恋と駄菓子と薬の力

リフ

相良良太×広瀬清音の場合


「なあ!」


 僕はその声に振り返った。視線の先には学生服を着たやんちゃそうな男子が立っている。同じクラスの加賀だ。

 やつはズカズカと大きな歩幅で歩いてくると突然肩を組んでくる。強い力に馴れ馴れしいと思いながらも言葉が出ない。


「今からちょっと遊ぼうぜ」


 腕の力が強くなる。目を見ると、断るはず無いよなと無言で語ってきた。


「わかったよ、何をするの?」


 僕は表情を崩さないように、まるでそれが心からの態度であるかのように笑顔を見せる。


「とりあえず鬼ごっこ的なやつやろうぜ」


 それだけなはずがない。強まる腕の力に思う。だけど訊くのも怖い。


「追いつかれたらホウキでケツ叩くから」


 手にした竹箒を見せて笑う。今は清掃の時間なのに使い方を間違えている。


「まじで!? わかったよ、仕方ないなぁ」


 僕は笑顔が引きつっていないか不安になった。


「じゃあ他のやつも呼んでくるからちょっと待ってな」


 皆でやるのか。当然、追いかけられるのは僕だけだろう。


「うん」


 駆け足で遠ざかる背中を呆然と見ながら、そう返事をするしかなかった。




 痛む尻に木は冷たい。椅子に座り、知りたくもない体験をする放課後。

 美術室はしんと静寂に包まれていた。


「……」


 数人の美術部員がお互いをデッサンし合っている。僕もまたその一人。カンバス越しに同級生の彼女の顔を見る。

 広瀬清音ひろせきよね。この中学校のアイドル。外ハネショートカットでぱっちり猫目でスタイル抜群。明るい性格で人付き合いも良い。僕とは反対の陽キャの代表みたいな人。そんな人が神妙な顔をして僕の前に座っている。


「……」


 さらさらと鉛筆の走る音だけが聞こえる。暑くも寒くも無い空間。

 広瀬さんの艶やかな睫毛を丁寧に写し取りながら思う。この時間が永遠に続けば良い。

 同じ部活に入っただけじゃ無く、こうして共に活動が出来る。それだけで僕は嬉しかった。


「はい、止め」


 顧問の先生の声で我に返る。気付けば活動時間も終わり。


「お疲れさま」


 広瀬さんがそう声を掛けてくる。


「お疲れさま」


 どうにかどもらないで返せた。


「どんな風に描いてくれたのかなー」


 広瀬さんはにやにやしながら後ろ手で近寄ってくる。


「あっ」


 僕はカンバスに伸ばしかけた手を引っ込めながら、広瀬さんの表情を窺う。近くで見てもシミ一つ無い綺麗な顔だった。


「おおー! 上手いじゃん」


 自分でもそう思う。パーツの配置とかも変にいじらなくて良いし、モデルが綺麗だと筆のノリも違う。


「いいねいいねー」


 広瀬さんは僕の肩に手を置いて軽く揺すってくる。近い近い!

 緩く開いた制服の胸元から良い香りがする。根本的に広瀬さんは他の女子とは違う生き物なんじゃないだろうか。そんな風に思いながら視線を彷徨わせる。


「あのさ、広瀬さんのも見ていい?」


 それだけ言ってどうにか落ち着いてもらう。


「いいよー、でも」


 そう言葉を切り。


「笑わないでね?」


 眉間に可愛いシワを寄せて笑みを浮かべる。困り顔も魅力的だなんてずるいと僕は思った。





「うーん……」


 家にある鍵のかからない自室で悶々と過ごす僕。ベットに寝転がり交換した絵を見る。何というか前衛的と言うか、少なくとも常人に描けるものじゃ無い。画伯?それだと微妙にいじっている感じもする。


「と、とりあえず」


 普通に良いと返せたはずだ。表情筋を全力で使い、言葉もどもらなかった。もし嘘を吐き慣れていなければ、彼女の笑顔も無かったかもしれない。


「初めて僕の笑顔うそが役に立った気がする」


 広瀬さんと幼馴染みである事以外に誇れる物は何も無い。絵はそこそこ上手いと思う。でも別の男子部員にもっと上手い人がいるから特別感は無い。


「見た目も普通だし」


 顔は良くも悪くも無いと思う。ただ身長も低いし、顔も童顔で二重くらいしか説明できるパーツが無い。


「でも今日はプラマイ、プラスだったかなぁ」


 広瀬さんとあれだけ話せたのだからプラスだろう。今日は良い日だった。これでいじめが無ければ最高なのに。


「それは無理かな」


 せめて関わり合いにならないで欲しい。こっちから何かをする訳で無し、向こうも無視すれば良いものを。それでもいじめてくるのは、相手がいじめだと思っていないから。やつらにとってはからかいの範疇で、それはつまり遊びであっていじめではないという事。


「胃が痛いなぁ」


 鳩尾の辺りを摩りながら思う。日々笑顔を浮かべ、耐えても耐えても無くならない痛み。積み重なり、澱のようにどろどろと心の底に溜まっていく。


「普通に過ごせればそれで良いのに」


 天井の木目がぼやけていく。拭いきれない痛みと広瀬さんの記憶を胸に、僕は眠りに落ちた。




 休み時間、布で出来た筆箱は天井にあった。

 どういうことか分からないだろう。最初は僕も分からなかった。加賀が言うには遊びの一環らしい。高い所に物を置いてそれを僕が取れるかという。ちなみにそれは僕の筆箱だし、参加する覚えも無ければ使って良いとも一言も言ってない。


「さ、取れるかな~」


 ニヤけ面で見てくる加賀とその他数人。教室にはほとんどクラス全員が揃っているのに、誰も助けようとはしない。


「僕のジャンプ力を舐めるなよ~」


 無理矢理テンションを合わせてこの難題に取り組む。といっても何度かこの仕打ちは受けているので、慌てず落ち着いてテレビの下まで向かう。

 天井から吊り下げられたブラウン管のテレビ。その脇に筆箱は置いてあった。掃除が行き届いておらず、うっすらと埃が積もっている。


「高いねぇ」


 呟くと、お尻を地面すれすれまで近づけ一気にジャンプする。高く跳ぶには両手も同時に振り上げるのがコツだと最近知った。


「ぐっ」


 目一杯腕を伸ばし、指先を筆箱の布地に引っかける。


「ふぅ」


 小さくない衝撃が膝を襲う。それでも一度で取れたことに安堵した。こいつらは何度もピョンピョン跳ねる僕が見たいらしいから、こういうのは一発で終わらせて無視するに限る。毎回自分達はしないくせに人にだけやらせるその性根に反吐が出る。


「おお~すげ~!」


 流石に一度で成功するとは思っていなかったのか、目を開きこちらを見てきた。


「じゃ、席に戻るね」


 奪われた筆箱を取り戻した僕はそのまま後ろにある窓際の席に向かった。人の視線を気にしなくて良い当たり席。

 筆箱の埃を軽く払い、机に置く。椅子に座ると柔らかな日差しが身体に染みて心地良い。


 こうして僕の日常は過ぎていく。精神も肉体も少しずつ削れながら、未来に希望も持てないまま。ただ耐えて耐えていつか壊れるその日まで。踏み出す勇気も無く、幼馴染みにも言えないままに――。





「大丈夫?」


 放課後の美術室。いつもの静寂の中、広瀬さんの手が肩に触れる。僕より体温が高いのか、午睡を誘うような温かさを感じた。


「……大丈夫」


 どうやらぼうっとしていたらしい。


「何かあったら言ってね」


 ふんわりと笑う広瀬さんはカンバスに向き直る。静物の写生が今回の課題だった。


「ありがとう」


 思えば、別のクラスの広瀬さんは僕の状況を知らない。周りの男子も広瀬さんの前ではやらないし、女子はそもそも特徴の無い僕という存在に興味が無い。だから広瀬さんに僕の現状は伝わらないし、僕自身もいじめについては相談しない。仕方ないとは思うけど、僕と違いこの幼馴染みは人生を楽しんでいるようで少し羨ましい。


「さて、僕も描かないと」


 息づかいと鉛筆の音だけが支配する世界。同じ静物を描くから自然と広瀬さんとの距離も近い。美術室自体は結構広いのに部員は数人だ。広瀬さん目当てで一旦は増えるけど、美術に興味が無ければ続かない。下心だけの男子や一部の女子は活動自体に耐えられなかったのかすぐに辞めてしまった。


「……」


 無言で描き進める。この時間は好きだ。雑音を気にしなくて済む。ただただ死にたいと呟き続ける帰り道でも無く、自分の今を嘆く寝る前でも無く。一つのことに集中できる僕だけの時間。

 広瀬さんはチラチラとこちらを見てくる。いや、視界の端で見えてるよ。何故僕を気にしてくれるのかは分からない。ただ、勘違いはしないようにしよう。はっきり分からない方が幸せな事もあるから。





「よう」


 学校からの帰り道。駄菓子屋の前に差し掛かると声がした。


「あ、師走しわすさん」


 立て付けの悪いガラス戸に手を掛けながら中に入る。外のボロさとは違って中は意外と綺麗だ。


「また下向いてたぞ」


 カウンターに立つ師走さんはそう言って笑った。その雰囲気に心も少しだけ軽くなる。


「そうですね、上を向くのは中々厳しいです」


 師走さんとは会って一ヶ月位になる。以前も同じように下を向いて歩いていた所に声を掛けられた。最初は人見知りが発動してさっさと帰ろうと思っていた。だけどこの人は話が上手くて居心地も良いというか、気付けば悩みを相談する相手になっていた。


「まあ、すぐに解決する類いのもんでもないからなぁ」


 師走さんは一頻り話を聞くと眉間に皺を寄せ、顎に手をやった。これは彼の考え込むときの癖だ。こうなったら元に戻るまでしばらく掛かる。

 髪はボサボサで格好はいつも同じ紺の甚平を着ている。似合っているけど、仕草と併せるとどうにも爺臭い。そんな様とは反対に青髭がないつるりとした肌、そこに添えられた白く華奢な指。髪の間から覗く切れ長の瞳は男の僕でもドキリとさせられるものがある。

 総括すると爺臭く見えるが妖しい魅力もある青年に落ち着く。


「ま、これでも持って行くと良い」


 考え事が終わったのか、師走さんはカウンターの裏から何かを取り出すと手渡してきた。それはガラスの小瓶だった。お土産屋とかでたまに見る星砂が入っているような瓶だ。その中で透明な液体が蛍光灯の光をゆらゆらと反射している。


「これは?」


 今まで師走さんから何かをもらったことが無かった。いつも相談を聞いてもらって駄菓子を買っていただけ。


「栓を抜いてみろ。ま、いつも駄菓子を買ってくれている礼だ」


 言われたとおりにしてみると、中から甘い香りがする。


「良い香りですね。甘いというか何というか」

桂皮油けいひゆってんだ。ストレスを軽減する効果がある」


 僕は瓶の中身を再度見た。特に色も何も無いこれが油なのか。


肉桂ニッケイって植物があってな。それの皮から精製したもんだ」


 確かに落ち着く香りがする。優しいというか、ずっと嗅いでいても大丈夫な感じ。


「食べることも出来るが量が少ないからな。香りだけ楽しむ方が良いだろう」


 そう言って僕の手を持って栓を閉めさせる。


「ま、気晴らし程度にさ」


 師走さんは微笑むとウインクをしつつ僕から離れる。広瀬さんと一緒で睫毛が長いんだなと場違いなことを思った。


「ありがとうございます」


 軽く頭を下げると打ちっぱなしのコンクリートの地面が目に入る。


「気にしなくて良い。俺がやりたくてやった事だ」

「それと金もいらんぞ」


 先回りをされてしまった。流れで財布を出そうとした手を止める。人の機微には敏感な人だ。


「あはは、ありがとうございます」


 実際にいくらするか知らないが、中学生のお小遣いはそこまで多く無い。それに片親の僕はあまりお金で迷惑を掛けたくも無かった。実際、育ててもらっているだけでもありがたい。


「ま、気にすんな。きつくなったらそれを使ってみるといい」

「分かりました」


 僕は幾つか駄菓子を買うと店を出た。外は夕陽に染まっている。流石にそのまま帰る訳にもいかないし、駄菓子は安い。ケミカル色なねじれ棒ゼリーの端を咥えながら通学路を歩く。

 誰かに相談するという事自体が救いになるのかもしれない。歩きながら精油の入った小瓶を茜色に差し翳した。寒々とした現実が甘味と共に夕陽に溶けていくのを感じ、久しぶりに少しだけ笑った。 





「俺と付き合って下さい!」


 あれから数日後、学校で見てはいけないものを見てしまった。

 校舎裏に呼び出されていたのは広瀬さんだ。僕は偶然通りかかっただけ。いじめから逃れようと一人になれる場所を探していた。こっちには誰も居ないと思ってたのに。


「ええっと……」


 広瀬さんは俯いている。

 僕は咄嗟に茂みの裏に隠れた。制服に蜘蛛の巣がついたが仕方ない。摘まみ取りつつ視線は声の方へ。

 相手の顔は頭を下げているので見えないが、ハキハキとした声と五厘刈りで分かる。野球部のエースで生徒会長もしている生田だろう。


「……」


 生田は手を差し出したまま地面を見ている。お見合いか何かか。心臓の音は落ち着かない。


「そう……ね」


 顔を上げる広瀬さんの頬は赤く染まっていた。


「……」


 生田はそのまま動かない。返事を聞くまで顔を上げないつもりか。

 広瀬さんはモジモジしている。何で迷ってる?


「ッ!」


 自分の顔が徐々に強張っていくのが分かる。近くに誰も居なくて良かった。僕はきっと人には見せられない表情をしている。

 何故こんな気持ちになるのか。広瀬さんと生田。周りも諦めがつくくらいにはお似合いの二人。逆に付き合っていないのが不思議なくらい。

 ズボンのポケットを探ると指先が硬質な感触に行き当たる。それは師走さんにもらった小瓶の感触。それを音を立てないようゆっくり取り出し、栓を軽く捻りながら抜いた。駄菓子屋での事を思い出しながら鼻先に近づけると甘い香りが僕を包む。しばらくそのままで居ると、さっきまで荒れていた心の波が穏やかになっていく。


「教室に帰ろう」


 僕は小瓶の栓を閉め直すと静かにその場を離れた。視線の先にはまだモジモジしている広瀬さんの姿。制服の裾で目尻を拭う。はは、情けないよな……。




 放課後、気付けば僕は美術室に居て広瀬さんとペアを組んでいた。


「よろしくね良太りょうた君!」


 広瀬さんは何が嬉しいのかそう言って肩を叩いてくる。校舎裏での出来事は何処へ行ったのか。既に頬の赤みは引いていた。

 今回はお題の書かれたくじを引き、同じお題の人とペアになっている。僕はくじに書かれた文字を軽く睨む。開いた四つ折りには間違いなく『恋』と書かれていた。 


「じゃあちょっと離れよっか」


 広瀬さんは浮かれているのか足取りも軽く、僕の手を掴むと歩き出す。今回、顧問は参考になる物もあるだろうと美術室から出ることを全部員に許可していた。

 僕たちは生徒の居なくなった廊下を歩く。広瀬さんの手は温かいが、それ以上に僕の頬は熱くなっていた。他の生徒が居ないとはいえこれは恥ずかしい。


「ね、ねぇ……」


 僕はどうにかそれだけ呟くと、視線を床に向ける。鈍く反射した蛍光灯の光が僕の心を表しているような気がした。


「どうかした?」


 その言葉は澄み切っていて、どうしたら良いのか迷う。


「いや、あのね? 繋いだままだけど」


 僕は彼女に見えるように手を上げる。しっかりと繋がったそれから心臓の音が伝わりそうで怖かった。


「だめ?」


 首をコテンと傾げて目をパチクリさせる広瀬さん。不思議がるだけで止める気は無いようだ。


「だめじゃないけどさ」


 もう小学生じゃ無いんだし、何も気にせず一緒にいられた昔とは違う。


「んー、もうちょっとこのままで」


 そうして下駄箱に着いた僕たちは、手を自然と解いた。本当はこのままが良かったけど、踏み出す勇気は無い。

 『恋』とは何なのだろう。彼女の存在はいつまでも手に残っていた。



 

 願いの大樹と呼ばれる樹がある。学校が出来た当時からあるそれは校舎から少し離れた場所に植えられていた。その場所で告白をすると恋人同士になれる。この学校の七不思議の一つ。ま、呼び出す時点で勝算があっての事だし、樹とかは全然関係ないのかもしれないけど。


「……あれ?」


 頭の中で何かが引っかかる。


「……ぁ」


 そうだ、あの告白。テンパって気付かなかったけど、何で校舎裏だったんだ?


「どうしたの?」


 広瀬さんは僕を不思議そうに見下ろしている。女子にしては身長が高い彼女との差に少し落ち込む。


「何でも無い。それより描き始めよう」


 目的の場所に着いた僕たちは近くのベンチに座った。お互いにスケッチブックをめくり、構図を考え始める。

 形の無いものを表現するのはとても難しい。デッサンとは違って写実的に捉える対象が無い。それは僕にとって苦手な分野だった。手本があればその通りに描けば済むのに。


「うーん」


 鉛筆はくるくると指の上で踊るだけ。真っ白な紙の上には線の一つも浮かばない。

 ふと、視線を感じてスケッチブックから顔を上げた。


「むむむ」


 隣に居たはずの広瀬さんはいつの間にか距離を置いて正面に立っていた。眉間にちょっとだけ皺を寄せつつ描き進める広瀬さん。正直、仁王立ちでスケッチブックを支えながら描くのは大変だと思う。首からぶら提げる板とかイーゼルとか持ってくれば良かったかも。


「ちょっと支えるやつ持ってくるよ」


 僕は気分を変えるために一度、美術室に戻ることにした。


「良い所だから動かないで!」


 強い言葉に浮かせかけた腰が戻る。


「分かった。大丈夫になったら教えて」


 僕は再び白紙と向き合うことに。


「そうそう……いいよー」


 広瀬さんはそう呟くとものすごい速さで描き進めていく。また前衛的な作品になるのかな。樹を見たり僕を見たり忙しそうだ。


「はぁ」


 知らずため息が零れる。それは別に動けないからでも描けないからでもない。頭のどこかで告白の件がちらつくから。

 普段と変わった様子も無い広瀬さん。順調に鉛筆を走らせている姿は僕と正反対だ。それから言うと生徒会長もまた僕とは正反対の存在。


「お似合いなのは分かるんだけどさ」


 広瀬さんがどう応えたのかは分からないし、知るのも怖い。もし付き合う事になっていたとしたら。


「最悪だ」


 思わず漏れた言葉。僕と付き合っているわけでも無いのに、気持ちは落ちていくばかり。

 広瀬さんの鉛筆は走り続ける。迷い無く、こちらを見る目はとても真剣で。

 僕はその日、初めて何も描けないままに終わりのチャイムを聞いた。





「はぁ……」


 願いの大樹の下、僕はベンチで思わずため息を吐く。


「ねぇ、大丈夫?」


 広瀬さんは心配そうに顔をのぞき込んでくる。


「大丈夫」


 何とかそう返した。課題は白紙のまま数日が過ぎている。


「具合が悪いんだったら早退も出来るよ」

「分かってる、心配掛けてごめん」


 告白の結果が気になって、とは口が裂けても言えない。噂は特に流れてこないけど、このまま内緒で付き合うのかもしれない。


「私はある程度描けたけど、良太はまだか~」


 『恋』というテーマは難しい。悩む毎に気付けば広瀬さんを目で追っている。白紙よりはマシかと彼女を何枚か描いてみた。本当に容姿も中身も環境も恵まれている。どんな角度で切り取っても美しいと改めて思う。見られると困るからページは隠したけど。

 ふらふらと帰り道を歩く。気付けば駄菓子屋の前まで来ていた。一つ息を吐くとに入る。


「お、どうした」


 師走さんはいつもの甚平姿でカウンターに居た。


「あの……相談したいことがあるんです」


 首を傾げた師走さんに促され、僕はこれまでの出来事を全て話した。当事者では無いまっさらな誰かに聞いてほしかった。

 話を一通り聞いた師走さんは、難しい表情のまま奥へと行き、小瓶を手に戻ってくる。瓶の中には淡い青色の液体が入っていた。以前にくれた物とは別の精油かもしれない。


「心変わりの薬だ」


 カウンターにコトリと小瓶を置くと、真剣な表情で師走さんは言う。


「へ?」


 言葉の意味が理解できない。


「これは相手に飲ませるタイプだ。無味無臭だし、何かに混ぜると色も透明になるから相手も気付かない」

「いやいや! 何でそんな物がいきなり出てくるんですか。そもそもそんな薬が……」


 言葉に詰まった。


「あるわけ無い、か? 自白剤もあるような世界だ。無いとは言い切れないだろ」


 師走さんがこういった冗談を言わないのは、短い付き合いの僕でも分かる。実在するとは思わないけど、師走さんは本物だと思っているのだろう。


「信じるかどうかは良太に任せる」


 師走さんはだた僕をじっと見つめてくる。


「俺から言える事は一つだけ」


 そう前置きして。


「使われた相手は二度と元に戻らない」

「!」


 僕は声が出なくなってしまった。


「どれだけ使う前に戻りたくても戻れない」


 言葉を噛み締めるように続ける。


「後悔しても遅い」


 片手で顔を覆う師走さん。白くて繊細なその手は、今は見る影も無い。力を込めすぎて血管や筋が浮き、微かに震えていた。


「本当の気持ちを確かめたくても手遅れなんだ……」


 続く言葉は呟きの中に消えた。


「良太」


 ゆっくりと自分の顔から手を外し、力なく笑う。その曖昧な笑顔に既視感を覚えた。それはきっと僕が教室で浮かべているものと同じ、諦めの笑顔。

 師走さんは誰かに使ったことがあるのか。怖くて聞く気になれない。


「ちゃんと考えてから決めるんだ」


 そう言うと黙り込んでしまった。

 僕はどうしたいのだろう。

 彼女の気持ちを直接訊いたわけじゃ無い。でも可能性はゼロだと思う。僕の事を意識しても無いし、何より校舎裏で見た光景がこびり付いて離れない。

 使いたい気持ちもある。でも本当にそれで良いの?

 無理矢理心変わりをさせて、僕のことを好きになってもらって。それが僕の望みなの?

 答えはちゃんと出ているはずなのに。


「僕が好きになったのは」


 僕はいらない。与えてもらうだけの心なんて。


「広瀬さんなんです」


 自然と言葉が出てくる。師走さんは僕の様子をぼんやり眺めている。


「心から好きになってもらいたい」


 そう、答えなんて分かりきっていたのに。


「だからその薬はいりません」


 自分の心に従えば良い。自然とやるべき事が見えてくる。


「……そうか」


 師走さんは呟くと、いつもの柔らかい雰囲気に戻った。


「で、どうするんだ?」


 薬を使わないならどうするか。そんなの決まってる。

 これから何をするつもりなのか分かっているのだろう。少しニヤけた師走さんは視線を外に移した。


「言葉で伝えます」


 僕もまた外を見る。ガラス戸越しに見えた空はいつもより澄んで見えた。

 学校のアイドルと底辺。幼馴染みのはずなのに遠い存在。心のどこかで避けていた。彼女に迷惑を掛けないように。

 今日で止めよう。もう生徒会長とは付き合っているのかもしれないけれど。伝えよう、後悔しないために。

 この日僕は、僕だけの世界から一歩、外へと踏み出した。





「あーあ、行っちゃった」


 良太はもう下を向いてはいなかった。

 その後ろ姿を見送りながら、師走は優しい笑みを浮かべる。


「で、君はどうするんだい――広瀬さん?」


 師走は視線を店の奥に向ける。ガタッと物音がすると、陳列棚の後ろからゆっくりと広瀬が出てきた。顔は赤く染まり、瞳は潤んでいる。


「ど、どど、どうするって何よ」


 胸を張り、てしてしと歩きながらカウンターの前を通り過ぎていく。


「心を変える薬、いる?」


 いたずらっ子のような表情で小瓶をつまみ上げる。

 広瀬は小瓶を一瞥してからはっきりと言った。


「いりません!」


 一度も振り返ること無くそのまま出て行った。


「あらら、俺の方が火傷しそうだ」


 彼女は様子がおかしい良太を心配していたのか、下校ルートにある駄菓子屋に先回りしていた。ふらふらと何を買うでも無く店内を見て回っていたが、良太が来た途端棚の後ろに隠れたのだ。

 その見た目と行動から、師走は彼女が良太の言っている相手、広瀬だと気づいたようだ。


「青春だなぁ」


 師走は眩しい何かを見ているように目を細め、笑った。


「ま、生徒会長やいじめっこの心を変えるって発想が出ない辺りが良いよねぇ」


 師走は一つ息を吐くと、目の前の小瓶に視線を落とす。二人は信じて居なかったようだが。


「これ、本物なんだよね」


 小瓶に入った液体は桃色に変わっていた。




 あれからしばらく経ち、ちらちらと雪が降る夕刻。


「おっ」


 師走は駄菓子屋の入り口を掃いていると、遠くから楽しげな声が聞こえた。どうやらクリスマスの予定を話し合っているらしい。

 視線を上げると、通学路を寄り添って歩く二人の姿。師走は微笑むと見つからないように中に入り、そっと駄菓子屋の戸を閉じた。

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