第38話 彼女の嘘
廃墟のビルに届く太陽の光はもうかなり弱くなって、徐々に街に暗闇が満ちてきた。
「粒人が今見たのが、あなたが私に頼んだ事よ」
まさに白日夢信じられない……未来でした咲恋との約束。そして妹のお墓。
「ここは、未来であなたが削りだした世界だから、時間は繰り返しリピートしている、先へは進まない。でも真実の世界はもう……ずっと先なの。長い時間が経っているの」
咲恋が嘘をつくわけない、最近見る夢やノルンの事を併せれば、俺が天才科学者で世界を変えたのは真実らしい。いや、この世界で、劣化高校生の俺は、天才の次空粒斗を信じられないでいた。
「それで……世界は変わったのか?」
「それは言葉で言い表す事が難しいわ」
咲恋が胸に掛った小さなペンダントを手に取った。
「真実の世界であなたが、私に渡してくれたもの」
いつも大事にしていたシルバーのペンダントを俺の手に握らせた咲恋。
「粒斗……感じて私の内観……クオリア……世界がどうなったか」
目の前に差し出された、細くて白い人差し指。
妹やノルンにもされた事があるその仕草に一気に俺の意識が遠のく。
「この動作が、粒斗の記憶と能力を解除するサイン。これで三回目。最終ライン解除は、この小さなペンダントを見せる事」
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一瞬の目眩の後、今まで見ていた景色が代わった。
少し冷たい風が身体に当っているのを感じる。これが真実の世界?
「今あなたは、私のクオリアを感じて、真実の世界のビジョンを見ている」
「少し冷たいけど心地良い風だね。今は春か秋なのかな?」
「今は七月よ、人間はコンクリートの中で生きるのを止めたの。科学は粒斗がいた時より、三百年くらい前に戻っている。日本で言えば江戸時代くらいかな?」
目の前に大きな森が見える。強い緑を放つ森の木々は強い生命力を発していた。
現代の植物より、強さを感じる。
自然は、人間が保護する弱いものではなかった。
人間が破壊を止めた後、緑は急速に増え、人間を守る存在になった。
快適な温度と綺麗な空気。そして人間の廃棄物さえ分解してくれたのだ。
咲恋が指指す先に、緑の木々の隙間からビルの残骸だと思われる、砕けた白いコンクリートが見える。
「あれは、昔に六十階建ての超高層ビルだった。もう少し時間が経てば文明の跡は消えてしまう」
涼やかに風が吹き抜け、二人が立っている大きく広がる大草原を波打たせる。
見渡す限りまったく、人工的なものが見当たらない。ここは本当に東京か。
誰もいない……何が起こったか心配になった時に、咲恋が原因を話す。
「人間はね自然と一緒に暮らす事にしたのよ」
かつての大都会は、大きな森とどこまでも続く草原に変わっていた。
所々に朽ちたビルが古代遺跡のように、微かにその姿を緑の中から覗かせる。
その姿に俺の心配が大きくなる。
「人々はどこだ? まさか全滅したのか?」
首を振る咲恋。真実の世界には、ただ、空から降り注ぐ光と、吹き抜ける風と、緑の大森林だけが存在した。
「でも今の世界の人口は五億人よ」
「ええ! そんなに減ったのか? やはり俺の計画は……それか大きな戦争が起こったのか?」
「戦争は無くなったわ。あなたが実現した。世界の人々の内観の統一。そのおかげで、肌の色や国や宗教の違いを、人間は初めて克服出来た」
咲恋は真実の世界の説明を続けた。
「統一された内観により、偏見や優越感や嫉妬などの負の気持ちを、人類は誕生して初めて無くす事が出来た。内観は理由無しで感じるもの。他人が自分と同じ感覚を感じる事により、見栄や虚栄は必要無くなった。主義が全く違う大国同士でも、素直に自分達の心を述べる事が出来るようになった」
「戦争もない、世界中の国が本音で話していける、そんな世界になったの。科学は、どうしても必要な時にだけに使われる。あくまで人間の生き方のサポート。真実の世界の寿命は五十歳程度。もっと生かす事も可能だけど、不自然に人間だけが長く生きるのは、好ましくないと考えたのよ。人は本来の人間の寿命に従う事にしたわけね」
「世界は真に平等になった。富も貧困も全てが平均化された。統一された内観により、人々はお金や権力について、価値を感じなくなったわ。そして結論に至った……人間の一番の幸せは何かと」
人間の幸せ? 俺の幸せはスマホとちょっとだけエッチな妄想だが、咲恋の世界を代表した言葉は大きく違っていた。
「全てに程々の生き方。過度な快適さを求めるのを止めたの」
「人間が進化を止めたという事か。それが人口の減少に繋がっているか?」
俺が理解する時間を得られるように静かに冷静に話を続ける咲恋。
「愛する者と穏やかな時間を過すの。仕事はやりたい事をやりたい時にするよ。暑くなったら、涼しい土地へ行き、清流で泳いだり土地の果物を頬張る。寒くなったら海が見える暖かい島へ行き、新鮮な魚を捕って焚火で炙って食べるわ。夜は暖炉で冷えた身体を温めて、愛する者と他愛もない話をするの。そんな暮らしが人間の幸せだと考えたの」
好きな場所で好きな事をして暮らす。非合理的。でも精神的に豊かな生活を望んだ人類には、先進国と後進国、裕福と貧困じゃなくて、イデア、民族が持つべき心だけが残った。それで……みんな幸せなのか。本当に……
「気になる粒斗? そうよね、自分が計画して実施した結果だものね」
自信なく頷く俺に、咲恋はハッキリと断言した。
「幸せよ。危機感や飢餓感が伴う人間の進化は終わったの……そして人類は、緩やかなに減少へと進んでいるわ。人類が共通で得た内観、クオリアは、人はまだ多すぎると感じてる。そして、科学の進歩を止めた人類は、既に種としては寿命に達したとも感じている」
俺の計画は失敗だったのか。不安が大きくなる顔を色を見た咲恋が首を振る。
「いいえ。今の粒斗は自分で造ったクオリアを感じた事がないから、分らないだけ。例えば宇宙飛行士が、宇宙に出た時、真っ黒な何もない空間に恐れを抱く……震える真空の中で一人で漂う孤独感を感じる。その時、漆黒の宇宙に姿を現す、青く輝く奇跡の星、地球のその美しさに奇跡を感じ、世界観が変わるの」
その話は聞いたことがある。バカな政治家どもは全員、宇宙に行くべきだと俺は思っていた。
「かつて宇宙飛行士が感じた、宇宙の広さと地球の美しさ……地球は本当は小さくて、その上で争う事が愚かだと、その感覚をあなたの内観、クオリアは人々に教えてくれた。不自然に人間が繁栄して、奇跡的に存在し多くの生物を守る小さな星を、傷つけてまで生き続ける事は無いとね」
違うと言われたが俺は間違ったんだじゃないのか。世界との共存、そして自由を得た人間、まさに哲学的には、人間の幸せの定義は実現されたかもしれない。だが物質的な幸せを捨てても、心が満たされたから本当に人々は幸せなのか。
「感じてみればいいわ。世界のクオリアを……人類全てが共通で持たされたあなたの内観。さあ目を閉じて、私を通してこの世界のクオリアを感じて粒斗」
咲恋の人差し指が目の前で揺れ、俺の意識が拡大されていく。
一気に世界が広がり全てのビジョンが俺に伝わってくる。
「覚醒」まさに今起こってる事。先入観も偏見も恐れも消えて、世界が自分に飛び込んでくる感覚だった。
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今、死を迎える老人が見える。家族や知人が傍にいる。
老人は笑みを浮かべた。思う通りの人生ではなかった。
でも、老人に悔いはない。人生は程々充実していた。
老人が最後の時に選んだ、森の中に作られた小さなコテージは木製で出来た建物はエアコンも付いていない、歳を経て朽ちかけている。
でもそこには、たくさんの思い出が詰まっていた。
老人は集まってくれた人の顔を見渡し、安心して笑った。
お別れの言葉は必要ない。新しい世代には、今有るものが受け渡される。
何も奪われなかった。なにも足されていない。自分の時間。家族との時間。
仲間との時間。仕事の時間。流れいく思いでだけは、このまま持って行く。
一番可愛い時に一緒にいられた子供。その子も親になり、子供を連れてここにいる。その子にも今有るものが、そのまま受け渡されていくだろう。
少しだけ心残りといえば、いつも自分の側らにいた愛する人がいない事だった。
でも去年旅立った自分の妻にも、もうすぐ逢える。
次に生れてきても、同じように生きて死ぬのがいい。
さて。少々眠くなってきた……少し休むとするか……老人は静かに目を閉じた。
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「ふぅ」全身から力が抜けた。
そして俺が見たビジョンの事を咲恋が聞いてきた。
「感じたかな? 世界のクオリア」
「うん……あれが幸せなのか、俺には分らないけどな」
「そうね。同じクオリアを持っていても、人はみな違うわ。結局のところは、幸せは各々が決めるの」
世界のクオリアを見た俺に、咲恋は自分の感想を述べてくれた。
俺が未来で咲恋に頼んだ事。世界の行く末の判定。
「……粒人が未来で私に頼んだ事。賢者として世界の在り方を判断する……世界を見守る私には、この世界は粒斗の考えた以上になったと思うよ」
「なぜそんな事を断言出来る?」
「わかるわよ自分の頬に触れてみて」
右手に感触があった。感覚が覚醒した後、俺は気がつかずに涙を流し続けてた。
強い風が通る緑の草原に立つ咲恋の、解き放たれた長いウエーブの掛かった髪が空中に舞う。
「これが最後にあなたに伝える事。世界の行く末を見守るように、粒斗に頼まれた私の役目はここまで。世界を救ったあなたを誇りに思います。そして二つの世界を感じるクオリアを、私に与えてくれた事に感謝します。こんな私でも世界の為に役に立てたのだから」
(……ウソだ)
「粒斗の計画は成功した。凄すぎるわ、本当に世界を救ってしまったのよ。そして世界中の人々が幸せになった」
(……違う、そうじゃない)
「最初に大学であなたの話を聞いた時は驚いたわ。世界中の人々のクオリアを一つにするなんて。そして世界を削り取ってバックアップまで造り出すなんてね」
(……なんでだ?)
「でも、あなたは実現してしまった。真実の世界は、粒斗が望んだ争いが無い平和な世界に変わったのだから」
(ウソだ、違う、なんでだ! 咲恋)
「あなたの計画は成功よ。だからね、私は今とっても幸せなの」
「そんなの! う・そ・だ!」
咲恋の俺への称賛の言葉に耐えられなくなった。俺の大声の否定、咲恋の瞳が見開かれた。
「なにがウソなの?」
「おまえが今言った事の全部だ! 咲恋が言った事は全部嘘だ! 幸せだって!? おまえのクオリアはそんな事を感じていない!」
「粒斗止めて! それ以上は言わないで!」
膝を落し、両手で自分の耳を塞ぐ咲恋。
「嫌よ……なんでそんな事を言うの……今になって……聞きたくない。あなたが私をどう感じたかなんか!」
強い反応に戸惑いながらも、俺は言葉を止める事が出来なかった。
「ごめん咲恋。でももうムリ……感じてしまったから」
手で耳を押さえたまま首を左右に振り、抵抗する咲恋に近づき、俺は彼女のクオリアを伝えた。
「咲恋からは、悲しみしか伝わって来ない。この雄大で美しい風景、そして新鮮で旨い空気、それを運ぶ風の気持ちよさ。そして人々の幸せな人生……それは確かに存在する、けれどおまえのクオリアは、それを受け入れようとしていない」
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