柚子

平中なごん

壱 原理

 得体の知れない賑わいと高揚感が街全体を包み込んでいた。


 例えば、ショウウインドウに飾られたキラキラと輝く金・銀・赤の星や玉だの、純白の綿を千切って散らかされた偽物の雪だの、高級そうなコートを纏って、さも物質文明を謳歌する快活な女性を演じさせられているマネキン達だの、そうした浮かれ気分のものの詰まった四角いガラス張りの部屋が、まるでドラマの一場面を切り取ったかのように非現実の空間を点々と大通りに造り出している。


 また、カラス瓜の蔦の如く街路樹に絡みついた青白い光の照明が、冷たい冬の外気とも相まって、こんな眩い雪など現実にはありえないはずなのにあたかも雪景色のような錯覚を人々に抱かせ、その幻術を見せる樹々の下を行き交う人々は、どこか落ち着きのない様子で笑い声を弾ませ、その手にある紙袋やリボンの施された包みの上には、どぎつい赤と緑の色ばかりが溢れ返っている。


 なんてことはない。この時期になればどの街にも訪れる冬の風物詩、クリスマスの生み出す空気である。


 そんな地に足のつかない空気の満ち満ちた街を彷徨い歩きながら、私はその賑わいと活気にいよいよてられ、かつてムンクがオスロの高台で世界の叫びを聞いた時のような、恐慌、あるいは嫌悪感にも似た眩暈を覚えていた。


 こんなことを言うと、ああ、こいつはクリぼっち・・・・・――即ち恋人も親しい友人もおらず、クリスマス・イブを独り淋しく過ごす哀れな人間なのだな…などと、心理カウンセラアよろしく、したり顔でプロファイリングする者もいることだろう。


 だが、それは否だ。


 そんな他人の価値観でしか己の幸福を推し量れない、浅はかで低俗的な輩と一緒にされてはそれこそ失礼千万である。


 それでは、神の子イエスの生誕祭であるというキリスト教的意味合いを忘れ、無知にも〝鶏肉を食う日〟あるいは〝恋人達の記念日〟の如く誤認したり、あまつさえ、商業主義的な金儲けの道具にこの聖なる日を利用している現代日本の様相が気に入らないのか? と問われれば、それもまた否である。


 そんな怒りを覚える敬虔なクリスチャン達には敬意を表するとともにある種の親しみすら感じるが、私は彼らよりももっと原理主義者ファンダメンタリストなのだ。


 クリスチャンを除けば、正式にキリスト教の教義について学ぶこともなく、中途半端にこの祝日を年中行事の一つに組み込んでしまった現代日本人において、この〝クリスマス〟というものをイエス・キリストの誕生日であると信じて疑わない者がおそらく大半を占めるであろう。


 だが、それは古代ローマ帝国の時代において、皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を国教化して以降に作られた概念である。


 そもそも、12月25日に救世主ハリストスとなるナザレのイエスが生まれたなどという記載は、新約聖書のどこにも記されてはいない。


 大切なのは〝復活した日〟であり、もともと彼の誕生日についてはあまり興味がなかったらしく、初めてキリスト教会全体で教義の統一化が図られた紀元325年の第一ニカイア公会議においても、それにはまったく触れられることなく終わっている。


 故にキリスト教会もこの日を誕生日・・・ではなく、あくまで「イエスの誕生を記念する日」であるとしており、一部のプロテスタント系教会ではクリスマス自体を認めていなかったりもするくらいだ。


 つまりはだ。史実からすれば、クリスマスはキリスト教起源の祭ではないのである。


 勿論、セントニコラウスがプレゼントをくれる存在として付随しているのも後付けだ。


 日本ではそれが当たり前だと信じて疑う者もないが、ロシアではジェド・マロースという別の爺さんだし、アイスランドではユールラッズなる12人の妖精だし、さらにはイタリアなど、それは魔女ベファーナの手による仕業であり、他方、セント・ニコラウスの記念日はといえば、本来、それは12月6日や19日など微妙に近しいが違う日である。


 では、クリスマスがもともとはなんの祭であったかといえば、その一つはやはり古代ローマの時代、紀元一世紀から四世紀にまで遡る。


 当時、帝国内では下級兵士層を中心にして〝ミトラス教〟という密儀宗教――即ち、入団者のみが参加できる秘密の儀式を伴った宗教が広く信仰され、しまいにはローマ皇帝からも信者が出るくらいの高い人気を集めていたという。


 そこで信仰される〝ミトラス神〟は、イラン・インド神話の契約と司法と光明の神ミスラが元であり、ゾロアスター教の最高神アフラマズダーと表裏一体であるとも云われる。


 この非常に力ある神の信仰が中東から西アジア、地中海沿岸にまで広がり、インドではミトラ、マニ教ではミフル、ギリシア・ローマではミトラスと、各地で微妙に呼び名や信仰形態の異なる神へと進化していった。さらには仏教におけるマイトレーヤー――弥勒菩薩、ユダヤ教の天使メタトロンなどもこの神が元となっているようだ。


 そして、古代ローマにおいて12月25日は〝ナタリス・インウィクティ〟と呼ばれる、〝不敗の太陽神ソル・ウィンウィクトゥス〟の誕生を祝う冬至・・祭の行われる日であり、ミトラス教徒達はこの不敗の太陽神こそミトラスであると捉え、この一年で一番日の短い日に、ミトラス神が復活再生するのだとして大いに祝い祭った。


 また、ミトラス神には「聖なる牛の供犠による、その流した血での救済」という救世主的な側面もあり、この〝犠牲による救済〟と〝復活再生〟という神格は、なにやらイエス・キリストの姿を髣髴させなくもないのであるが、このミトラス神の復活は一年で一番日照時間の短くなった――即ち最も弱まった太陽が、冬至を境に再び力を取り戻してゆくことの象徴でもある。


 後にキリスト教の隆盛にともない、教会がこの古代ローマの冬至祭を吸収し、キリスト教化していったものがクリスマスであり、つまり、クリスマスとは本来〝冬至〟の祭なのだ。


 他方、もう一つの起源というのが、北欧の〝ユール〟に代表されるヨーロッパ北部の冬至の祭だ。


 長く厳しい冬の訪れるこれらの地域においても、やはり弱まった太陽の復活を願う祭がキリスト教以前から行われていた。


 今でも〝ユール〟にはその頃の伝統が色濃く残っているのだが、一説にはこうした冬至祭の習慣を持っていたケルトやゲルマンの民を教化するために、不敗の太陽神ソル・ウィンウィクトゥスやミトラスの冬至祭を参考にしてクリスマスが生み出されたのだとも云われている。


 いずれにしろ、クリスマス本来の姿が冬至祭であることは明らかであろう。


 冬至といえば、日本にも古来よりの年中行事として、冬至の日に柚子湯に入ったり、南瓜カボチャを食べたりする習俗がある。


 なぜ柚子や南瓜なのかといえば、その黄色や橙色が太陽の色・・・・だからだ。


 また、それらに含まれるビタミンCやβ-カロテンを摂ることで、寒い冬にも風邪をひかず、体を壊さないようにという現実的な生活の知恵である。


 おとなり中国でも餃子や団子を食べるというし、世界中何処でもこの季節には弱まった太陽の力の復活を願い、自らの健康を祈る冬至の祭が幾星霜の昔より行われてきたのである。


 にもかかわらず、そんなクリスマス本来の〝冬至祭〟の意義を忘れ、ただただ浮かれ騒いでぼーっと生きてるどころか、挙句、暴飲暴食してむしろ健康を害している者達がこの国にはなんと多いことか。


 それが、〝原理〟を貴ぶ者として私は許せないのだ。

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