第72話
かつて教会には、世にも珍しいエルフの修道女がいた。
エルフは人間より三倍近い寿命を持ち、極端に老化が遅いことから、人間社会には馴染めないことが世の常とされている。エルフの大多数は、そのことを領分として人間とは一線を画した独自の生活区域を持ち、そこで過ごすことがほとんどだった。聖王暦一八〇〇年以前は、奴隷でもなければ、人間が住まう街の中でエルフを見かけることは非常に稀有なことだった。まして、人間とは異なる宗教観や倫理観を持ち合わせるエルフが、教会の聖職者として働いているなどとは誰も想像すらしない。
大陸で唯一のエルフの聖王教修道女――“リディア”は、エルフと人間との間に存在する様々な障壁を、いつか取り払えると信じていた。人間とエルフが、互いに共存し合える世界をいつも夢見ていた。
そのために彼女は、自らが人間を知る必要があると考えた。聖王教会に聖職者として勤め、神に救いを求める人間を理解しようとした。
リディアのそんな高い志に、教会もまた彼女を寛大に受け入れた。エルフの修道女――その響きだけで、人間とエルフにとって、友好的な象徴として扱うことができると考えたのだ。
修道女としての“リディア”の宣教、奉仕活動の成果は目覚ましいものだった。
教会が唱える聖王教の教えは、彼女の口を通して、多様な価値観、生活観を認めるものとして、エルフを始めとした多くの亜人たちに伝えられた。エルフと人間の垣根を取り払うという最大の目的こそ緩やかな前進であったものの、彼女が修道女になってから八十年の間に、亜人たちの人間に対する意識は、それまでと比べて著しく軟化した。
“リディア”が修道女になった当初、亜人の奴隷化を合法としていた大陸諸国は半数以上存在していた。だが、先進国であるログレス王国が率先して大陸全土の奴隷撤廃を掲げ、かつ彼女の奉仕活動が後押ししたこともあり、聖王暦が一九一〇年を超える頃には、大陸の八割以上の国で亜人の奴隷制度が撤廃された。
エルフの修道女の名は大陸各地に知れ渡るようになり、彼女に対して誰もが称賛と賛美の言葉を送った。
そうした功績を経て、“リディア”の地位が教会内で確立され始めた時――彼女は、とある雨の降る日に、野良犬のように蹲る一人の男児を修道院前で拾った。
“リディア”が、実はエルフではなく、禁忌の血を持つハーフエルフだと教会に知れ渡ったのは、それから十数年後のことである――
※
かつての弟子から発せられた言葉に、シオンは動揺で瞳を震わせた。体を打つ雨の冷たさを感じることもなく、ひたすらに頭の中でその意味を咀嚼した。
――最愛の人の死と、最悪の争いの発端は、自分にある。
間違いなく、プリシラはそう言ったのだ。
「おい、どういうことだ!? 初耳だぞ!」
固まるシオンを余所に、ユリウスが驚愕と怒りに目を剥いた。
プリシラは、憑き物が落ちたように、あるいは逆に正気を失ったように――口元に薄ら笑いを浮かべている。
「……ようやく、伝えられた」
彼女はそれから軽く空を仰いだ。顔に滴る雨が、徐に彼女の前髪を分けていく。露わになった紫色の瞳には、空の雲がそのまま映し出されていた。
ユリウスが、プリシラの肩を掴んで揺らす。
「何一人で勝手に満ち足りた顔してんだよ! てめぇ、何で“リディア先生”がハーフエルフだって知ったんだ! いつ知りやがった!」
しかし、プリシラはそれを軽く払いのけ、幽鬼の如くシオンの前に立った。
「シオン様、今申し上げた通りです」
彼女は、呆然と立ち尽くすシオンから刀を握る手を取った。そのまま刃を首の頸動脈に添えて、静かに手を離す。
「貴方の目の前にいるのは、貴方の最愛の人を奪い、貴方の人生を狂わせた元凶です。どうか、気兼ねなくこの刃を引いてください」
「おい、ちょっと待てって!」
ユリウスが瞬時に鋼糸を刀に纏わせ、プリシラの喉元から引き離す。刀はシオンの手から離れ、音を立てて地面に落ちた。
途端、プリシラが空の曇りを残したままの双眸で、ユリウスを睨んだ。
「邪魔をするな」
「邪魔もくそもねえだろ! 何の説明もなしに勝手に話を進めんじゃねえよ! おい、シオン!」
ユリウスは今度、シオンの肩を掴んで揺さぶる。
「てめぇはどうなんだ!? 何をどこまで知っている!?」
しかし、シオンは無言のままだ。
刹那、ユリウスがシオンの顔面を拳で殴りつける。派手に地面に転がったシオン。ユリウスはその胸倉を掴み、さらに腕を振り被った。
「口が利けねえなら、開きたくなるまでぶん殴――」
ユリウスがそこまで言いかけて、今度は彼の身体が地面に勢いよく転がった。シオンが投げ飛ばしたのだ。
シオンは意識を取り戻したように弱々しい光を双眸に宿し、徐に立ち上がる。
「……プリシラが密告者だとは知らなかった」
ぼそり、と低い声で呟いた。それから、力のない瞳でプリシラを見遣る。
「もしそれが本当なら、お前の言う通り、二年前の出来事のきっかけを作ったのは、お前だ」
シオンの言葉を受けて、プリシラが一歩前に出た。
「そうです、貴方の最大の敵は私です! ですから――」
「でも、それ自体は重要な話じゃない」
かつての師弟関係を彷彿とさせるような声色だった。諭すように言ったシオンに、プリシラは口を半開きにして呆ける。
「……どういう、意味ですか?」
「密告そのものは――いや、“リディア”がハーフエルフだという事実は、どんな形であれ、いずれ教会に知られていた。今回の件は、たまたまお前が密告したという形になっただけだ――さすがに少しショックだったけどな」
「ですが――」
「“偶然”、知ったんだろ? “何か”から、あるいは“誰か”から。敢えてお前が自発的に調べたわけじゃないはずだ」
プリシラは一瞬言葉を詰まらせた。シオンの言う通りであることは、その反応が証明していた。
だが、彼女は唇を噛み締めたあとで、再度シオンに詰め寄る。
「……それでも――」
紫色の双眸から溢れた涙が、雨と共に頬を伝っていった。
「それでも、その事実を利用して、“リディア様”を死に追いやったのは、紛れもなく私です……!」
幼児のようにしゃくりあげて、もう一度告白した。
「貴方のことが好きで……師として仰ぐ感情よりも、女として貴方を想う気持ちが強くなりすぎて――貴方の心を独占していたあの方を、どうしても許せなかった……」
プリシラは、過呼吸を耐えるように自分の胸を両手で押さえ込み、シオンに向かって首を垂れる。
「お願いします、貴方の手で殺してください……! 今は、自分自身がこの世で一番憎くてたまらない……!」
「――憎むべき相手なら他にいる」
プリシラの懇願を、シオンは即座に拒否した。毅然とした口調に、思わずといった様子でプリシラが面を上げる。その先にあったシオンの表情は、怒っているとも、悲しんでいるとも言えない、淡々としたものだった。
「二年前の一連の出来事は、お前のそんな感情も利用されて起きたんだ」
シオンとプリシラがそんなやり取りをしている傍らで――地面から起き上がったユリウスが二人のもとに歩いてきた。煙草を取り出し、マッチで火を点けようとしているが、豪雨のせいでうまくできないで若干苛立っている。
「なんだよ、利用されたって? 急に陰謀論か? 誰にだ、教皇にか?」
それにシオンは頷いた。
ユリウスは煙草を諦めて地面に吐き捨てる。それから改めて口を開いた。
「なあ。“リディア先生”の死が、騎士団分裂戦争を引き起こしたきっかけってのはわかっている。彼女の功績や立場を度外視した教会の決定に騎士や修道士たちが反発し、不服申し立てを行ったことが始まりだ。そこに、ブチギレたてめぇがなりふり構わず教皇に喧嘩売ったせいで、教会内で教皇派と分離派なんて対立構造ができたことも知っている。だが――」
ユリウスはそこで一度切って、雨を拭い取った。顔を顰めて、軽く悪態をつく。
「それが騎士同士で殺し合いをするまでに発展した理由が、いまひとつ納得できねえ。俺の知っている限り、戦争直前まで教皇派と分離派の対立はあくまで政治的な言い争いに留まっていたはずだ。それがどうして何の前触れもなく、“次の日から殺し合いだ”、なんてことになった? あの戦争で教皇派も分離派も宣戦布告なんてしなかった。どっちが先に手を出そうとしたかもはっきりわかっていねえ」
黙るシオンに、ユリウスはさらに疑問をぶつける。
「今の今まで戦争勃発の原因は、正面切って教皇に喧嘩売ったてめぇにあると思い込んでいたが、対立構造ができてから開戦するまでの間がすっぽり抜けていると思えてきた。色んな事がうやむやだ。てめぇは何をどこまで知っている? アルクノイアでアルバートは何を聞き出そうとしたんだ?」
長いユリウスの考察を聞き終えて、シオンは軽く空を仰いだ。目を瞑り、大きく息を吸い込む。
そして――
「あの戦争は――」
「そこまでだ」
真実を話そうとした矢先に、鋭い男の声が遮ってきた。
シオン、ユリウス、プリシラの三人が、咄嗟に身構える。
「シオン、この二人に余計なことは話すな」
この高台に、新たに三人の騎士が立っていた。三人の騎士はいずれもフードを目深に被り、手には武器を構えている。そこからは、豪雨の煩わしさすら鎮めかねないほどの殺気が放たれていた。
正面左のやや小柄な騎士は双剣を、中央の騎士は長剣を、正面右の大柄な騎士は身の丈ほどもある大剣を手にしていた。
「Ⅴ、Ⅵ、Ⅶ番――よりによってこの三人を揃えてきたか」
シオンが忌々しげに吐き捨てると、中央の騎士――円卓の議席Ⅶ番アルバート・クラウスがフードを外し、鋭い視線を向けてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます