わん・あうあず・らいてぃんぐ・ちゃれんじ!

雨宮★智成

きのう

 キミは、ゆっくりと目を開けた。

 キミが目覚めた場所は、見たこともない病院の一室だ。キミの身体はベッドに横たわっており、目線の先にはもう一つ、自分の隣にあてがわれた鉄製のパイプベッドが見える。

 ふらりと、身体を起こしてみる。体が重い。頭ががんがんする。息が苦しい。お腹にも違和感がある。病院にいるのだから体調が悪いのは当たり前なのだけれど、しかしキミにはそれが妙に感じられた。

 辺りを見回す。周りには誰もいない。自分のものと同じようなベッドはいくつか並んでいるものの、しかし人の気配は一切感じられない。それどころか、これ見よがしに置いてある機械の数々さえ、その動きを止めている。

 左を見れば、窓がある。空が見える。雲が流れている。どうやら、時間は進んでいるらしい。キミひとりが時の止まった世界に閉じ込められた、というわけではないようだ。

 静寂。

 あるいは、閑散。

 人のいない繁華街であるとか、もしくは動物のいない動物園。はたまた、星のない宇宙。そんな雰囲気を、キミは感じ取る。

 キミは、どうしてこんなことになっているのか。なぜ自分はこんな場所にいるのかと不思議がるかもしれない。奇妙がりすらするだろう。そして記憶を脳の奥底から絞り出してみようとするけれど、しかし頭の中に浮かぶのは、この不思議な空間への疑問。そして、自分が何者であるかという自己認識だけだ。

 自分はどこの誰で、そして今までどんな人生を送ってきたのか。すべての記憶がキミには残っている。ただ一つ、自分がここにいる理由、それを明らかにしてくれるはずの記憶だけが、頭からすっぽりと抜け去っているだけなのだ。

 あぁ、夢だ。とキミは思った。明晰夢、というのだろう。夢の中でも意識をとどめていて、好きなように動き回れる。好きなことができる。そんな夢。それなら、この今の不思議な状況にも説明がつく。キミの頭の中に、昨晩自分の床で眠りについてからの記憶がないことにも納得できる。

 ふい、と頬を摘まんでみる。柔らかい。そして、痛い。まあ、古典的な手法だ。そして、そんなことに意味もないことはわかっている。明晰夢というのはつまり、脳がしっかりと夢の中を感じ取っているということ。すなわち、夢の中で何かがあれば、それをしっかりと脳は認識するということだ。痛みがあって当然だろう。だって、痛みを感じる頭はちゃんと動いているのだから。


「痛むかい? それはよかった」


 ふと、キミの上から声がした。

 ……上。文字通り、直上。

 キミが顔をそちらに向けるなら、先程まで天井があった場所に、小さな少女が浮かんでいるのが見えるだろう。

 銀色の長い髪で、軽く焼けた薄小麦色の肌をした、中学生くらいの少女。浮いてこそいるが、羽根もなければ天使の輪もない。そんな少女が、薄青色の病院着をゆったりと纏ったまま、キミの方に顔を向けているのだ。

 キミはぼんやりと、彼女の方を見続けた。その少女が浮いている理由が知りたかったからかもしれないし、その可憐な少女に見惚れたからかもしれない。どちらにしても、キミはその少女から目が離せなかった。

 目を釘付けにされた。あるいは、目を奪われた。信じられないものを見たとか、そういう理由では説明できないけれど、しかしキミは彼女を見続けるほかに頭に浮かぶ選択肢がなかった。それが奇妙なことだとは心中で思っているけれど、それでもキミの両の眼は、その少女を見つめ続けている。


「おや、どうした。そんなに気になるかい?」


 少女が、口も動かさずにキミに語り掛ける。

 否。違う。これは少女の声ではない。優しげな男の声。少し、遠くから聞こえている。――少女の、そのまた上から声が聞こえているのだ。

 片や少女は、ぼんやりとキミの方を見つめ続けている。声にぴくりと反応したり、時折キミの方から目線を外すような素振りを見せるけれど、決してそこから動きはしない。そこにぼんやりと浮かんだまま、キミを見つめて静止している。


「そうか。キミはまだ思い出せないんだね。手を伸ばしてごらん」


 少女の奥から、優しい声がキミに語り掛けてくる。不思議と、強制されている感じはしなかった。まるで自分の子供に話しかけるような声色。暖かくて、柔和で。なんだか、従ってみようという気にさせられるような、そんな声。

 言われるがまま、キミは手を伸ばす。そうすると、少女もまた、キミに向かって手を伸ばした。

 はっと、キミは息を飲んだ。少女は浮いているのではなかった。そして、自分が見ていたものは、少女などではなかった。

 冷たくて、透明で、それでいて何もかも映すモノ――鏡。

 キミが見ていたのは、他ならぬキミ自身だった。


「     」


 キミは、小さく何かを呟いた。どうして。なんで。そういった、ちょっとした疑問の言葉だった。でも、その一言をキミの声が発することはなかった。

 キミの声とは似つかない高音が、キミの耳に響いてくる。

 はっと、自分の身体に手を這わせる。明らかにすべてが小さくて、柔らかくて、脆い。幼い、というのとも少し違う身体。先程の身体の違和感は、きっと自分がこれに気づいていなかったからなのだろう。


「それが、これからのキミの身体だ。次はないよ。大切に使うといい」


 鏡の奥から、声がする。先程と同じ優しい声で、しかしそれでいて、何かを忠告するような声。

 はっと、思い出す。

 昨日の出来事を。自分が、どうしてここにいるのかを。

 車が自分の身体を撥ね飛ばす痛みが、地面が自分の顔を抉り取る音が、キミの脳裏にフラッシュバックする。

 キミは、昨日自分に起こったことをすべて思い出すだろう。

 キミは昨日、車に撥ねられて。

 キミは昨日、病院に運ばれて。

 キミは昨日、偶然にも運ばれてきた死亡直後の少女と同じ病室に寝かされて。


「しかし、魂が取り憑くなんて……人間はまだまだ興味深いねぇ」


 ――鏡の奥から、小さく笑う声がしたような気がした。






お題:【TS】

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