロガネが疑問の一石を投じた。

「人違いだったとはいえ、どうして本田さん達はここに松村さんが居ると解ったんですか?」

 男達は顔を見合わせると、代表して本田が答える。

「PIDに、非通知で電話があったんですよ。女の声でここの住所を教えて、『貴方がお捜しの女性はここに現れる』って」

 他の三人も頷いている。

「それって……」

 銀子が詳しく訊ねる前に、本田は頭を下げた。

「……すみません、急用が出来たのでここで失礼します。報酬はあとで黒沢さんの口座に必ず振り込ませて頂きます」

 本田たちは一礼すると、身を翻して立ち去ろうとする。

「いや待て! 傷害目的で刃物を所持していたことは見過ごせんぞ!」

 警告を無視して走り去る本田たちを、慌てて清水が追い掛けた。


 そしてその場には、銀子、優利、松村、そしてクロガネの四人が残される。


「……お礼を言っておくべき?」

「必要ない。お互い、仕事だっただけだ」

 不機嫌そうに訊ねる銀子に、首を振ったクロガネは優利を見た。

「藤原優利くん、だな。ウチの助手と同じクラスの」

「えっ、アッハイ。そうです」

 不意に声を掛けられて戸惑う優利に。

「初めまして、黒沢鉄哉です。いつも美優がお世話になってます」

 深々と一礼。

「あ、いえ、ご丁寧にどうも。藤原優利です。こちらこそ、安藤さんにはお世話になってます」

 挨拶を交わす助手と同業者を見た銀子は「律儀だな」と呟く。

「それで、黒沢はどうしてここに? アンタの依頼人に発信機でも付けてたの?」

 クロガネならやりかねない。

「方法に関しては企業秘密だが、マークはしていた。そちらの松村彩子さんもな」

「わ、私もですか?」驚く松村。

「結婚詐欺師・青葉信子と同じ顔をしている以上、ウチの依頼人が勘違いで危害を加える可能性があったから。いや本当に、間に合って良かった」

 肩を竦めたクロガネは、改めて銀子たちに向き直る。

「そちらはどうしてここに? 本田さんのように、非通知の連絡を受けたのか?」

「いや、私たちは松村さんのドッペルゲンガー……もとい、同じ顔の女性を見掛けて追い掛けてきたら、ここに」

「本田さん達が現れたタイミングを考えるに、どちらも同一人物――いや、同一犯に誘導されたんでしょうね。目的は恐らく……」

 銀子の説明に続いた優利が、不意に言葉を濁した。

 彼の視線の先には、状況がよく呑み込めずに困惑する松村彩子。

 果たして、彼女に残酷な事実を告げるか否か悩んでいると。


「犯人の目的はやはり、本田さん達に松村さんを殺させるつもりだったんだな」


 クロガネの発言に松村は息を呑み、優利は思わず目を剥いて彼を見た。

 銀子に至っては、非難がましい視線をクロガネに向けている。

「……最低ね。空気を読まないなんて――?」

「私を殺させるって、どういうことですか……?」

 眉をひそめた銀子と動揺する松村に、クロガネは淡々と真実を告げる。

「一言で言えば、貴女はだ」

「身代わり?」

 首を傾げる銀子に、自転車のカゴにあった『②』とナンバリングされた封筒を手渡す。

「これは?」

「青葉信子を調べていた過程で見付けたものだ。おかげで松村さんのことも知ったよ」

 資料に目を通した銀子の表情が、みるみる驚愕の色に染まっていく。

「青葉信子はやりすぎたんだ。多くの男性から恨みを買い、身の危険を感じてしまう程に。そこで、自分の身代わりとなる女性を探していた。

 ――現在交際している、

「身代わり、美容整形……まさか」

 優利がハッとして、松村を見た。

 本人も気付いたのだろう。その顔は蒼白になって震えている。


「松村さんは最近まで、整形手術を受けていた。



 ***


 昔からパッとしない、地味な顔が私のコンプレックスだった。


 色々な化粧品コスメを試してみたけど、元の地顔が醜いせいか、さほど効果を実感できなかった。


 そこで学生時代から溜め続けていたアルバイト代を注ぎ込み、整形手術を受けたのは私の人生において一大決心だった。


 新しく生まれ変わった私の顔は、テレビや雑誌の向こう側に居るようなモデルのようで、とても綺麗で、嬉しかった。


 美顔効果か、大手企業に就職して間もなく受付嬢を任され、社内でも男女問わず人気者になれた。


 整形して良かった。変わることが出来て良かった。


 これからの人生を充実したものにしようと、あの時決断して良かった。


 ――そう、思っていたのに。


 私の新しい顔は。

 私の大きな決断は。

 私のこれからの人生は。

 私の存在そのものは。

 すべて。

 誰かの身代わりになるためだけに、用意されたものだったの……?



 ***


「青葉信子と共犯グルの整形外科医は、出目治でめおさむ。彼に関する資料は……申し訳ないが、少ししかない。あとは任せた」

 手柄に繋がる情報を譲ったクロガネは、自転車に跨る。

「どうして私達にこれを?」資料を片手に銀子が訊ねる。

「たまたまだよ。俺が受けた依頼は青葉信子の所在に関するものだけだ。それ以外は必要ない」

 クロガネは松村を一瞥する。

 真相を知った彼女は、ショックのあまり茫然自失としている。

白野探偵社そちらが受けた依頼は、彼女の護衛だろ?」

「……そうよ」

「なら、最後までやり遂げろ。依頼人の身の安全は元より、精神こころも守ってこそ一流だ」

「アンタのせいで、彼女が余計なショックを受けたんだけどっ」

 どの口が言うのか、とまなじりを吊り上げる銀子に対し、クロガネは飄々ひょうひょうとしている。

「遅かれ早かれ、いずれ本人も知ることだ。ショックを受けるなら身近に居るお前達よりも、部外者の俺から教えた方がまだマシだろ?」

「それは、そうだけど……」渋面を作る銀子。

 着信音が鳴る。

 クロガネがPIDを取り出して確認する。

「俺の仕事は終わった」

 どうやら、本田がクロガネの口座に報酬を振り込んだようだ。

「もうすぐ、元凶の青葉信子の命運も尽きるだろう。いずれマスコミにも取り上げられて真相も公になるだろうし、松村さんに危害を加えようとする輩は居なくなる筈だ」

「……待ちなさい。今気付いたけど、彼らはまさか……!」

 銀子がそこまで言って優利も気付く。

 真実を知った男達が向かう先は。

「当然、青葉信子本人に復讐するだろうな。居所も解ったんだし」

 さも当然のようにクロガネは言った。

「何考えているのよッ!」

 銀子は彼の胸倉を掴み、叫ぶ。

「アンタの依頼人が、人殺しをするかもしれないのよッ! 明らかに殺人幇助ほうじょじゃないッ! それでも探偵ッ!?」

「俺が受けた依頼は、青葉信子を見付けることだ。それが達成された今、本田武史はもう依頼人ではないし、無関係だ」

 クロガネは銀子の手を掴んで逆側に軽く捻る。

 手首関節を極められ、銀子は堪らず手を放した。

「ここから先は、彼らの自己責任だ」

 身だしなみを整えながら、クロガネは続けた。

「本田武史に渡した資料は、青葉信子の犯行を裏付ける証拠だ。それを警察に提出すれば、彼女は逮捕されて法的処罰を受けることになるだろう。訴訟を起こせば充分に勝てるし、慰謝料として騙し取られた金も取り戻せる筈だ」

「……彼らの手で、物理的な制裁が加えられることになる可能性は?」

 銀子の問いに、

「それもありえるな」

 クロガネは冷淡に頷く。

「だけど言っただろう? 彼らの報復が社会的にせよ物理的にせよ、後のことは自己責任だと。その件に関して、俺はすでに無関係だ」

 正論だ。あまりに正論過ぎて、銀子も優利もぐうの音も出ない。

 加えて、青葉信子は多くの男性の人生を狂わせた結婚詐欺師だ。結果的に見殺しにしてしまいかねないとはいえ、一介の私立探偵に犯罪者の擁護を強要させるのも筋違いだろう。

「いずれにせよ」

 クロガネは自転車のハンドルを握り、ペダルに足を乗せる。

「全ての元凶である青葉信子に、同情も擁護も必要ない。自業自得だ」

「……その通りです」

 銀子と優利は振り返り、松村彩子を見る。

 最大の被害者である彼女は、仄暗い眼と笑みを浮かべ、クロガネを支持した。

「……俺はもう行く。マツヨマートのタイムセールが、もうすぐ始まるんでな」

 じゃあな、とクロガネは自転車を漕いでその場をあとにした。


 いつしか陽が沈み、早い夜を迎えていた。


 優利は、その場に佇む銀子の肩に手を置く。

「……ユーリ」

 力なく顔を上げる銀子に、大きく頷く。

「ボクらはボクらの仕事を、今出来ることをやりましょう」

「……うん、そうね」

 銀子の目に、火が灯る。

「松村さん、ご自宅までお送りします」

「えっ。でも、もう私の護衛はしなくても良いのでは……?」

 松村は、どこか遠慮がちに訊ねた。

「当面の危機が去っても、マスコミの取材が来るでしょう。ほとぼりが冷めるまで、お付き合いしますよ。具体的な金額は応相談ですが、その間の報酬は安くしておきます」

 それを聞いて、松村は安堵の表情を浮かべた。

「ありがとうございます。それならもう少しだけ、お世話になります」

 こちらこそ、と優利も気を引き締める。

 一流の探偵は依頼人の精神こころを守ってこそ。クロガネの言葉を胸に刻む。

「それで早速ですが、これから買い物に付き合って貰っても良いですか?」

 遠慮がちな松村の申し出を快諾する。

「構いませんよ。どちらまで?」

「ヘイワスーパーまで。あそこ、キャベツとモヤシが安いんです」

「なるほど。その買い物上手は見習いたいものです」

「いえ、私はただ、そうせざるを得ないというか……その……」

「理由はお察しします。どうか、お気になさらず」

 言い淀む待つ松村に、銀子は気さくに返した。

 一方で優利は、先日松村の自宅に上がった時のことを思い返す。

 松村彩子が節制を心掛け、質素な生活を送っている理由とは、整形手術に多額の金を投じたためだった。

 まさかそれが、今回のドッペルゲンガー事件(便宜的にそう呼ぼう)の始まりだったとは思いもよらなかったが。


「そういえば」

 ふと、思い出す。

 自分たちをこの工事現場にまで導いたドッペルゲンガーは、どこに行ったのか。

 もし彼女が青葉信子本人だとしたら、松村が身代わりとして殺される場面を見届けるため、この場に居てもおかしくない。

 見届けずに離脱しようものなら、後から現れたクロガネの目に必ず留まる筈だ。彼は青葉信子のことを調べて顔も知っている上に、この工事現場の出入口は一つしかないのだから。

 仮にクロガネの目を掻い潜ったとしても、彼の助手である安藤美優は絶対に見逃さないだろうし、見落とさないだろう。


 周囲を、見渡す。

 周囲を、見回す。

 そして、気付く。


「……

「どうしたの、ユーリ?」

 愕然とする助手を見て、銀子が眉をひそめる。

「ないんです」

「何が?」



 銀子も松村も周囲を見回す。

 いくら陽が落ちようとも。いくら暗くなろうとも。

 黒い地面の上に咲いた一輪の赤い花は、決して見落とす筈がない。

 その筈だった。


 ドッペルゲンガーが持っていた赤い日傘は、その存在が最初からなかったかのように、跡形もなく消えていた。



 ***


 ――同時刻。とある交差点にて――


「ったく、ついてない。ここの信号、長いんだよな~」

 足止めした赤信号を睨み上げ、クロガネは自転車を停める。

 タイムセールには……ギリギリ間に合いそうにない。

 溜息を一つ。

(……白野たちを工事現場あの場所に誘導した存在、か)

 信号待ちの間、彼女たちと交わしたやり取りの中で、引っ掛かっていたことを思い返す。

 多機能眼鏡のフレームに指を添え、探偵事務所で待機している相棒に声を掛けた。

「美優、白野銀子や松村彩子をずっとマークしていたんだよな?」

『はい、勿論です。今もマークを継続中です』

「よし、今回の依頼は達成できたから解除して良いぞ。それより、さっきの工事現場まで白野たちが移動する際、彼女たちを誘導した奴が居たらしい。それが何者か解るか?」

『………』

「? 美優?」

 突然黙り込んだ美優に訝しむ。

『……ごめんなさい。白野さん達を誘導した人物、ですか?』

「そうだ」


『いえ、?』


「……何だと?」

 信号が青になるも、クロガネはその場に留まって通話を続ける。

「衛星や付近の防犯カメラから、白野たちを工事現場に誘導ないし先導した奴は居なかったのか?」

 改めて訊ねる。すぐに応答が返ってくる。

『はい。警察署から出た皆さんが、何やら血相を変えて急に駆け出す様子は見て取れましたが、私のには、皆さんより先行しているとみられる存在は映っていません。白野さん達の意思で、工事現場に向かったのではないのですか?』

 困惑する美優の声に、嘘は感じられない。彼女は嘘を言わない。

「それじゃあ一体……」


 再び信号が赤に変わる。

 目の前を横切る車の群れ。

 その向こう側に。


 姿


「美優。今、交差点の向こうに青葉信子が居る」

『……どこですか?』

 美優の疑問に、苛立ちを覚えた。

「正面、十二時の方向、交差点の向こう側。俺の眼鏡と同期しているなら視認できるだろ。夜なのに季節外れで真っ赤な日傘を差してる女が」

 美優の一言が。

 クロガネの言葉を、思考を遮る。

「何?」

『確かに、クロガネさんの眼鏡と同期しています。視界も共有しています。ですが、私の眼に、姿

 絶句する。

『さらに補足です。青葉信子のPID信号は彼女の自宅内から発信されています。自宅セキュリティも本人のバイタルサインを確認しているため、クロガネさんの近くに青葉信子本人は存在しません』

 異常。異状。違和感。疑念。疑問。

 最先端科学技術の結晶ともいうべきガイノイド相棒が認知できない存在。

 常軌を逸した存在が、目の前に居る。


 ふと、交差点の向こう側に居る女と、目が合った。

 途端。


 ぐにゃり、と彼女の顔が歪んだ


 そして次の瞬間には。


 彼女は、青葉信子ではなくなっていた。


「――!」


 クロガネは思わず息を呑む。

 果たして、目の前に現れたのは。

 二年前に他界した、頼れる相棒の開発者母親

 かつてクロガネが守ると誓った少女ではないか。

 生きていれば今年で一八歳になる彼女は、生前よりも綺麗で、大人びて見えた。


「――――」


 少女は、ぞっとするほど綺麗に微笑むと。

 踵を返し、背を向けて歩き出す。

 季節外れの赤い花が、遠ざかっていく。

 秋の夜に日傘を差して歩く美少女。

 ここまで目立つ存在であるのにも拘わらず、彼女の近くに居る通行人は特に疑問を抱かず、目も向けない。


「待――」

 制止の声は、目の前を横切る大型トラックの轟音によって遮られる。

 視界が一瞬、金属の巨体によって遮られる。

 一瞬後、トラックが通過して視界が晴れたその先に。


 赤い花は、姿を消していた。


 信号が、青になる。

 必死にペダルを漕いで、自転車を走らせる。

 道路を渡り、彼女が居た場所で停まり、辺りを見回す。

 だが。

 赤い日傘の少女は、影も形も跡形もなく消え失せていた。


『……クロガネさん? 大丈夫ですか?』

 心配する美優の声。彼女には、本当に見えていなかったようだ。

「……ああ、大丈夫。ちょっと、狐につままれた気分だ」

 深呼吸。

 息を深く吸い、長く吐き出す。

 思考を、切り替える。

「ごめん、もう大丈夫だ」

『本当ですか?』

 なおも心配そうな美優の声。

「……狐といえば、夕飯はきつねうどんにでもしようか。マツヨマートは、うどんと油揚げが最安値だったな」

『大丈夫そうですね』

 安堵する美優の声。

「それじゃあ、買うもの買ったらすぐに帰るよ」

『解りました。お気を付けて』

 通信を切る。


 ふぅ、と息をついたクロガネは軽く頭を振り、ペダルを踏む足に力を込めた。


「ドッペルゲンガー、か……」


 ふと口から漏れたその呟きは。

 風に紛れ。流され。

 溶けて消えた。




 一時間後、清水から連絡が入る。


 青葉信子が、本田武史らに殺害されたと。

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