悩みの行く先

川木

悩みの行く先

 河野貴子(こうのたかこ)には悩みがあった。高校三年生になったばかりの春。朗らかで皆が明るい未来を見ている、桜色の世界。だけど貴子の周りにだけは揺らがない冷たい空気が滞留しているようだ。

 実際、周りに誰もいない。たった一人、誰もいない教室前の通路の窓から外を見下ろしている。当然だ。今日は入学式。新入生以外は休日なのだから、部活などもあるので登校自体は禁じられていないが三年生の教室が並ぶこの場に誰もいなくても自然なことだ。


 窓の外には校門があり、入学したての新入生たちがご両親と写真を撮ったり楽しそうにしている。大きな桜の木は満開に咲き誇り、門出を祝福するかのようだ。

 可愛らしいはしゃいだ声がいかにも楽し気で、悩みさえなければ聞いているだけの貴子も思わず頬を緩めそうになるほどだ。だけど貴子は、ある人を思うとそれだけでため息が出てしまう。


「!」


 校門前で父親と写真を撮っていた少女が振り向き、貴子を見上げて目があった。ぶんぶん、と言う擬音がぴったりなくらい勢いよく両手を振って笑顔で存在をアピールしてくる。


「……」


 それに小さく手を振り返す。少女は父親と別れ、校舎に向かって走り出した。父親は貴子に会釈して、そのまま遠ざかっていく。


「たかちゃん!」


 数分も待つ必要はなく、少女――君原柚希(きみはらゆずき)は階段を駆け上がった勢いそのままにそう貴子を呼んだ。その笑顔にほっと心がほぐれるような安堵感を覚える。


「ゆず、おじさんはいいの?」

「もともとお父さん、午前休だから。あと15分くらいで帰るって言ってたもん」

「15分、ゆっくりしてからでもいいのに」

「夜会えるもーん。それより見てみて! えへへ。似合ってる?」


 にこっと目の前に立った柚希はそう言って、くるりとその身を回してスカートを翻して得意げに笑って、正面に戻るとちょこんとスカートの裾をつかんでお嬢様みたいななんちゃってカーテシーをした。

 その姿に、貴子はドキドキと心臓がうるさくなるのを自覚した。ふわりと舞い上がり、裾がひざ上まであがって見えた白い肌に思わず目をとられてしまったことを誤魔化すように、柚希の前髪に意識を集中させる。


「え、ええ。よく似合っていて、可愛いわよ。と言っても、制服が届いてすぐの時にも、似合うって言ったじゃない。疑っていたの?」

「疑うとかじゃなくてー、たかちゃんには何回だって褒められたいんだもん。ありがとう、わざわざ学校に迎えに来てくれてうれしい」


 はしゃいだ様子の柚希はお礼を言いながら貴子の周りを意味なく一周し、横から左腕にぎゅっと抱き着いた。


 そう、授業もないのにこうして貴子が学校に来ているのは他でもない。幼馴染の柚希を、折角の入学式の日に一人で帰さないためだ。母親を早くに亡くした柚希の姉貴分としてずっと傍に居た貴子として、晴れの日に周りがみんな親と一緒に帰る仲、一人寂しい気持ちになってほしくない。そんなお節介な気持ちを柚希は厭うことなく喜んで受け入れてくれる。


「もう。そんなの、当たり前でしょう?」

「えへへ、たかちゃん大好き」


 貴子もまた、柚希が拒否せず喜んでくれるとそれを疑うことなく行動できる。そんなお互いに信頼を確信した関係なのだ。


「ええ……私もよ」


 貴子は柚希を幼い頃から一緒にいる妹分、もっと言えば、娘のように思っている。血はつながっていない、赤の他人だ。だけどもっと近い、家族のように思っているのだ。

 そう、ずっと思っていた。だけど最近、おかしいのだ。


 まだ冬の寒さ厳しい頃から、急に柚希を意識してしまったのだ。今まで何気なく触れていたのに、一緒にお風呂に入っていたのだってそう遠くない過去なのに、柚希のことを意識してしまう。

 同性で、妹分で、家族のような存在なのに。だから柚希は安心しきって、今まで通りハグもするしきわどく肌を見せるのだってためらわない。なのにそれをいいことに、貴子は柚希にいやらしい目をむけているのだ。


 そんなの、絶対に許されないことだ。わかっていて、そう思うのに、どうしようもなく惹かれてしまう。そんな自分を嫌悪しても、もう春だと言うのに、いまだ気持ちを切り替えられないまま、ずっと同じことで悩んでいる。


「ねぇねぇ、たかちゃん。お昼は何つくるの?」

「ん? ああ、折角だから、どこかに食事に行こうかと思ったのだけど。何か、食べたいものはある?」


 何でも好きなものを奢ってあげる。そう、姉貴分として正しい対応で微笑みかける。

 元々あまり感情を表に出すのが苦手で無愛想な貴子は、だからポーカーフェイスに関しては自信があるのだ。心の中ではどんなに悩んでいても、柚希に心配をかけないよう平静を装うくらいはできる。


「えぇー」


 だと言うのに、柚希は顔をしかめた。一瞬、まさか、今この瞬間も腕に押し当てられる柚希の感触を堪能していたことがばれたのだろうか、とびくりとする。

 だけどそんなのは杞憂だ、と言わんばかりに柚希はむしろ体を摺り寄せる。


「やだー、折角お祝いしてくれるなら、私たかちゃんのご飯が食べたーい!」

「えぇ? いいけれど、そんな急に言われても大した食材もないわ。帰りに買うほどのお金も持ってきていないし」


 ばれていなかったことにはほっとした貴子だったが、その要望には困ってしまう。学校に必要以上のお金を持ってきてはいけない、と校則で定められているので、買い物予定のなかった貴子は精々飲み物が買える程度の小銭しか所持していない。


「たかちゃんが作ってくれるなら、残り物炒飯でもいいよ」

「うーん。まあ、ゆずがそう言うなら、いいけれど」

「わーい! 嬉しいな」


 そう無邪気に喜ぶ柚希に、貴子は頬を緩め、同時に後ろめたくて仕方ない。

 柚希はこんなに素直に、純粋に貴子を慕ってくれているのに。どうして貴子はこんなにも、女の子として意識してしまうのか。自分が情けなくて、恥ずかしいくらいだ。


 柚希と一緒に下校する。柚希が受かった時に、練習と称して休日にも一緒になんちゃって登下校をしたりした。しかし実際に制服で歩いているとやはりこみあげてくるものがある。

 小さくて可愛くて、いつも貴子のあとをついて歩いていた柚希。だけどもう、高校生になるのだ。大きくなったなぁ、なんて二つしか変わらないのにすっかり保護者目線の感想を抱いてしまう。


 だけど同時に、もうすっかり大人に近づいているのだ、といやらしい意味でも思ってしまう。

 そんな自分がどうしようもない。こんな風に誰かに対して感じるのは初めてで、自分がうまく制御できない。


 これが恋と言うものだとしたら、なんて浅ましく直情的で下卑た感情なのか。もっとふわふわとした心地よい、憧れのような清らかさのあるものだとばかり思っていた。

 こんな気持ちを、柚希に向けるわけにはいかない。本当に柚希を大事に思っている。家族のように慈しんでいる。だからこそ、この思いをなかったことにしなければならない。


 柚希にそんなつもりはみじんもないだろうし、振られて気まずくなってしまうのはもちろん、仮に万が一、柚希が流されてそんな気持ちになったのだとしても、家族のような今のかけがえのない関係を変えたくない。この綺麗なままの関係がいい。貴子は柚希にとって頼りになる姉で、欲望にまみれた関係になんてなりたくない。

 そう思って何度も吹っ切ろうと、なかったことにしようとしているのに。その度に、すぐ近くにいる柚希が、本人にそんな気はないだろうが無邪気に誘惑をしてくるのだ。


 だからこそ、貴子は悩んでいる。元々、進学先の候補は二つあった。それを県外のレベルの高い方にして、柚希から離れてこの思いを振り切りたい。

 だけどそれだと、柚希が寂しがってしまう。柚希は本当にただ純粋に思ってくれているのに、貴子の勝手な感情で離れて寂しがらせるのは違うだろう。本当に貴子の意志でそちらの大学がいいから、と言うならともかく、そんな理由で選んで傷つけるのは違う。と思うのだ。


 だからこそ、どちらを進学先にするべきか、三年生になったと言うのにいまだ悩んでいた。じきに推薦を受ける学校を決めるべき時が来てしまうだろう。今のところ、どちらも希望があるとは言われている。


「たかちゃん、何だか最近、元気がないよね? 何か悩み事があるなら、私でよければ聞くよ?」


 帰り道、ずっとご機嫌で軽く右腕に片腕で抱き着いている柚希の体から意識をそらすためについ思考に没頭してしまい、生返事をする貴子に柚希は心配そうにそう言った。少し顔を寄せて下から見上げる上目遣いで、可愛らしすぎるその表情。

 どきどきして、どうしようもなくその唇に視線を奪われる。


「う、ん? あぁ、ありがとう。でも大丈夫よ。ちょっと、進路のことを考えていただけだから」

「うー。そう言うことなら、私から言えることはないけど。でも、確か隣町の大学を目指してるんだよね? たかちゃんすっごく頭いいし、推薦とかもらえるんじゃないの?」


 慌てていることを悟られないよう返事をすると、そう不思議そうにされた。確かに以前、柚希には進路を聞かれて一度話したことがある。第一希望、などの細かな話ではなく、単純にその時はまだ進路を決めていなくて、あくまで候補の一つとして近場の大学をあげたのだ。

 そこが今迷っている一校であることには違いない。だけどこれ以上は詳しく説明してぼろを出さない自信がなく、貴子はあいまいに微笑んでみせる。


「ん、まあそうね。まあ、でも、色々あるのよ」

「そっかぁ。何にもできないけど、応援してるからね。たかちゃん、頑張って! ふぁいとー!」

「ふふ。ありがとう、ゆず」


 貴子の手を離して両手を胸の前で握ってされた応援に、胸がきゅんとする。可愛すぎて、何だって頑張れそうな気になる。だからこそ、余計に困ってしまうのだけど。


 そんな風に誤魔化しながらも家についた。お腹が減ったーと急かす柚希に、着替えも後回しにしてリクエスト通り炒飯を作った。


 貴子と柚希は血がつながっていない。ただ親同士が同じ会社に勤め、社宅で隣同士で幼い頃に出会った。そして柚希の母が亡くなってから、まだ幼い柚希を一人で留守番はさせられないとすでに仲の良かった貴子が一緒に過ごし、父親同士は仕事で遅いので貴子の母親と一緒に晩御飯まで一緒に食べるようになった。

 そうして父親が迎えに来るまでは貴子の家に一緒に帰り一緒に過ごすのが当たり前で、家族のような関係が今につながっている。


「美味しい。さすがたかちゃん。お料理をさせても完璧だねー」

「ゆずはいつも大げさね」

「そんなことないもーん。たかちゃんが一番だもん」

「……」


 にこにこと笑顔で言われて、うるさくなる心臓を黙らせるよう自然に目をそらしてお茶を飲み干した。

 そしてデザートにプリンを食べてから後片付けをする。先に貴子の部屋に行かせていた柚希の元に、歯を磨いてからお茶を持っていく。


 貴子の部屋は半分柚希の部屋のようなもので、さすがに多くはないが部屋着だって置いてある。なのに何やら今日はまだ着替えておらず、制服のままクッションを抱いてベッドにもたれるようにして座っていた。


「お待たせ。どうしてまだ着替えてないの?」

「だってー、勿体ないんだもん。今日はたかちゃんも一緒に制服のままでいようよ」

「いいけど、皺になるからいつもみたいに寝転がったりしちゃ駄目よ?」


 前に置いている小さなローテーブルにお盆を置く。食事したばかりとは言え、夕方まで部屋にいたら喉が渇いた時に面倒なので、いつも多めにお茶を持ってくるのが習慣なのだ。なのでいつも通り、テーブルをはさんで反対側に座ってテレビをつけた。


「何見る? この間あった映画でもいい?」

「んー。ねぇたかちゃん、隣に来てよ」

「え? どうかした?」

「いいから。テレビはなんでもいいよ」


 そう言って柚希はクッションを胸にぎゅっと抱きしめ、膝をたてて丸まるように身を縮こませながら、右手でぽんぽんと自分のすぐ隣の床をたたく。

 そしてそのまま毛足の長いラグをかき混ぜるように撫でた。そのしぐさに、何故かどきっと、どうしようもない気持ちが湧き上がってくる。


 奥歯をかみしめてその気持ちを押し殺し、考えることを放棄して言われるまま隣に行く。移動の際、テーブル越しで見えなかったけれど三角座りになったことでスカートがはだけているのがちらりと見えてしまい、それを見ないためにも少しだけ勢いよく座った。

 いつも柚希がベッド側に座るので、こうしてベッドにもたれるのは久しぶりだ。下の引き出し部分が固くて、分厚いマットレスがほどよく頭を支えてくれる。

 本来もたれる為ではない無機質さが、ほんの少しだけ頭を冷静にさせてくれる。隣に座った貴子に、柚希は貴子を見上げてにこっと微笑み、床に置いていた手でそっと貴子の左ひじをつかんだ。


「な、なに?」

「あのね、たかちゃん。私、高校生になったんだよ?」

「え、ええ。そうね。おめでとう」

「うん。だからね。お祝い、欲しいな」


 そう言われて、なーんだ。と柚希はほっとする。ほんのり緊張したような空気感に、何だかほんのり赤らんでいる柚希のまとう雰囲気に、いったい何を言われるのかびくびくしていたけれど、なんのことはない。要はおねだりなのだ。

 すでに高校祝いとして、ちょっと特別な文房具セットをプレゼントしている。それなりのものなので、追加でおねだりするのは気が引けたのだろう。


「いいわよ。高校への入学祝は人生で一回きりだもの。特別よ。何が欲しいの?」

「えへへ。ありがとう。たかちゃん。だーい好き」

「ん……まあ、私もだから。ううん。で、なぁに?」


 ぱぁっと明るい笑みで無邪気に表明される好意に、他意はなくても一瞬目をそらしてしまう。軽く咳払いで誤魔化して、笑顔を作り直して柚希に尋ねる。

 貴子の問いかけに、柚希はもじもじして照れたようにはにかみながら、体ごと貴子に向けて右手で隣で同じように三角座りしている貴子の左ひざに手を乗せて身を乗り出すようにして顔を寄せて口を開いた。

 その唇に視線が吸い取られる。赤く柔らかそうで美味しそうな唇。触れたらどんな感じだろうか。口づけたら、どんなに気持ちがいいだろうか。


「私……たかちゃんのファーストキスが欲しいな」

「……ん? え? ……え?」


 頭がおかしくなってしまったのか、言われた内容が入ってこない。少しだけ体をそらして柚希から気持ちだけでも距離をとり、冷静になろうとする。

 いけない。よこしまなことばかり考えていたので、絶対にそんなことを柚希が言うはずがないのに、都合のいいおねだりを幻聴してしまった。


「ご、ごめんね、ゆず。よく聞こえなかったから、もう一度いいかしら?」

「もう。たかちゃんたら……恥ずかしいから、ちゃんと聞いてね?」

「ご、ごめんなさい」


 むっとしたような柚希に平謝りするしかない。頭がどうかしているとはいえ、こんな都合のいいような聞き間違えをするなんて。柚希は真面目に言っているのだから、ちゃんと聞かなければならない。妄想の中の柚希ではなく、目の前の柚希をちゃんと見なければならない。

 何とか一呼吸して気持ちを整え、柚希の目を見る。アーモンド形の、悪戯っぽくていつも元気いっぱいの可愛い目。と一瞬見とれてしまいそうになるのを堪えて、自分は柚希の姉なのだと自分に言い聞かせて、柚希の言葉を待つ。


「いいよ。あのね、……私、たかちゃんのファーストキスが欲しいの」

「……」


 聞き間違いではなかった。いつの間にかのけぞって右側に手をついて崩れ気味の姿勢に、詰め寄るように肩に顔を乗せるような距離で言われた言葉は、あまりに貴子の欲望を具現化したような都合のいい言葉だった。


「聞こえなかった? もう一回、言ってほしいの?」

「き、こえた、けど……え? ふぁ、ファーストキスって。と言うか、柚希はその、したことがあるの?」

「もうやだぁ。したことないよぉ。ふふ。変なこと言わないでよ。たかちゃん以外の人と、そんなことするわけないでしょ?」


 変なことを言っているのは柚希の方だ。貴子以外の人とするわけがない? なぜそうなるのだ。二人は恋人でも何でもないのに。

 なのに、そのとろりと少し細められた瞳の奥にある艶めいた光に、柚希の方がおかしい、なんて当たり前の指摘ができない。

 ごくり、と無意識に唾を飲み込んでしまう。だけどそんな要望を飲むわけにはいかない。目をそらしながらなんとか口を開く。


「そ、え……えっと、あのね? 私たち、姉妹みたいなものだし、そう言うのは、駄目、かな? 他に何か欲しいものはない?」

「じゃあ、たかちゃん」


 ぐい、と柚希の左手が貴子の頬に添えられ、まっすぐに顔を見合わせられる。正面のすぐそこに、柚希の顔がある。どきどきとうるさい位に心臓が高鳴る。


「私、たかちゃんが欲しいな。……駄目?」

「あ、だ、駄目っていうか。えっと、その……きゅ、急にどうしたの? そう言うのに興味があるの、わからないでもないけど、でもそう、そう言うのは、その、恋人とすることであって」

「私、知ってるよ?」

「え?」


 しどろもどろに、姉の威厳なんて全くない状態ながら、何とか柚希の突然の要求を諦めさせようとする。どうしてそんなことを急に言い出したのかはわからない。だけど、高校の入学祝にキスがしたいとか、さすがに意味がわからない。

 柚希も初めてならなおさら、そんな簡単に記念に、みたいなノリでとりあえず幼馴染の姉貴分とキスをするなんてのは、きっと柚希は将来後悔してしまうだろう。そんなのは駄目だ。


 だけどそんな貴子に、柚希はにっと、いたずらっ子のような、だけど見たことのない熱のこもった表情で言う。

 知っている? 意味が分からずにただ呆けたように聞き直すしかできない。そんな貴子に柚希はふふ、と微笑んでさらに顔を寄せて、囁くような声音でつづけた。


「たかちゃんが、私のこといやらしい目で見てるの、知ってるよ?」

「っ!? な、なにを」

「さっきも、私のスカートの中気にしてたでしょ? ……えっち」

「……」


 冷や汗が出て、体から力がぬけていく。気付かれていた? 全部? 貴子の誰にも知られたくなかった下心を、他の誰より気付かれたくない柚希に、バレバレだった? それで急に柚希がこんなことを言い出した? 貴子のせいで?

 恥ずかしい。もう顔も見せられない。消えてしまいたいくらいで、貴子は耐えられずそのまま横に倒れこんで両手で顔を覆った。


「……」

「たかちゃん、恥ずかしがってるのも可愛いよ。でもこの間この部屋で着替えた時だって、あんなに挙動不審になってちらちら見てたら、私じゃなくてもわかると思うな」

「ひぃぃっ……」


 心臓が痛すぎて呼吸がうまくできず、変な声がもれてしまった。辛すぎる。何もかもばれていた。死にたい。

 顔を隠したまま縮こまることしかできない貴子に、柚希がふふっと声をださずに笑うのを気配で感じた。そして気配が近づき、柚希は貴子に覆いかぶさるように乗りあがっている。


「ごめんね、怒ってるんじゃないの。むしろ、嬉しかったなぁ」

「……ゆ、ゆず……?」


 その、本当に嬉しそうな柔らかな声音に、軽蔑は一ミリも感じられない。ゆっくりと、顔に押し付ける自分の手を緩め、指の隙間から柚希を見る。

 いつの間にか貴子の頭の両側に柚希は手をつき、四つん這いの姿勢で貴子のすぐ目の前に柚希の顔があった。すぐ近く、まるで目と目で火花が散るような距離。その瞳の色を、見間違いようもない距離。

 柚希は貴子が恐れたような侮蔑したものではなく、どこまでも純粋な、キラキラした目をしていた。そして頬は紅潮し、どこか熱っぽいような、そんな顔をしていて、思わず釘付けになって自分の顔を隠すのも忘れて手をどけて、まじまじと柚希を見てしまう。


「あ、やっと見てくれたね……ねぇ、たかちゃん」


 柚希は嬉しそうに声をあげ、それからそっと貴子の耳元に顔を寄せ、ふっと息を吐けば吹き飛びそうな声でささやいた。


「このまま、お祝いをもらってもいいよね?」

「え……あの、ゆず。その、確かにゆずの言う通り、そう言う目で、見てたわ。ごめんなさい。でも、その、私、そう言うつもりじゃなくて。ゆずとはずっと、今のまま、家族みたいな関係でいましょう? ね?」


 尋ねてすぐにまたもとの正面に顔を戻し微笑む柚希に、貴子は頷いてしまいそうになる弱い自分をおさえて、とにかくいったんこの場を切り抜けて落ち着こうと、何とかそう柚希に拒否をする。

 貴子が柚希を意識してしまったから、妹分で何でも素直に貴子の行為を受け入れてきた柚希だから、好意もまた別の形のものも全て受け入れてしまっているのだろう。でもそれは違う。こんな風に勢いでしてしまってはいけないのだ。


「じゃあ……嫌なら、拒否してよ」

「え、いやあのぉ」

「たかちゃんは私より年上で、背も高いし、手だっておおきいでしょ? ……ほら、こんなに、やめさせるなんて、簡単でしょ?」


 こんなに、といいながら柚希は左膝をぐっと貴子のお腹あたりに寄せ、左手で貴子の手を取って握った。指一本一本を確かめるように絡め、ぎゅっと握られた。その柚希の手の柔らかさも、いつも以上の熱さも、ただでさえ沸騰しそうな貴子の脳を溶かしてしまう。


「ねぇ……好きだよ、たかちゃん。たかちゃんは?」


 握り合った手に体重がかかり、柚希がゆっくりと肘を曲げて顔を寄せてくる。その囁きに、その誘惑に、拒否なんてできるわけなくて、微動だにできないまま貴子はそれを受け入れた。


「……」


 目を閉じた柚希の瞼に、震えるまつ毛に愛しさを感じて、合わせた唇が気持ちよくて、ただ柚希が好きだとしか考えられなかった。


「……ふふっ。キス、しちゃったね。ねえ、どう、かな? 私、結構頑張って、唇のケアしてたんだけど、気持ちよかった、かな?」

「……私も、好きよ」


 ゆっくりと唇が離れて、真っ赤になってそう尋ねる柚希の可愛さに、もう何も考えられなくて貴子はそう無意識のように告白した。

 そんな貴子に柚希は一瞬きょとんとしてから、まるで年齢が逆転してしまったかのように、大人びた微笑を浮かべた。


「ふふふっ。もう、返事が、遅いよぉ。えへへへ。でも、嬉しいなぁ」


 とろけるような嬉しそうなその笑顔に、貴子は頭の中の何かが壊れてしまったように感じられた。大事に守っていた何かが崩れて、もう柚希を妹と見ることができなくなってしまった。

 この恋を今更なかったことにして、今まで通りに姉の仮面をかぶるなんて、絶対に無理だ。

 それはなんだか絶望的な気持ちのような、だけど清々したような、不思議な気持ちだった。


 そんな不思議と静かな気持ちになる貴子に、柚希は貴子の頭の横に置いていた手をどけて、上体を戻して膝立ちになる。そして真っ赤なまま、ゆっくりと制服のスカートの裾を両手でつかんではにかんだ。


「ねぇたかちゃん。今度は目をそらさず、ちゃんと見てね?」

「えっ……ゆ、ず?」


 柚希はゆっくりと、その手をあげた。スカートが裏返っていくのを、馬鹿みたいに口が開くのも制御できずにただじっと見てしまう。

 この角度で見ると裏地がいやに光ってみえて、とてもいやらしい感じだ。なんて場違いなような、そうでもないピンク色のことを考えながら、貴子はじっと柚希から目をそらせなかった。

 スカートはついに水平になり、貴子にその中身を晒している。


「……え、えへへっ。やっぱり、近くで見られると恥ずかしいな。どう、かな? 私の、勝負下着……勝ってる?」

「か……勝ってる、わ」


 意味が分からない問いかけに、意味も分からないまま答えた。なんだ。勝ってるって。勝負下着ってそう言うものなのか。


 貴子が柚希を始めて意識したのも、この下着だ。柚希が高校の入学試験に合格したその発表を見に行った日。何気なく同室で着替えた柚希が身に着けていたその、年齢に似合わない派手で色事じみた下着。

 それを見てからずっと、心がかき乱されていた。年上の貴子だって持っていない、性的な気持ちを掻き立てる下着を当然の顔をして身に着けていた柚希。

 そんな柚希に、それからずっと性的なことを意識してしまう。ある意味、ずっと勝っている。だけどまさか、もしかして、柚希も最初から、相手を貴子としてこの下着を購入したのだろうか。

 着替え終わってから思わず尋ねた、好きな男の子がいるのかの問いかけに、いないよと平然と答えたから、単におしゃれの一環や気合を入れるためだと、柚希は純粋な気持ちなのだと貴子は自分に言い聞かせていた。

 なのにそれからまんまと意識してしまう単純でいやらしい自分に、ずっと自己嫌悪していたのに。柚希はもしかして、それを織り込み済みだったのだろうか。


 柚希は食い入るように見てしまう貴子に、指先を震わせながらそっと手を下した。


「ねぇ、たかちゃん」

「ん!? あ、な、なに?」

「……私ね、たかちゃんが欲しいの。だけど……それとおんなじくらい、たかちゃんに私の全部、もらってほしいんだ。……変かな? 女の子同士で、年下で、私のこと、まだ子供って思ってる?」


 その瞳は不安に濡れていて、心臓がいたい。体中の血液が熱くて、まるで熱病にかかったかのようだ。

 それでも柚希に不安な気持ちのままでいてほしくないと言う思いだけは間違いなくて、貴子は床に手をついてお尻をひいてゆっくりと起き上がる。

 自分の太ももの上で膝立ちしている柚希に、可能な限り優しく微笑みながらそっとその頭をなでる。


「……子供になんて、見れないわ。わかってるんでしょう?」


 柚希はさきほど口づけた時のようなうっとりした顔で貴子の手を受け入れ、ほう、と気を抜くようにいつもの笑みになる。

 その柔らかな髪の感触は、この数か月つい接触を避けてご無沙汰になってしまったが、手に馴染んだもので、貴子もまた心臓はうるさいままだが、心が落ち着くのを感じた。


「うん。だってたかちゃん、すっごくわかりやすいんだもん。でも、言葉で聞きたいよ」


 だからそう可愛らしくおねだりされて、貴子はためらうことなく口を開いた。


「ゆず……あなたが、好きよ。妹じゃなくて、女の子として、好きよ」

「うん…うん! えへへ。うれしいぃ。あのね、たかちゃん」

「うん、なぁに?」

「私……たかちゃんになら、全部、見られてもいいよ? 私、今、いいよ?」

「……」


 ごくり、と唾を飲み込む音が部屋中に響いた気がした。そんなはずはない。テレビだってつけっぱなしなのだ。

 だけどまるで逸る思いを主張するように思わず反応してしまった自分に、貴子は自己嫌悪した。


 もはや、隠せるものではない。貴子は柚希がどうしようもなく好きで、下心も持っている。エッチなことにだって興味津々で、柚希をもっと見たいし、触れたい。

 そして柚希もそう思ってくれているなら、嬉しい。もうそれを否定しようなんて思えない。そんないい姉のふりはできない。柚希が妹ではなく対等な感情で言ってくれたのなら、もうそれを制して拒否するような大人な態度はとれそうにもない。

 柚希は貴子の思う通りに動く人形ではなく、一人の人間なのだから。そう言い訳じみたことを思いつつ、だけど、それでも、と残っている理性のひとかけらが言うのだ。


 さすがに、展開が早すぎる。柚希がいいと言ったからって、今、好きだと思いを伝えあったばかりで、そんなことをするのは性急が過ぎる。

 それだけが目当てのようではないか。それが目当て、と言うのは否定できない。したい。だけどそれだけではない。

 柚希の体を意識してしまったのが最初だけど、それをきっかけに、柚希の性格も癖も話し方も、何もかもが好きなのだと思い知らされた。そんな大好きで愛おしい柚希だからこそ、大切にしたくて距離を取ろうとすら思っていたのだ。

 もうそんな風には思わないけれど、だからといって一足飛ばしな展開は違うだろう。もっと大切に、ゆっくり関係を育みたい。


「……あのね、ゆず」

「私!」


 そう言おうとしたところで、柚希が悲鳴のような声を出した。びくりと震えて柚希の肩に向かって伸ばしかけた手がとまる。

 柚希はおびえるように眉をよせ自分のスカートをつかんだまま強く強くにぎって、それを見て貴子は、ああ、スカートに皺ができてしまう。と馬鹿みたいに場違いなことを思った。

 柚希はうるんだ目で、弱弱しい、だけど奥底から振り絞るような力強い声をあげる。


「私……最初にたかちゃんに、お祝いにファーストキスが欲しいって言ったけど……本当は、ファーストキスだけじゃ嫌なの。セカンドもサードも、10回だって、100回だって、一生分、ずっとたかちゃんのキスが欲しいの。だから……もう、待てないよ。ずっと、私、あの時、勇気をだしたのに」

「っ、ゆず!」


 今にもこぼれだしそうな柚希の涙にたまらなくなって、宙でとめていた手をのばし両手でぎゅっと柚希をだきよせて、奪うようにキスをした。


「んっ、んんぅ」


 一度では足りなくて、二度、三度と。思いを伝えるようにキスをする。さっきまであんなに強気で、大きくすら感じられた柚希なのに。今はこんなに簡単に、貴子の腕の中に納まってしまっている。

 膝立ちしていたのも、抱きしめる勢いで貴子の膝の上に乗っかっているのに、全然重くない。

 こんなに小さくて、弱弱しいほどなのに。なのに柚希は自分から行動に起こしたのだ。そう思うと愛おしくてたまらなくなると同時に、ふがいなくて泣きたくなる。


「ん……ごめん、ごめんね。ゆず。年下のあなたにばかり、勇気を出させて」

「……ううん。私、知ってるもん。たかちゃんが、肝心なところで、ヘタレなの」

「う……ごめんね」


 息も絶え絶えになったのでキスをやめて、そう謝罪すると柚希はキスを据える前とは違う意味でうるんだ瞳でそう微笑んだ。

 それにまた罪悪感を抱きながらも、もうあふれる思いをとめられない。いや、とめる気にもならない。


「ごめんね、ゆず」

「そんなに謝らなくてもいいよぉ。それより」


 額をくっつけて謝罪する貴子に、柚希はそう優しく応えながらも期待に満ちた何か言いたげな目を向けてくる。それに対する答えは決まっている。

 貴子はぐっと柚希の背中に回した手を下して、柚希をお尻からつかんで抱き上げて膝立ちになり、倒れるようにベッドにもつれ込む。

 さすがに昔のように完全に持ち上げられるほど柚希は軽くはなかったけれど、目的には十分だ。勢いのままベッドの上で柚希の上に覆いかぶさった貴子は荒い息を自覚しながら、再度謝罪する。


「ううん。そうじゃなくて、優しくできる気がしないから……ごめんね」


 そして柚希が何か答える前に口づけて、そっと制服の前を開けた。

 前回は、ちらりと見えてすぐに目をそらしたそれは、どうしようもなく煽情的に誘っている。ゆっくりと興奮で震える手をそれに手を伸ばす。うまくできない。

 焦る貴子にそっと柚希が手を重ねた。はっとしてその顔をみる。柚希も緊張していて、その手は少し震えている。だけどその微笑みは、まるで優しくて年上のような包容力をかんじさせるものだった。


「ずっと……考えてたんだ。この下着、たかちゃんに脱がされる時、どんな感じなのかなって。えへへ。思ってたよりずっと、たかちゃん、可愛いよ」

「……私も、何度か考えたわ。ゆずがそう言う目的でこの下着を脱がされる時、どんな顔をしているのだろうって。想像より、ずっと……綺麗だわ。好きよ、ゆず」

「うん。私も……」


 目を閉じた柚希にもう一度口づけ、そのままの姿勢で指先を動かした。震えは、とまっていた。


 そして長いような短いような時間を過ごした。


 明日から授業なのに、制服が皺だらけになってしまった。そう思うけれど、後悔はしていない。


「……うぅん。たかちゃーん」

「なぁに?」

「んふふ。だぁいすき」


 夢心地で微笑みながら抱き着いてくる柚希の姿を見ていれば、胸いっぱいに幸せがあふれて、お昼まであんなに悩んでいたのがばかばかしくて、もう何も悩みなんてない晴れ晴れした気持ちだった。

 こんな幸せがあるなんて、何だかおかしいくらいだ。


「ただいまー」


 と、少し遠くに鍵が開く音と母親の声がして血の気が引くまでそのまま幸福を享受した。


「お、おかえりなさーい! ゆずっ、起きて」

「んー? たかちゃん?」

「しっ。静かに。お母さんが帰って来たわ」


 慌てて飛び起き、大き目の声で返事をしてから声をひそめて柚希を起こし人差し指をたてて注意する貴子に、柚希はのんびりとあくびをする。


「うーん? 別に、部屋で一緒にお昼寝するくらい、おかしいことじゃないでしょ? たかちゃん、慌てすぎだよ」

「そ、そう言われたらそうかも知れないけど。でも、このままじゃ……」


 お互いに汗をかいているし、他にもいろんなのが混じった感じで、ちょっと違う匂いがしている気がする。寝癖も変についている。少なくとも、あれ? と思われるだろう。

 だと言うのに柚希は慌てた様子はなく、ゆっくりと着替えだす。


「お料理始めたころに、部屋着でささっとお昼寝して寝汗かいたからシャワー先に浴びるとかって言えばよくないかな? 台所からちらっと見るくらいじゃわからないし、一緒に入れば大丈夫だよ」

「……ゆず、前から思ってたけど、意外と神経太いわよね」


 今回もそうだけど、以前から悪戯好きで何度もハラハラさせられては、柚希本人は平気な顔をしていた。いつも可愛いので誤魔化されてしまっていたが、改めて柚希が見た目に似合わない豪胆さを持っていることを実感させられる。

 そう頼もしいし助かるけど、同じように服を着ながらつい呆れ半分で言ってしまう貴子に、柚希はにんまりいたずらっ子のように微笑んでぐっと貴子に身を寄せまだ素肌の太ももを撫で上げる。


「んふふ。私はー、別にぃ? ばれてもいいけど? でも、内緒の関係も、どきどきしちゃうよね?」

「……小悪魔」

「えへへー。そんな私のことが、たかちゃんは大好きなんだもんね?」

「ええ、そうよ」


 柚希にキスをしてから太ももの手を振り払い、服を着た。そして柚希の提案通り、視界に入らないくらいの速足でこえをかけながら風呂場に向かった。

 案の定、母親は背を向けたまま、はーいとシンプルな相槌だけで済ませたので疑われることなく汗を流すことができた。

 夕ご飯が待ってるからか、さすがにお風呂場でさらにふざけて時間をつぶすことはなかったけれど、お互い意識してしまって三年前には一緒に何も考えずに入っていたのが嘘のように不自然になってしまった。


「ねぇ、たかちゃん。キスして?」

「ぶっ……ちょっと、何言ってるのよっ」


 そしてお祝いに柚希の大好きなハンバーグで、いつもよりはしゃいだ母を交えての夕食後。母が洗い物で背を向けている中、食卓の隣のリビングのソファに座っていると唐突におねだりをし始めた柚希に普通に噴き出してしまった。

 貴子は慌てて部屋続きで背中の見える母親を振り向き、鼻歌を歌ったまま反応していないことにホッとしながら柚希に耳打ちで文句を言った。


「だーいじょうぶ。聞こえてないよぉ。水音もあるし、おばさんいっつも家事してる時鼻歌歌ってるから、こっちの話し声はいつも聞こえてないでしょ?」


 逆にこちらから普通に話しかけても、いつも最初は必ず聞き返されるので、確かに基本的にはこちらの会話に気を配ってないのはそうだろう。だけどだからと言って、どうしてわざわざそんなリスクを負わなければならないのか。


「へ、部屋にもどりましょ。まだおじさんが迎えに来るまで時間はあるのだし」

「えー、やだぁ」

「お、大きな声を出さないでっ」


 立ち上がって柚希の腕を引いて促すも、まるで普通の雑談のように文句を言う柚希に、慌ててソファに膝立ちになって柚希の口を押えてソファの背もたれに隠れるようにずり落ちる。

 そしてゆっくり背もたれから顔を出して母親を見る。まるで気付かれていない。ほっとしながら手を緩め、改めて文句を言おうと柚希を見て


「ふふっ。焦ってるたかちゃん、かーわいい」

「んっ」


 勢いよく下からキスされた。目をぱちくりさせる貴子に、柚希はにこっと花が咲くように純情に微笑んだ。


「えへへ。私! たかちゃんだーい好き!」

「! し、しー!」

「あなたたち、ほんとに仲がいいわねぇ」

「!? え、ええ。まあ」


 明らかに大声の柚希の発言に、貴子は目を白黒させて頭をふせる。ソファの向こうから、おかしそうに笑う母親の呑気な声が聞こえて何とか返事をする。

 そんな縮こまった猫のように身を伏せている貴子に、柚希はおかしそうに笑いながら、ソファの向こうに声をかける。


「えへへ。うん! 私たかちゃんが世界一大好きなの」

「あらー、おばさんは?」

「おばさんは二番目だよぉ」

「嬉しいこと言ってくれるわねぇ。でもそこは父親を二番目にしておいた方がいいわよ?」

「じゃあおばさんは三番目ね」

「うふふ。嬉しいわぁ」


 きゅきゅ、と水が止まる音がして、おかしそうに笑う母の声がはっきり聞こえる。


「あら? 貴子? ……あなた、何してるの?」


 不思議そうな声がしてから数秒の足音がして、母親が自分を覗き込んだ気配に貴子は顔をあげられないまま応えた。


「なんでもないわ……」

「おかしな子ね。二人はいつもより遅いみたいだから、私もうお風呂はいるわね。入ってる間に帰ってきたらチェーンあけてあげて。あんまり遅かったら、なんなら久しぶりに泊まってもいいし」

「はーい、おばさんごゆっくりー」


 足音で母親が部屋を出ていくのを察知してから、ゆっくりと顔をあげる。むくれ顔の貴子に、柚希は朗らかに微笑んで見せる。


「えへへ。たかちゃんは可愛いねぇ」


 日々が憂鬱になるほどの悩みは吹き飛んだ。だけどまた、新たな悩みが貴子を苛むことになりそうだ。そう思いながらも、見あげた柚希の嬉しそうな顔に、自分まで嬉しくなってしまうから、それも悪くないかもしれない、なんて感じてしまうのだった。

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悩みの行く先 川木 @kspan

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