幕間4
青葉信子が死んだ。
診療時間を迎え、一足早く勤め先の病院から帰宅しようとした整形外科医の出目治は、たまたま待合室にあったテレビニュースの速報でそれを知った。
報道によれば。
男性四人が刃物を不法所持していたとして、職務質問をしようとした警察官から逃走。
青葉信子が住んでいたマンションの管理者を脅して彼女の部屋に侵入し、室内に居た彼女を何度も刃物で刺して殺害したとのことだ。
その後、追い付いた警察官が主犯格である本田武史ら男性四人を、殺人の現行犯としてその場で逮捕したとのこと。
……事件発生からまだ時間が経過していないのか、現場の映像はなく、報道の内容もそこまでだった。
どうやら、自分が用意した『身代わりの女』が死んだらしい。
安堵と達成感に笑みを浮かべた出目は、病院から出た。
***
青葉信子との出会いは、偶然だった。
半年ほど前のある日の早朝。
日課でもあるジョギングで自宅近くにあった公園を通った際、広場のベンチに座って泣いていた彼女に声を掛けたのが始まりだった。
聞けば彼女は結婚詐欺師で、自分がこれまで騙してきた男達に報復されると怯えていたらしい。身の危険を感じたものの、詐欺師だけに警察に頼ることが出来ず、途方に暮れて泣いていたという。
完全に自業自得。
完全に因果応報。
本来であれば、犯罪者に肩入れして匿う必要はない。
常識的に考えるならば、罪を償う意味でも身の安全を確保する意味でも、彼女に自首を促すか警察に通報すべきだっただろう。
だが。
出目治は、彼女を助けた。
助けてしまった。
自分から詐欺師であることを明かしてしまう程、相当に追い詰められていたのだろう。彼女自身が犯した過ちによって、命が狙われているのだから。
この時の青葉信子は、誰一人として味方の居ない、とても弱々しい存在だった。
持ち前の善性か、庇護欲が駆り立てられた気の迷いか。
或いは、青葉信子の容姿と魔性に魅入られたか。
出目治は、彼女を匿ってしまった。
その日から、彼の運命は魔女によって歪められていく。
涙ながらに感謝された。
甲斐甲斐しく身の回りの世話をしてくれた。
夜は美しい彼女の体に溺れ、夢中になり、これまでにない快楽を味わった。
彼が、彼女の虜となるまで、そう時間は掛からなかった。
いつしか二人の立場は逆転し、魔女に忠誠を誓う下僕のような関係となった。
それでも、出目治は幸せだった。
美しい彼女が自分を頼ってくれている。感謝してくれる。自身の体を差し出してくれる。傍に居てくれる。
それだけで幸せだった。
やがて彼女は、匿ってくれた礼をするため、仕事を再開したいと言い出した。
その仕事とは言うまでもなく詐欺だが、すでに共犯者として目覚めた彼は、彼女の助けとなるべく、身代わりを作ろうと提案した。
彼女にそっくりなドッペルゲンガーを作り。
彼女に報復しようとする男たちに差し出す。
身代わりを殺した男たちも捕まり、晴れて青葉信子の身の安全は確実なものとなる。
幸いにも、出目は美容整形外科医であり、顔全体を整形したいと相談に来た女性に心当たりがあった。
まさしく、これは運命だ。
青葉信子のためならば、自分は悪魔になっても構わない。
そう告白し、本物の結婚を申し込み、彼女はそれを受け入れた。
二人の幸せのため、松村彩子には身代わりとなってもらう。
そうして暗い情念を手にしたメスに宿し。
松村彩子という名の女性を、『青葉信子のドッペルゲンガー』に作り変えた。
***
AI車が自動運転で自宅に向かう中、出目はPIDで『本物の青葉信子』に電話を掛ける。ついでに、カーナビテレビの電源を入れてニュースにチャンネルを合わせた。
自動運転システムが普及した今、運転中の端末の操作や通話は何も問題がない日常的な行為だが、昔は重い罰則規定があったらしい。
確かに、AI車のない時代でのながら運転は危険すぎるから無理もない。
……呼び出しのコール音が車内に流れる。
ニュースでは、身代わりが殺された情報が流れている。
警察の捜査も、少しは進展しただろうか。
念には念を。身代わりが捜査を混乱させている内に、信子を本土へ一時避難させた方が良いかもしれない。
その打ち合わせもしようと、信子の応答を待つ。
……呼び出しのコール音が車内に流れる。
……相手は、まだ出ない。
「?」
妙だ。彼女なら数コールですぐに応答する筈なのに。
……呼び出しのコール音が車内に流れる。
『ここで新たな情報です』
――ニュースでは、変化があった。
『殺害されたのは――鋼和市に住む無職・青葉信子さん、二七歳。
青葉さんは結婚詐欺師として、警察から指名手配されており、青葉さんを殺害した男性らは、過去に青葉さんから結婚詐欺の被害を受けていたことが警察関係者の取材で解りました。
警察は、青葉さん殺害の動機は怨恨による復讐と見て慎重に捜査しています』
「…………え?」
……呼び出しのコール音が車内に流れる。
……相手は、もう出ない。
……青葉信子は、もういない。
***
身代わりではなく、本物の青葉信子が死んだ。
そう脳が理解した瞬間、出目は車を引き返させ、自身の職場である病院に向かった。
目的は、信子の顔に似せて整形した彼女の身代わり――松村彩子のカルテだ。
信子が死に、彼女が殺害された理由が結婚詐欺の復讐だと明らかにされた今、警察の捜査は共犯者である出目治にも及ぶだろう。
そうなる前に、証拠を隠滅する必要がある。
同僚の目や記録も残ってしまうだろうからと警戒して、手術後すぐに破棄しなかったことが裏目に出てしまった。
呼吸は浅く、早く。
心臓が早鐘を打つ。
病院に到着する。
車から降り、地面を踏み締める感覚もないまま早足で歩く。
背中を流れる冷や汗が止まらない。
交際していた信子の死による動揺。
共犯者として裁かれる不安と恐怖。
それらを理性で無理矢理抑え込み、暗くなった待合室前を通ろうとする。
「あら? 出目先生、また忘れ物ですか?」
受付で後片付けをしていた女性看護師が、そう訊ねてきた。
「え、ええ、そんなところ……また?」
眉をひそめる。
「ええ。十分くらい前に、一度戻ってきましたよね?」
何を言っているんだ、この人は? 混乱しつつも言葉を返す。
「い、いや、私は今初めて戻ってきて……」
「あれ? そうでしたか?」
不思議そうに首を傾げる看護師。
「さっき、青葉ナントカって女の人が殺された事件で、『警察に提供する重要な証拠がある』とか言って戻って来ませんでした?」
……今、なんと言った?
「その重要な証拠って、まさか保管庫にあった?」
「ええ。とある患者さんのカルテでしたよ。確か、先生が担当した――」
最後まで聞かず、出目は事務室へ向かって走り出す。
その奥で、厳重に管理している保管庫の鍵を開けて中を改める。
直近で担当した患者。
自ら手術に携わった患者のカルテ。
血眼で必死に探す。
やがて、出目は動きを止め、両膝を着いた。
「……ない」
絶望に染まった声音で呟く。
――松村彩子のカルテが、消失していた。
***
出目は重い足取りで、自宅マンションに向かっていた。
ここまでどうやって辿り着いたか、あまり憶えていない。
確か、保管庫を散らかしたまま出てしまった。
残っていた看護師が何か文句を言っていた気がする。
自動運転できるAI車で良かったと、今更ながらに思う。
こんな精神状態でマニュアル運転していたら、確実に事故を起こしていた。
「いずれ、警察も私の元に……私は、もう……信子……」
ブツブツと呟きながら、青い顔で歩いていると。
「あれ? 出目さん?」
背後から掛けられた声に振り向くと、大家の男性が居た。
「ああ、大家さん。ただいまです」
「おかえり……って、大丈夫ですか? 顔色が悪いけど」
「ええ、まぁちょっと……先程、知人が亡くなったもので」
適当に応える。
「そうでしたか、それはご愁傷様です……って、あれ? 変だな」
急に大家が首を傾げた。不思議そうに出目を見やる。
「何か?」
「いやね、さっき出目さんが『部屋の鍵をなくしたので開けてください』って言ってきましたよね?」
大家の言葉に、冷たいものが背中を走る。
「……さっき? い、いえ、私は今帰ってきたばかりですよ。部屋の鍵も……ほら、この通り」
ポケットからキーホルダーを取り出し、車の鍵と一緒に取り付けられた部屋の鍵を見せる。
「あれ? それじゃあ、さっきの出目さんは――」
「ッ! すみません、失礼します!」
血相を変え、出目は駆け出す。
エレベーターの呼出ボタンを何度も押す。
ケージが到着するまで待てず、階段を必死に駆け上がった。
やがて。
自室の扉の前に到着する。
乱れた息を意識的に整え、ドアの取っ手を掴み、下ろして引く。
――鍵は、開いていた。
ごくりと唾を飲み込み、見慣れた部屋へ足を踏み入れる。
暗い。電気は点けていない。
奥にある書斎のドアが僅かに開いており、その隙間から光が漏れていた。
「…………」
息を潜め、鞄から護身用のスタンガンを取り出す。
玄関付近にあるスイッチに手を伸ばす。
灯りを点ける。
明るくなった通路に、侵入者の足跡があった。
土足で上がり込んだらしく、足跡は書斎に向かっている。
足跡のサイズからして恐らく男性。他の場所に移動した形跡はない。
明かりを灯したにも拘わらず、書斎から出てくる気配はない。
極限状態でありながら、僅かに残された冷静な思考が囁く。
――すぐに大家や警察に連絡と通報をするべきだ。
PIDを取ろうとした時、そのPIDから着信音が鳴り響いた。
心臓が口から飛び出るくらい驚くが、音に反応して侵入者が出てくる気配はない。聞こえなかったのだろうか?
そろそろとポケットからPIDを取り出し、確認する。
……メールのようだ。差出人の名前は――
「ッ!」
息を呑む。心臓も一瞬止まったかもしれない。
【差出人】ドッペルゲンガー
仮に冗談や悪戯だとしても、今この状況で『ドッペルゲンガー』だなんて……!
混乱と恐怖に染まった目で、メールの本文を確認する。
――ひとりで 書斎に こい
――ふりかえらず すぐに こい
――さもなくば 死ぬ
呼吸が、乱れる。
早鐘を打つ心臓がうるさい。
全身を流れる冷や汗が止まらない。
寒い。恐い。冷たい。怖い。
これまで感じたことのない未知の恐怖と不安に駆られ、思考が真っ白に染まる。
出目はすでに冷静さを失っていた。
発狂に至らなかったのが不思議なくらいだ。
スタンガンを持った手を前に突き出しつつ、恐る恐る足を運ぶ。
書斎のドアを、開ける。
室内に、足を踏み入れる。
高級な革張りの椅子。
その背もたれ越しに、何者かが座っているのが見える。
デスクトップPCをいじって、出目の個人情報を勝手に閲覧していた。
やがてキーを叩く音を止まる。
くるりと椅子を回して『それ』は振り返った。
そこには。
足を組んで座り、
「おかえり」
邪悪な笑みを浮かべた、
出目は絶叫し、彼の意識はそこで途切れた。
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