長い夜
高村 芳
長い夜
昨日降った雪が、街路樹の根元で汚れにまみれて見捨てられている。路面の雪は多くの人に踏み荒らされ、すでに黒い水たまりとなってあるだけだった。私はキャリーカートの車輪が水を跳ねないよう、慎重にキーボードを運んでいた。
冬至の今日、十六時すぎには早々と空に夜の緞帳がひかれ、すっかりイルミネーションが映える暗さになっていた。駅前では、イルミネーションの温かさに惹かれた人々が右へ左へと、街の雑踏の中へ消えていく。人の流れを眺めながら、私はロータリーから少し外れた歩道橋の下に陣取り、キャリーカートにくくりつけたキーボードのケースを開いた。
RolandのJUNO-STAGE。中古で手に入れた、決して新しくはないキーボード。けれども、元の持ち主に丁寧に使い込まれていたのか、すぐに私の手にもなじんだ。かなり重く、持ち運びが不便であることだけが難点だが、私の相棒であることに変わりは無かった。
スタンドを立て、キーボードを落とさないよう細心の注意をはらって設置する。目の前を通り過ぎる人々からは、「ああ、またストリートミュージシャンか」という視線を投げられる。ただでさえ人が多く狭い道をさらにキーボードで塞いでいる私は、通行人にとって敵でしかないのだろう。私は凍てつくように冷たい指先をポケットのカイロで温めた。一〇本の指先を順番に動かし、体操をする。足下に、いくらかの小銭を先に入れておいたお菓子の空き缶を置き、私はキーボードの後ろに回り込む。時刻は十七時すぎ、舞台は駅前ロータリーそばの歩道橋の下。お客さんは私のことを道端の石ころのように見て通り過ぎていく。それが私のステージだった。
最初の一音を鳴らすと、ちょうど目の前を通り過ぎようとしたカップルが驚いたようにこちらを見つめた。足は止まらず、数メートル先から笑い声が聞こえるだけだった。反対側へ進んでいく若者のグループからは「何の曲?」「知らない」という言葉が漏れてくる。私のオリジナル曲なのだから、彼らが知るわけが無い。私は心に蝋を塗り、ただただ弾き続けた。「これは私がやりたくてやっていることなのだ」と思い込んだ。
就職活動でつまずいていた私を拾ってくれた会社で働いて五年が経った。全力を注いでいたプロジェクトが上司に白紙にされたとき、自分の中は空っぽで心の地面は乾ききっていたことに、私は気づいた。少ないながらも自分が一人で生きているだけの給料をもらい、恋人はなく、ただただ毎日に急かされるように転がされていく日々。そんな毎日に不満を感じることはないが、満足も感じることはなかった。どこかで自分を寂しい人間だと思わざるを得なかった。堰をきったように涙が止まらなかった夜、いつの間にか中古のキーボードを探している私がいた。私の人生で唯一趣味と言えたピアノに、すがりつくしかなかったのかもしれない。
JUNO-STAGEが一人暮らしの家に届いた日のこともよく覚えている。八十八鍵あるキーボードは、狭い我が家で大きなスペースを占めた。ベッドヘッドのすぐ隣にあり、家の広さとキーボードの大きさの比率がおかしくて、なんだか笑ってしまった。久しぶりに自然と漏れた笑いに、私は少しだけ頑張れるような気がした。
一曲目が終わっても、人の流れが止まることはなかった。曲の間をメロディでつなぎながら、二曲目は何にしようと考える。もうすぐクリスマスだからクリスマスソングだろうか? それともカップルが多いから、しっとりとしたラブソングだろうか? 指は鍵盤の上を踊りながらも、思いついた曲を弾き始めることはなかった。
私は今、何を弾きたいんだろう?
「あのう……」
急に声をかけられて、指がリズムを崩して跳ねてしまった。いつの間にか、目の前にはロングコートを来た女性が目の前にいた。その影から、五歳くらいの女の子が頬を真っ赤にしてこちらを覗いている。泣いているのだろうか、口をへの字にして女性のロングコートの裾を握りしめている。
「大変申し訳ございませんが、曲をリクエストさせていただくことはできますか? この子が聴きたい、と言ってきかなくて……」
女性は私の顔色を窺いながらおずおずと尋ねてきた。いつもはオリジナル曲とカバー曲を流しているのでリクエストを受け付けたことはなかったが、女性の困り切った様子を見ると断りにくかった。
「何の曲でしょうか? 弾けるかどうか……」
「ほら、アヤナ。何の曲をお姉さんに弾いてほしいの?」
アヤナちゃんと呼ばれた女の子は、涙があふれんばかりの相貌でこちらをちらりと見た。彼女のアウターの中にはピンクのドレスが見え隠れしている。もじもじとしながら、雑踏の音でかき消されそうなくらいの小さな声で、女児向けアニメの名前を口にした。他の星から地球にやってくる怪物たちを相手に、女の子たちが変身して力を合わせて闘う話だ。私が幼い頃から続いているアニメシリーズで、私も母親に怒られながらテレビにかじりついて観ていた。必死に闘う女の子たちを、必死に応援していた。今、目の前で泣いている女の子も、何かと必死に闘っているのかもしれない。
「ちょっと古いシリーズの曲になっちゃうけど、大丈夫かな?」
さすがに最新シリーズの曲はわからないが、自分がよく観ていた頃のオープニング曲なら。アヤナちゃんが無言でうなずいたので、もう一度ポケットのカイロで指を温める。頭の中でメロディを思い出しながら、自分の指が鍵盤を叩くイメージを想像する。かなりアップテンポな曲なので、最後まで駆け抜ける必要がある。私は冷たい空気を肺いっぱいに送り込み、両腕をふりかぶる。
子どもの頃、夢中になったビーズアクセサリーのような音がキーボードからあふれ出てくる。次々と生まれるビーズの光を取りこぼさないよう、私も必死になって指で音を追いかける。いつだってアニメの主人公の女の子は、明るく、友だちを大切にして、夢を追いかけていた。私も、たった今出会った小さな小さな友だちを、必死で応援して、夢を追いかけたい。
冬の夜に似つかわしくないアニメソングは、人々の注目を集めた。「知ってる」「懐かしい」という言葉は私の耳に届いてくるが、どこか違う世界での出来事のように、私は集中できていた。がんばれ、アヤナちゃん。がんばれ、私。こんなに願いを込めて鍵盤を鳴らすのは、いつぶりだろうか。
弾き終わったとき、すっかり低くなった気温の中、私は汗をかいていた。こんなにアップテンポの曲を弾いたのは久しぶりで、へとへとだった。
しばらくしてから、手袋でくぐもった拍手の音が聞こえてきた。アヤナちゃんの小さな手が、はじけるように動いていた。
「すごいねー! お姉さんすごいねー!」
彼女の頬はさきほどまでとは違う紅潮の仕方をしていた。その両眼からは涙がすっかり退いて、アニメの主人公の魔法のように星が光り輝いていた。なんて綺麗な瞳なんだろうと、今度は私が見とれる番だった。私は「ありがとう」、と月並みな御礼しか言えなかった。
女性は改めて御礼を述べてから、バッグから財布をとりだそうとした。「こういうのは慣れていなくて……相場はいくらくらいなんでしょうか?」と財布を開いた尋ねられたので、「お気持ちだけで十分です」と慌てて伝えた。彼女は十分すぎるほどの金額を、お菓子の空き缶にそっと入れてくれた。
「今日、この子のピアノの発表会だったんですけど、父親が仕事で来れなくて拗ねてたんです。今から仕事終わりの夫と三人で食事に行こうとしているのに、『嫌だ』って聞かなくて……。本当に助かりました」
女性はアヤナちゃんの肩にぽんと手を置いた。アヤナちゃんは私をじっと見つめながら、「ありがとう」と言ってくれた。私ももう一度御礼を言うと、母親は何度も頭を下げてくれていた。雑踏の中に消えていく二人の背中を、私はずっと見守っていた。
指の先がじんじんと痺れているのは、きっと寒さのせいだけではないだろう。私は人の顔色を見た曲しか弾いてこなかったんだ、と、そのとき足先から全身に染みるように伝わってきた。人のために、自分のために弾く音楽は、こんなにも身体に熱を生むのだということを、今まで私は知らなかったんだ。両手を強く握りしめた。
改めて周囲を見回すと、待ち合わせの人々が遠目で私の方を観ている。次に何を弾くのか、と見定められているのがわかる。
私はもう一度息を吸い込んだ。駅ビルの時計の針は、まだ十七時半を指していた。長い夜が始まろうとしている。
私はすっかり温まった指先で、次の曲を弾き始めた。
了
長い夜 高村 芳 @yo4_taka6ra
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます