第85話
目を疑うような光景に、ステラは愕然として言葉を失う。口を両手で塞いだまま硬直し、心臓の鼓動が秒を追うごとに速まっていくのを感じていた。
何かの見間違いではないか、死者がまた姿を現すなど――確かめるべく、慌てて落とした双眼鏡を拾い上げようとするが、
「……あ!」
間抜けな声を出したのは、双眼鏡がバルコニーの下に落ちてしまっていたからだ。あまりにも衝撃的な出来事を目の当たりにしたため、双眼鏡が地上に落ちてしまったことなどまったく気が付かなかった。
こうなれば、直接、聖堂前広場に行って確かめた方が早い。ステラは急いで踵を返し、ホテルの外へ出ようとする。慣れないドレスとヒールに苦戦しながら、スカートの裾を持ち上げて駆け出した。
しかし、部屋の扉の前にいた騎士がすぐさま行く手を阻む。
「お待ちください、ステラ様。今、この部屋を出ることはご遠慮願います」
予想通りの対応だった。
ステラは、ぐぬぬ、と顔を顰めて騎士を睨みつける。
「そんなお顔をされても駄目です。どうか、安全が確保されるまでここで大人し――」
騎士はそこまで言って、ハッとした顔になる。直後に、ステラの後方――バルコニーの方へと視線を送った。
刹那、
「――な!?」
騎士が、自身の首を両手で押さえながら苦しみ悶え始めた。ステラがそれに驚く間もなく、今度は騎士の体が勢いよく壁に叩きつけられる。騎士はそのまま気を失い、動かなくなった。まるで、糸で引きずられた人形が、その糸を切らしてしまったような有様だ。
何が起こったのか、部屋の中を見渡すと――
「だ、誰!?」
バルコニーから一人、何者かが侵入してきていた。
黒のスーツとベスト、その上から焦げ茶のトレンチコートを羽織った男だ。派手な金髪をオールバックにまとめ、細い銀縁の眼鏡をかけている。男が煙草を吹かしながら腕を振ると、彼の指先から糸のような曲線が日の光に照らされて、優雅に周囲を漂っていた。
服装こそ違えど、ステラはこの男に見覚えがあった。
「貴方は――」
※
まだ土煙が燻る大聖堂前の広場中央――そこに、黒騎士は立っていた。
艶のある特徴的な直毛の黒髪に、血を引火させたような赤い双眸。一見すると美女にも見紛うほどの端正な顔立ちをした長身の青年――彼を知る者にとって、それがシオン・クルスであることは見間違いようがなかった。
大聖堂前の広場に駆け付けたのは、六人の議席持ちの騎士だ。
Ⅲ番リリアン、Ⅴ番レティシア、Ⅵ番セドリック、Ⅶ番アルバート、Ⅷ番リカルド、Ⅸ番ハンス――六人の騎士は、シオンの前方を半円状に取り囲むように位置取り、彼と対峙する。
シオンの真正面に立つのは、アルバートだ。
アルバートは、狼狽を隠し切れない表情で、長剣を鞘から引き抜いて手に取る。三ヶ月前にシオンを間違いなく討ち取り、死亡したことを直接確認した彼にとって、今この光景は悪夢と呼ぶに他はなかっただろう。
「いったいどういうことだ。何故、キミが生きている?」
しかし、シオンはその問いかけにはまったく応じるつもりはないようで――彼の視線は、大聖堂のロッジアへと向けられていた。眉を吊り上げ、眉間に深い皺を寄せている。そこに立つ教皇とは、互いに明確な敵意を孕んだ目で、見上げ、見下していた。
そんなシオンを見たⅧ番リカルド・カリオンが、苦笑気味に肩を竦める。
「おいおい、シオンくん。まさか、今ここで教皇を仕留めようって魂胆じゃないだろうね? それだけはよしてくれよ。やるなら、せめて俺とハンスがいないところでやってくれ。教皇の護衛を任されている以上、教皇に何かあったら――」
そんなリカルドの台詞は、突如、轟音にかき消された。
先ほどまでシオンが立っていた場所からは、再度激しい土煙が上がっている。そして、その周辺の石畳の上に突き刺さっているのは、無数のハルバードだ。先ほどの轟音の正体は、これらがシオンに向かって高速で襲い掛かったことに起因する。
何の前触れもなく突然に起きたこの不可解な現象を見て、リカルドは目元を押さえながら空を仰いだ。
「ちょっとちょっと、ハンス! いきなりなんてことしてんの! 話しもせずにそれはやり過ぎでしょ!」
無数のハルバードをシオンに強襲させたのは、議席Ⅸ番ハンス・ノーディンの仕業だ。ハンスは、地中に含まれる鉱物や岩石類から、大量の刀剣類を生成する魔術を扱える。そうして作られた刀剣類は、魔術で電磁気力をコントロールすることによって、ハンスの意のままに操ることができるのだ。
不特定条件下での刀剣類の生成と同時に、念力のような物体操作を行使する高度な魔術なのだが、ハンスにとっては朝飯前も同然で、それを証明するかのように今も平然とした無表情で佇んでいる。
ハンスは、リカルドを横目で見遣ると、感情が見受けられない面持ちで淡々と口を動かし始めた。
「教皇と、これだけの観衆の目にさらされている現場だ。今の我々の立場からすれば、黒騎士に対しては攻撃する以外に選択肢はないだろう」
突然に攻撃を始めたハンスの思いとしては、教皇に不要な猜疑心を持たせたくないという背景があるのだろう。ここで不用意に黒騎士と会話をしようものなら、教皇はすぐにまた騎士団に対して圧力を強めてくる可能性があるのだ。
リカルドも、ハンスの言葉からそれを察したようだったが、
「まあ、理解はできるけどさ。これでシオンくんが今度こそ本当に死んじゃってたらどうすんの? なんで生きていたのかとか、色々聞けなくなっちゃうでしょうが」
苦虫を噛み潰したような顔で苦言を呈した。髭を携えた伊達男の顔が、何とも言えない表情に歪められる。
だが、アルバートはそんなリカルドの考えを否定するかのように、緊張した面持ちで長剣を構えた。
「ご安心ください。シオンがこの程度の攻撃でくたばるような男なら、始めからここまで事態はこじれていません」
アルバートの言葉を聞いたリカルドが、すぐさまハンスを見て笑う。
「この程度の攻撃、だとさ」
リカルドがそう揶揄ったが、ハンスは特に異論がある様子もなく、それどころか同意するかのように身構え始めた。
「それは当然だろう。仮にも、我々と同じく議席に座っていた男だ。あの程度の攻撃で死ぬはずがない」
そして、それに応じるかの如く、土煙が赤い稲妻によって一気に掻き消された。
その先から現れたのは、“帰天”を使い、“天使化”した状態のシオンだ――だが、見た目はその名に反して、非常に禍々しいものである。
双角に見立てられた欠けた光輪、黒く染め上がった網膜。誰もがシオンの姿を“悪魔”と形容するに違いないが――
「……?」
アルバートが、少しだけ訝しげに眉を顰めた。
グラスランドで交戦した時よりも、少しだけ様相が異なっている。以前見た時は、どす黒い血を通わせた血管のような痣が体の至る所に走っていたのだが、今の“天使化”したシオンにはそれがなかった。敢えて言うなら、前ほど無理をしている様子がしない――そんな印象がある。
しかし、
「来るぞ!」
そんなことに疑問を抱く間もなく、突如として発せられたレティシアの号令――直後、シオンが刀を手に、かつての同志たちへと襲い掛かっていった。
※
大聖堂のロッジア――黒騎士と議席持ちの騎士たちが交戦する有様を、教皇とイグナーツは、両者、苛立ちと焦燥を孕んだ表情で眺めていた。
人知を超えた超人たちが全力でぶつかり合う光景は、災害と呼ぶほどの激しさだった。衝撃によって大気が弾かれた跡には真空の空間が残り、それが周囲の物を巻き込みながら嵐のような暴風を生み出していく。周囲の石畳は軽々と割れて剥がされ、城壁のように並べられた石柱は小鹿の足よりも脆く折れていった。
黙示録の一節を具現化したような光景だったが――教皇は、次第につまらないオペラを見るかのような顔つきになった。
そして、ついに耐え兼ねたかのように、
「どうやら俺は、まんまと“お前の人形遊び”に付き合わされていたようだな」
低い声で、そう漏らした。
「騎士団はいつから“くだらない三流演者の劇団”になった?」
続けて教皇がそんな皮肉を言うが、イグナーツはすぐさま厳しい視線を返す。
「そんなことを仰らないでください。貴方もすぐにその“くだらない三流演者”と一緒に踊ることになりますよ」
イグナーツの言葉を聞いて、教皇はさらに眉間に力を入れる。
異様に張り詰めた不穏な空気が両者の間に流れるが――先に折れたのはイグナーツだった。彼はすぐに教皇へ深々と一礼する。
「とは言っても、黒騎士がこうしてこの場に現れたことは私も想定外でした。早々に対処いたします」
イグナーツはそう言ってロッジアから広場へと飛び降りた。着地先の広場で繰り広げられているのは、“天使化”した黒騎士と、議席持ちの騎士たちの戦い――教皇はそれを“演劇”と思っているようだが、実際は違う。間違いなく、当事者たちは本当の殺し合いをしているのだ。
ゆえに、イグナーツは理解ができなかった。
――こちらが苦労して“救い上げた命”を、何故シオンは無駄にするようなことを?
教皇の命を直接取りに来たとは考えにくい。もしそうなら、シオンならもっとスマートかつ隠密に事を進めているはずだからだ。
どうしてこうも、“敢えて目立つような振る舞い”を――
その疑念に辿り着いた瞬間、イグナーツは目を見開いた。
「リリアン卿!」
イグナーツが声を張り上げた。
それに応じるようにして、リリアンが戦闘の手を止めて振り返る。
「至急、ステラ王女のもとへ行ってください! シオンは、ステラ王女を取り戻しに来たのです!」
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