第142話

 パーシヴァルの魔術によって突如として現れたホテル室内の黒い壁。それを相手取ってからはや数時間が経過し、ユリウスとプリシラは、夥しい量の汗をかきながら、激しく息を切らしていた。


「もうそろそろ、外の景色が見えてきても、いい頃だと思うんだけどな……!」


 ユリウスが、ドカッと床に尻もちをつきながら言った。眼鏡を外し、レンズに付着した自身の汗を指で雑に拭き取る。


 この数時間、ユリウスとプリシラは、街の大通りに面する黒い壁に向かって、蹴りと槍による攻撃を一点集中で見舞っていた。当初は、小さな亀裂が入った矢先に自己修復が始まって三人を落胆させたのだが――


「おい、あまり、長い時間、休む、なよ。三分と、しないで、私の作った、氷が、すぐに割れる」


 亀裂の入った部分にプリシラが即座に氷を張ることで、壁の自己修復を妨げられることがわかった。

 ユリウスとプリシラは、それから地道に黒い壁の破壊に勤しんだ。ユリウスが全力で壁に蹴りを入れ、プリシラがその近くに槍を突き刺して魔術で氷を張る。そうすることで、少しずつ壁を穿つことができたのだ。


 そんな地道な作業を繰り返して数時間――ホテルの黒い壁は、もうそろそろ外に繋がってもいいのではと思うほどに陥没していた。

 だが、この状態に至るまでに、二人の騎士はもはや息も絶え絶えの状態だった。


「さすがに、息が、切れる。これで、半分も、いって、なかったとしたら、もう、諦めるしか、ないな」


 長槍を杖のように床に突き立てて脱力するプリシラだった。同意するように、ユリウスも軽く手を振る。

 そこへ、


「ユリウスさん、プリシラさん、お願いします! どうにか、この壁を壊してください!」


 ステラが両手の拳を上下に振って、二人の騎士を目いっぱい奮い立たせた。

 ユリウスが苦笑しながら、煙草に火を点ける。ちなみに、プリシラは煙草の煙を気にしている余裕もないほどに体力を消耗していたため、ユリウスの喫煙にノーリアクションだった。


「わかってる。わかっちゃいるが、あのパーシヴァルが魔術で作った壁だ。俺らみたいな議席持ちでもない騎士が、そう簡単に切り抜けられるかよ」


 何気ないユリウスの一言に、ステラが訝しんで首を傾げる。


「パーシヴァルって人、確かにただならぬヤバそうな感じしましたけど、そんなに凄いんですか?」


 プリシラとユリウスは静かに頷いた。


「今は聖王教会の枢機卿ですが、もとは議席持ちの騎士でした。議席Ⅳ番ヴァルター卿の弟子で、当時はイグナーツ卿と肩を並べる魔術の使い手として名を馳せていました」

「教会魔術師としての肩書も持っている。“久遠の求道者”――何でもかんでも知りたがるあいつの本質を現わした銘だ」


 そう言ったあと、ユリウスは煙草を二回吹かしてすぐに火を消した。次いで、徐に両肩を大きく回し、軽快なジャンプを二回して体を慣らす。プリシラもそれに続き、槍を構えた。


「そろそろ次の攻撃を仕掛けよう。もたもたしていると、私の氷がもたない」


 プリシラの言う通り、氷を張った場所からはミシミシと不穏な音が鳴っていた。氷には徐々にひびが入り、壁が修復されようとしている。


「もう終わりが見えてほしいところだ」

「ああ。足も痛ぇ」


 軽く不満を言ったあと、プリシラとユリウスは呼吸を整え、壁の一点に意識を集中させた。

 そして、


「せーのっ!」


 幾度と発したその掛け声を合図に、二人は、蹴りと槍による一撃を黒い壁に繰り出した。

 手榴弾が爆発したような音が部屋に轟き、また少し壁が壊れる。その直後に、プリシラが槍の先から氷を作りだし、壁の自己修復を遅らせた。


 プリシラとユリウスは、攻撃の反動で転がるように床に寝そべった。二人の体力も、限界が近い。

 そんな時、不意にステラが驚きの声を上げた。


「み、見てください! 光です! 外の光が見えてます!」


 これには溜まらず、ユリウスとプリシラも疲れを吹き飛ばしたように目を大きく見開いた。


「これは次でイケるぜ!」


 ユリウスが嬉々としてステラとハイタッチした。だがその傍らで、プリシラが疲労の表情をさらに顰める。


「外の光が見えたということは、もう朝になったということか」


 ユリウスが自身のジャケットから懐中時計を取り出し、現在時刻を確認する。


「いつの間にか七時過ぎてるじゃねえか」


 プリシラが一度槍をテーブルの上に置き、身なりを整え始めた。その後で、手早く荷物をまとめ始める。


「一度外に出る準備をしよう。次で一気に壁を突き破り、外に出る」

「だな。王女、お前は準備できたら俺の背中に乗れ。壁に飛び蹴りしてそのまま外に出るから、しっかり掴っておけよ」

「は、はい……」


 それから三人は、二分ほどの間に外に出る身支度を整えた。スーツケースの類はプリシラが背負い、ユリウスがステラを背負う形になる。

 準備を終え、三人は、外の光が差し込む壁に向き直った。


「今まで通り、せーの、でいくぜ」

「ああ、いつでも大丈夫だ」


 二人の騎士が短い打ち合わせを終えた。ユリウスの背に乗るステラが、唾を飲み込む。

 そして、


「せーのっ!」


 ユリウスとプリシラが、壁に向かって走り出した。ユリウスの蹴りと、プリシラの槍が、ついに黒い壁を突き破る。三人はそのまま、外へと飛び出した。


「やった! ついに外に――」


 ステラが喜びの声を上げたが、直後、その顔が青ざめる。彼女たちがいた部屋は、地上から三十メートル以上も離れた場所に位置していた。このまま落ちれば、騎士二人はともかく、普通の人間のステラは最悪落下死してしまう。


「ここ八階だったああああああ!」


 ステラが悲鳴を上げ、間もなく三人は地上へ向かって落ち始める。

 直後、ユリウスが両腕をそれぞれ斜め上に伸ばし、鋼糸を張り巡らせた。すると、ステラを背負うユリウスの体は、重力に任せた急降下をすることなく、穏やかに地面に着地した。なお、全員分の荷物を背負ったプリシラは、一足先に、地上へドスンという音を立てて降り立っている。


「耳元でデカい声上げんな。俺が背負ったんだから、それがどういう意図か察せるだろうが」

「す、すんません……」


 ユリウスが顔を顰めながら言って、ステラが彼の背中から降りながら謝った。


「それで、外に出たはいいが、これからどうする?」


 そんな二人を尻目に、プリシラがあたりを見渡しながら言った。東の空からは、今まさに太陽の日が昇り始めているところだ。


「早速ラルフさんを止めましょう!」


 ステラが勇ましく言うが、


「早速って、どこにいるのか知ってんのか?」


 ユリウスに言われ、ステラは無言になった。


「知らねえのかよ!」


 さてこれからどうするかと、三人は暫く沈黙してしまう。

 幸いかどうかはわからないが、早朝の天気は快晴だった。微かな風に煽られて届く寒気が肌身に沁みると思った――その時、不意に、何者かの気配を三人は感じ取った。


 三人が見遣った先は、ホテル前の路肩に停められている一台の車だ。

 そして、その車のボンネットの上にいたのは、パーシヴァルだった。


「亜人を乗せた列車は、ついさっきグリンシュタットに向けて駅から出たよ」


 まるでここにステラたちが来ることを知っていたかのように喋り出した。


「列車は、市街地の緩やかな曲線の線路を抜けるため、暫くの間ゆっくりと走る。今なら、車に乗って追いかければ十分に間に合うだろう」


 驚きと戸惑いで言葉を失うステラたち三人を余所に、パーシヴァルはさらに続ける。


「列車、追うんでしょ? この車あげるよ。僕のじゃないけど。ついでに、アイドリングして温めておいた」


 そう言ってぽんぽんと叩いた車は、確かにエンジンがかかった状態で、走り出すのにほどよく温められていた。

 この時になってようやく、ユリウスとプリシラは意識を自分の体に呼び戻した。


「てめぇ、今更何のつもりだ!? ガリア側の奴が、どうして俺らに協力する!?」


 ユリウスのごもっともな質問に、パーシヴァルは肩を竦めた。


「仮にも僕は枢機卿という立場にいる聖職者だ。何の罪もない亜人たちが死ぬのを黙って見ていることは、いささか、ね」


 プリシラが威嚇するように槍の切っ先をパーシヴァルへと向ける。


「ふざけたことは言わないでもらおう、枢機卿猊下。ならば何故、私たちを使うようなことをする? 貴方ほどの能力があれば、この事態を収束させることなど造作もないはずだ。貴方が今言ったことを本心とするなら、何故そうしない?」


 プリシラに指摘され、パーシヴァルは小さく笑った。


「そうだね。そんなのは、ただの詭弁だ。本音を言うと、十字軍としては、今このタイミングでガリアがグリンシュタットに喧嘩を売ることはとても面白くない。けど、直接僕が止めに入ると、またガリア大公に色々な嫌味を言われてしまう。だから、代わりに君たちにやってほしいってことだよ」


 ユリウスが顔を引きつらせ、唾を吐き捨てた。


「クソが。だったらあの黒い壁をさっさと引っ込めろって話だ。とことんムカつく野郎だぜ」

「ガリア大公がホテルから出るまでは大人しくしてほしかったからね。怒りが収まらないなら、殴ってもいいよ。僕の本体じゃないし」


 間髪入れず、ユリウスはパーシヴァルの頭を蹴り飛ばした。だが、わかり切っていた通り、パーシヴァルの体は白昼夢のように一度消え、すぐにまた近くの場所に何事もなかったかのように現れた。


「それじゃあ、僕はこれで失礼するよ。ご武運を」


 パーシヴァルは面白そうに笑った後で、ひらひらと軽く手を振って踵を返した。それから、瞬き一瞬の間に、跡形もなくその姿を消してしまう。


 三人はすぐさま、パーシヴァルの残した車を調べた。プリシラが車体の下を覗き、ユリウスが車内を事細かに調べる。


「アクセル踏んだ瞬間、いきなり爆発したりとかはねえよな?」

「そんな仕込みはなさそうだ、安心していい。そうとわかれば、急ぐぞ!」


 プリシラが運転席、ユリウスが助手席、ステラが後部座席に座り、三人を乗せた車は、ノリーム王国西部へ向けて勢いよく発進した。


 ノリーム王国とグリンシュタット共和国を繋ぐのは、何本もの支柱に支えられる巨大な橋だった。その橋の上には、二国間を双方向に行き来するための鉄道線路が往復分で二本と、その間に、歩行者、馬車、自動車が通るための百メートル以上の幅を持つ広大な道路があった。

 何故このような橋があるのか――ノリーム王国とグリンシュタット共和国の間には、複雑な高低差で入り組んだ広大かつ深い谷が存在していた。到底、徒歩で渡ることなど叶わない、物理的に大きな溝であるわけだが――数十年前に施行されたノリーム王国の奴隷制度撤廃を機に、グリンシュタット共和国主導のもと、友好と経済協力の懸け橋にと、全長二十キロメートル以上にも及ぶこの巨大な橋が築かれたのだ。

 だが、二国間の関係が悪化した今となっては、微かに積もった雪を払うほどの賑わいもない。あまつさえ、橋の中央部分――国境では、重厚な防壁が置かれ、グリンシュタットの軍人たちが終日監視しているような殺伐さだ。


 ステラたちを乗せた車が、今まさにその橋へと差し掛かった。そして、それとほぼ同時に、亜人たちを乗せているであろう装甲列車が、並走する形でノリーム王国の街中から姿を現す。


「あれか! まさか装甲列車を使ってくるとはな! 外部からの衝撃じゃあ簡単には止められねえぞ!」


 車の窓を開け、ユリウスが顔を顰めながら言った。


「これからどうする!? あの列車、盗聴した内容の限りではブレーキが効かないのだろう!?」


 運転席のプリシラが訊くと、ユリウスが車の天井に移った。彼はそれから頭を逆さまにして窓から車内を覗く。


「とりあえずケツから車両を切り離していく! 少なくとも、それで亜人たちは何とかなるだろ!」

「でも、先頭車両を止めないと、グリンシュタットに突っ込んでしまいます!」


 そう言ったステラの鬼気迫る表情に、ユリウスが軽く鼻を鳴らした。


「わかってる! だがそれも、汽車の動力をぶっこわせばちゃんと止められる! プリシラ!」


 ユリウスに呼ばれ、プリシラがハンドルを握ったまま横目で見遣る。


「俺はこれから列車に飛び乗る! お前は車で並走してくれ! あと、王女のお守、しっかりやれよ!」

「言われなくてもわかっている! さっさと行け、時間がない! 列車が国境を越えるまでがタイムリミットだ! 一度国境を越えてしまえば、どうなるかわからないぞ!」

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