ある大人

あれは、確かに、ドロシーだった。


「おいっ!お前、さっさと歩け!」


昨晩の騒ぎでめちゃくちゃになった教会都市には、優秀な人々が生み出す、元に戻ろうとする強い力が働いていた。


セイムは、脱出に間に合わず、そのまま湖に落下し、溺れかけていたところを教会の騎士に救われたのだった。


パーティーの給仕係を務めていた、ある、プレイヤーの証言をもとに、図書館のほこりをかぶった蔵書の中から、断罪対象者注意喚起報告書だんざいたいしょうしゃちゅういかんきほうこくしょが一枚引き抜かれ、照合された結果、彼にはへの報復を防止するため、被害者らに対して心ばかりの反省と陳謝を込めてメンタルコントロールを施した後200サイクルの労働の提案がなされた。


それが済むまで彼は、クレジットの使用も、教会が提供するありとあらゆる施設の利用も、簡単な依頼を受けることでさえ出来なくなる。


セイムは、その提案に素直に答えるつもりであった。


街の、どこにあるのかもわからない『救済施設』で、記憶を一時的に外部へ保管するメンタルコントロール処置における注意点と安全性と簡単な仕組みと、思考を単純化する事で起こる数々の利点を説明された。


それからセイムは、いくつかの写しガラスに手形を押した。


彼にはこれから数日間『喪の作業』と呼ばれる時間が与えられ、その間、教会の給電エリアに位置する集落全てに配布される情報紙の隅に『反省者』として小さく名前が載り。


晴れて、他者からの報復から逃れることになるのだ。


救済施設で彼に与えられた部屋は個室で、入り口の脇には、小回りの利く機械人形が歩哨として立っていた。


窓から見える風景は、暖かな光に包まれた昼下がりの穏やかな庭園であったが、これらは、全てスクリーンに投影された映像で、実際のところ、その向こう側がどうなっているのかはわからない。


『・・・・おい!』


セイムが真っ白な寝具の上でひざを抱えていると、どこからかそんなしゃがれた音がした。


はっきりと聞こえていたその声を、セイムは聞き間違いにする事にした。


『・・・・おい!・・・おい!・・・・っかしいな・・・』


ぶうううううううう・・・・・・ッ!


紛れもなく、気合の入った、おならの音である。


あまりにも良く響く、彼は不覚にも、くすりとした。


そして、すぐに自分の置かれた立場に立ち戻り、音がした方へと向かった。


「誰ですか?」


・・・・ぶっ・・・。


セイムは、再び冷めた気持ちになって、元の場所へ戻ろうとした。


『待て待て!ちがうんだよ!驚いたから勢いで出ちまったんだよ!あるだろ?そういう経験。え?ない?とにかくわざとじゃないんだって!ああ本当さ!そんな事よりあんた、名前は?』


声は、流しの排水溝から聞こえてきていた。


「僕はセイムです」


セイムは扉の向こう側をじっくりと伺いながら、そう応えた。


『セイムかぁ、全く。お互いついてねーなあ。そう思うだろ?』


「僕はそう思いません」


『へぇ、そおかい。にしても、辛気臭ぇとこだよ相変わらず。外の連中は美味い飯にバカみたいに薄着になったスケベ共とよろしくやってるってのによ。こんなだぜ。シュッ!ぷるるんッ、ボインッて、ウヘヘ・・・・いい匂いもすんだろぉなぁ・・・たまんねぇぜ』


セイムは、音のする排水溝を睨みつけ、なんとなく、癪に障る男だ。と、思った。

しかし、今の彼にはその気持ちを伝える理由も、元気もなかった。

彼は、おもむろに蛇口をひねり、排水トラップを水で満たしてしまう事にした。


しかし、水は出なかった。


『ひひ、使い手によっちゃ水は凶器になるからな。まぁ、水だけじゃねぇけど。なぁ!外に出るの手伝ってやるよ。』


「僕は、ここで罪を償います」


罪を償う。


口に出して、彼は妙な罪悪感を感じた。


『オイオイ冗談だろ?友達や会いたい女は居ないのかよ?食いてぇもんとか、行きたい場所、やり残したことだっていっぱいあるだろ?俺様は、スラジ高地に行ってみてぇんだ。おい知ってるか?あそこ、真っ白な台地に青い温泉が湧いててよ!ふふ!ふふ。一日中スケベ共を眺めていられるんだぜ?!しかもだ、あの台地は湧きだすお湯の影響で定期的に震えるんだ!ケツも胸も・・・うひ!そりゃぁもう見ものだぜ!ふき出した湯気にまみれてこっそり近づいてよぉ!うひ!うひひ!』


セイムは、これ以上彼の話を聞きたくなかった。

この、流しの向こうにいる人物は、自分の理解を越えている。

そう、思っていて、その直感はおおむね正しいものであった。


声の主は続けた。


『なぁ、お前にもなんか夢とかあるんだろ?俺様のは世界中の女からモテまくる事だ。あと大金持ち。腹いっぱいロブスターを食って。プールとジャグジー付きのガラス張りのデカい家を10000か所に建てて太陽と一緒に移動するんだ、そこに子犬を一杯放し飼いにしてよ!電話一本でその辺の奴らの何億倍も稼いでやるんだ!売れっ子漫画家にもなってみてぇ!小説家に、映画監督!それで夜には街に出向いて、可哀そうなカワイ子ちゃんを助けて速攻で惚れられるのさ。それで次の日言われるんだ。あなたの為にとびっきりのサイドウィッチ作っといたわよ?って。ぐふ。お前もそう言うの、一つや二つあるんだろ?』


聞けば聞くほど荒唐無稽で欲張りな事を言う男だ。


しかし、この男の話にはセイムがあまり知らなかった物が一杯に詰まっていた。


希望だ。


セイムは思わず身じろいで、この人物と対話してみたいと願っていた。


「それは、全くないわけじゃありませんけど・・・」


『教えろよ。心配しなくても俺様は俺様の話しかしないぜ?』


何処の誰かもわからない、名前も顔も知らない人物に、今までずっと心の内に秘めて、誰にも話さなかった事を、ふと、話せてしまう時がある。


丁度、教会で密やかに行われる懺悔ざんげの時のように。


そのような不可思議ふかしぎは、時折、冷めきった人の心を温めるのだ。


そうして、自らの心と向き合った時、人は、目的に向かって意識が整列し、根拠の無い力で心が満たされるものだ。


そして、それはセイムも同じだった。


彼は、自分の夢を語る事に時々照れて、それからすぐに、昨日の素晴らしい出来事の数々を思い出していた。


ゆっくりとした時の流れる美しい旅、自然、文化。


それぞれが生み出す驚異の芸術の数々。


数えきれないほどたくさんの人やスレイブ、乗り物に、商い、品物。


この世界の先端を走る、技術の数々とそれらを守る人々。


そして、何より、自分のような者であっても更生のチャンスを与えてくれる教会の寛容さ。


彼は密かに、心の中の『やりたいことリスト』の項目を一つ消した。


『・・・そうか、じゃぁ、そいつに惚れられるのだけは勘弁してやってもいいな。胸とケツは見るけど。へへ。なぁそいつの事もっと聞かせろよ』


「いやですっ」


『なんだケチくせぇ。減るもんじゃ無しいいじゃねぇか。なぁセイム、お前はともかくその嬢ちゃんが気を変えないって保証はねえ。とっとと抜け出そうぜ?俺様が手を貸してやるからよ』


「そんなことをして、また、捕まったらどうするんです?」


『なぁにまた逃げるさ。何度でもな』


「諦めないんだ。大人って」


『だから大人になれんのさ』




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