第154話

 異形の鬼――オーガと化した兵士の一人が、その巨腕を力任せに振るった。空気が抉られる圧を感じつつ、シオンはそれをしゃがんで躱す。直後、刀の切っ先をオーガの肘関節部分に走らせた。痛みに悶えるオーガの短い悲鳴が起こるが、それには構わず、シオンは次いで両膝を斬りつけた。斬りつけられたオーガの両膝からは鮮血が吹き出し、その巨体ががくんと沈み込む。

 これで動きは封じたとシオンが息を吐いた時、


「舐めるな小僧!」


 オーガは吠え、負傷した足で力強く踏みとどまった。刹那、シオンの身体が大きく吹き飛び、壁に打ち付けられる。オーガが、斬られていない方の片腕で殴り飛ばしたのだ。


 シオンは壁にめり込んだ身体を徐に引き剥がして床に着地すると、口に溜まった血を雑に吐き出した。それから改めて正面を見遣ると――すぐ目の前にオーガの巨体が迫っていた。横っ飛びになって避けると、ついさっきまで自分がめり込んでいた壁が轟音と共に崩れ落ちた。


「……厄介な怪力と再生力だ」


 シオンが忌々しそうに吐き捨てた矢先、崩れた壁の向こうからオーガが姿を現した。斬られた箇所はすでに血が止まっており、傷も塞がりかけている状態だ。

 オーガはふと立ち止まり、じっとシオンを睨む。


「その身体能力、やはり騎士としか思えんな。貴様ら、あの議席持ちの仲間か?」


 しかしシオンは答えず、血糊を払って刀を鞘に納める。

 それを見たオーガがにやりと笑った。


「勝てないと悟ったか。賢い選択だ。そのまま大人しく我らに従え。そうすれば、命だけは――」


 直後、“天使化”したシオンがオーガの心臓部分に拳を叩きこむ。目にも止まらぬ速さで胸部を殴られたオーガは、眼球が眼窩から飛び出さんばかりの勢いで、驚愕と苦悶に表情を歪ませた。おっ、おっ、という短い悲鳴を何度も漏らしながら、電池を切らした自動人形のように蹲り、静かになる。瞬間的に強い力が心臓に加わり、失神したのだ。

 意識を失ったオーガの身体は、徐々に元の人の姿へと戻っていった。それも十秒としないうちに、腰回りの衣服しか残っていないこと以外、すっかり元通りになった。


 シオンはそれを一瞥したあと、今度は後ろを振り返る。するとそこには、もう一人の兵士――もといオーガが、慄きながら指をこちらに向かって差していた。


「な、なんだ、今のは!? “天使化”か!? しかし、色が――」


 そこまで言いかけて、鈍い打撲音と共にオーガの両足が微かに床から浮いた。その股間には、ユリウスの靴の裏が付いている。


「そ、それは、はん、そく……」


 オーガが股間を押さえたままの姿勢で、徐に前方向に倒れ込む。倒れた巨体の後ろから姿を現したのは、蹴り上げた足をそのままに立つユリウスだった。見ると、彼の顔には無数の傷があり、服も所々破けていた。

 ユリウスは額から流れた一筋の血を乱暴に拭うと、煙草を取り出して火を点けた。その後で、つい先ほど金的で倒したオーガを見遣る。シオンが倒した個体と同じく、このオーガも気絶したのと同時に人の姿に戻った。


「苦戦したのか? 結構なやられ具合だな」

「死なせないよう加減していたら、隙を突かれて頭に一発デカいのを受けた。たかがオーガと侮っていたが、想像以上の強さだった」


 ユリウスがそう言って紫煙を勢いよく吐き出す。シオンも彼の見解に同意した。


「お前もそう思うか。俺もオーガを相手にしたのは初めてじゃないが、明らかに以前相手にした個体よりも強かった」

「人間ベースの魔物は強化しやすい傾向にあるらしいが、これはちょっとその域を逸脱しているかもな。単純な腕力だけだったら、俺ら以上だったかもしれねえ」

「だが逆に人間ベースで助かった。弱点が人間と同じだからな」

「同感。金的さまさまだぜ」


 ただの魔物であれば当然で、例え人間ベースの魔物であっても、本来であればこの二人の敵ではないはずだった。倒すことこそできたものの、まさかこれほどのダメージを受けることになるとは、まったくの予想外だった。

 シオンとユリウスは喉につかえるような不可解さを眉間の皺で表現しつつ、ひとまずはこの場を収められたことに小さくほっと安堵する。


「で、どうするよ、これ?」


 不意にユリウスが、動かなくなったオーガを指差した。


「どちらもまだ生きているな」


 シオンが兵士の身体を足で軽く転がす。兵士たちは白目を剥いたまま微動だにしないが、呼吸だけは辛うじてしている。


「気絶した状態で、しかもこんな格好でここに放置したらさすがに凍死するんじゃねえのか?」


 ユリウスに言われて、シオンはふと視線を上げた。その先にいたのは、廊下の物陰に終始隠れていたクラウディアだ。


「おい」

「は、はひぃ!?」


 突然シオンに声をかけられ、クラウディアが物陰から飛び出す。どうやら、オーガに変身した兵士を目の当たりにしたこともさることながら、それらを打ち倒したシオンたちにも恐怖を抱いているようで、ついさっきまでの威勢は微塵も見られなかった。


「この近くに暖房の効いた適当な部屋はないか? 人目の付かない場所だとなおいい」


 シオンに言われて、クラウディアはきょろきょろと周囲を軽く見渡す。それから、少し進んだ先にある鉄の扉を指差した。


「ぼ、ボイラー室ならそこにあるけど……。週次の定期点検の時くらいしか人が入らないから、人目には付きにくいはず……」

「じゃあそこに隠すか。ボイラー室なら暖かいしちょうどいい」


 シオンの言葉を聞いて、ユリウスが呆れ顔になった。


「暖かいって……こんな馬鹿でかい施設のボイラー室だぞ? 意識失った状態で放置したら、それはそれで今度は熱中症で死ぬんじゃねえのか?」

「扉を少し開けてやれば外の冷たい空気が入る。最悪死んだところですぐには見つからないだろうし、色々と都合がいい」

「お前たまに悪魔みたいな発想するよな」

「そんなことより――」


 ユリウスのさりげない非難をそうやって一蹴し、シオンは再度クラウディアに視線を向ける。


「さっき言ったこと、詳しく教えろ。この基地で亜人を使った人体実験が行われている――それは本当か?」


 クラウディアは、はっとして意識を呼び戻し、大きく頷いた。


「ほ、本当よ。三ヶ月くらい前に教会魔術師の変な男が来て、それから亜人を使った人体実験が行われるようになったの」

「詳しく教えろ」


 ずいっとシオンがクラウディアの前に出る。

 クラウディアは一瞬固まったあと、シオンの顔を見て頬を赤らめた。


「え、ちょ、ちょっと、近い……! わ、私、貴方みたいなイケメンとこんな近くで話したことないから、き、緊張してきた……!」

「いいからさっさと話せよ。こっちは悠長にしている時間ねえんだ」


 苛立って催促するユリウスに、クラウディアはむっとした表情を返す。


「早く教えてくれ」

「えー。どうしよっかなー」


 急に勿体ぶり始めたクラウディア――シオンは明後日の方に視線を向けて溜め息を吐き、ユリウスは顔を顰めながら紫煙を吐いて煙草を踏み潰した。


「じゃあ、私のこと、ここから連れ出してくれたら教えてあげるわ」

「ユリウス、行くぞ」

「おう」


 気絶した兵士を抱えて突然ボイラー室に向かって踵を返した二人――その後ろを、クラウディアが慌てて追いかける。


「え、ちょっと!? いいの!? 情報欲しいんじゃないの!?」

「面倒な取引するくらいなら自力でどうにかした方がはえんだよ。じゃあな」


 そう言ってユリウスがひらひらと片手を振る。それから暫く、クラウディアから幾つもの罵詈雑言が投げかけられた。凍てついた空気で満たされたこの廊下によく響き、やかましいという言葉がぴったりだった。

 だが、不意にそれが止まる。突然かつ妙な終わり方に、シオンとユリウスは怪訝に振り返った。


「何だ?」


 見ると、クラウディアは銃弾で撃たれたかのように床の上で蹲っていた。

 シオンが驚いて近づこうとするが、


「放っとけよ。気を引きたいだけだろ」


 ユリウスが制止する。しかし、シオンはそうは思わず、クラウディアのもとへ駆け寄った。


「そうじゃなさそうだ」


 シオンはクラウディアの身体を仰向けにして上半身を起こした。彼女顔は顔面蒼白で、まるで死人のような有様だ。つい先ほどまで犬のように吠えていた同一人物とは思えないほどに弱っている。


「おい、大丈――」


 シオンがそう言いかけて、すぐ驚きに言葉を失った。

 後から来たユリウスも、クラウディアを見て目を丸くさせる。


「どうなってやがる? こいつは――」

「ああ。“騎士の聖痕”に適合しなかった時の劣化反応――それに似ている」


 クラウディアの顔の表皮が、石膏のひび割れのようになっていた。ぽろぽろと皮の一部がはげ落ち、そこからは筋肉や腱、脂肪の一部が覗き見えている状態だ。


 シオンとユリウスは、過去に同じような症状に陥った人間を何度も見てきた。何故ならこの症状は、“騎士の聖痕”が身体に適合しなかったがために騎士になれず、無残な最期を辿った同士のなれの果てと同じだったからだ。劣化の症状の多くは幼少期から少年期にかけて起こり、彼らは成人することなく灰になって死んでいった。

 騎士になる者は必ずと言っていいほどにそうした場面に出くわす。共に厳しい訓練を潜り抜け、ようやく小姓から従騎士になれるというタイミングで、こうなる者が多かった。十二歳前後の少年少女の記憶に深く刻まれた惨い命の散り方は、大なり小なり、騎士たちの共通的なトラウマとなっていることが通説である。

 それはこの二人も例外ではなく、今回はあまりに不意な出来事であったこともあり、シオンとユリウスは堪らず表情を曇らせていた。


「……だが、背中に“騎士の聖痕”は刻んでいなさそうだ」


 それでも淡々と、クラウディアの身に起こっていることを確認する。果たしてこれが本当に“騎士の聖痕”によるものなのかどうか――それを確かめるべく、まずはクラウディアの背中を見てみたが、彼女の背中にそれらしいものは一切刻印されていなかった。


 いったい何がどうしてこうなっていると、シオンとユリウスは顔を見合わせて困惑した顔になる。


 と、そこへ、


「貴様ら! そこで何をしている!?」


 廊下の奥から、兵士の怒号が響いた。

 シオンとユリウスは、クラウディアを抱えて立ち上がる。


「いったんずらかろうぜ。さっさとこの薬も町まで届けに行かなきゃならねえしな」

「二手に別れよう。ユリウス、お前は薬をステラに届けに行ってやってくれ。俺が囮になる」

「俺を逃がしたあと、てめぇは何すんだよ?」


 シオンはクラウディアを背負った。


「ハンスたちにもう一度会いに行く」

「一人で大丈夫か? さっきみたいな人間ベースの魔物がうようよ出てきたらどうする?」

「この女を人質にする。この女と兵士の話を聞いた限り、あのヴァンデルとかいう将軍の娘みたいだからな。それにこの症状、ここの奴らにとって何か不都合なものである可能性が高いと見た。人質としての効果は充分だろ」

「やっぱ悪魔だわ、お前」


 それから二人は、地下道が封鎖されることを懸念し、いったん地上へ出ることにした。兵士たちの軍靴の音に追われながら、慌ただしく階段を駆け上がっていく。

 深夜の要塞基地は、一気に喧騒へと包まれた。

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