最低の英雄②
「シンフォさん……迎えにきたよ」
努めて明るい笑みを作るリンフー。
シンフォを見て、改めて痛々しい気持ちになった。怪我を負った左肩と右上腕に血が滲んでいた。黒衣であるにもかかわらず、血がどこまで染み広がっているのかが分かる。
そんなシンフォは、言葉を発しないどころか、リンフーの顔を見ようともしない。緊張した面持ちを背け、ただただ押し黙ったままだった。
どうしていいか分からず、リンフーはとりあえず手を差し伸べると、その手を振り払われた。
気持ちが、凍りつく。
「……シンフォ、さん」
「誰が……助けてほしいなんて頼んだ。どうして来た。もう、私達は師弟でも何でもないんだぞ。それなのに……」
言い方こそきついものだったが、怒っているような、悲しんでいるような表情とは噛み合わないものだった。
それを見て、リンフーの心にふつふつと怒気が湧き上がっていった。
「そんなの決まってるだろっ! 師弟であろうとなかろうと、ボクはこうしてシンフォさんを助けに来たさっ!」
「どうしてだ!」
「好きだからに決まってるだろうがっ!!」
シンフォが大きく目を見開いた。
対して、リンフーの顔はとんでもなく真っ赤だった。明らかに場違いな告白だったが、今、言わないといけないと思った。
そうしなければ、彼女の心を納得させることはできないだろうから。
「……ボクはあなたが好きです。師匠として、親代わりとして、そして……一人の女性として。あなたの悩みや、心の闇の深さは、ボクには分からない。でも、そんなの、ボクにとって大した問題じゃない! どんなに汚い過去を持ってたって、ボクはシンフォさんのことが大好きだ! もっといろいろ教えてほしいし、ずっとあなたの側にいたい!」
「リンフー…………」
「だから……お願いだから、一人で悩まないでほしい。つらいなら無理に武法を教えなくたっていい。お酒飲むのにだってうるさく言わないから、ボクをこれからも、あなたの隣に置いてください。ボクの師匠は、この世であなただけなんだ。……あなたじゃないと、嫌なんだ」
言った。言ったぞ。全部言いたいこと言った。リンフーは真っ赤な顔のままシンフォを見つめ続ける。
シンフォも、リンフーほどではないが、頬がほんのり朱に染まっている。酒気が残っているのか、あるいはそれ以外の理由か。
二人の視線が重なったまま、動かない。
だが、シンフォの眼差しは突如として、何か危険なモノを見つけたかのように見開かれた。
「リンフー、危ないっ!!」
「うわっ!?」
突然シンフォに覆いかぶさられるリンフー。
顔面に押し付けられる巨大で柔らかな双丘の感触を知覚するよりも早く、シンフォの「うぐぅっ……!」という苦痛の呻きが耳に入った。
「シンフォさんっ!?」
見ると、シンフォの背中には細い線状の切り傷ができており、そこから血が滲みはじめていた。
後ろを振り返ると、少し離れたところにルォシンが立っていた。腹に大穴を開け、口元から血を流しながら、ギラギラした目でリンフーを睨んで笑みを作っているその様はまるで幽鬼のよう。おそらく、また釘か何かを飛ばしたのだろう。
「この野郎っ……!!」
「うるさいなぁ……クソが、なに女の顔してんだよぉ……! ムカつくなぁ、お前にそんな権利ないって言うのによぉ……! しかもその馬鹿弟子にまで殴られるし、クソッ、クソッ、クソッ、クソクソクソクソクソッ……師弟揃って僕を腹立たせるのが上手すぎなんだよぉちくしょうがぁっ…………!!」
吐血とともに毒づきながら、ルォシンは懐を片手でまさぐる。
「けど……このままじゃ、僕の命も、ここまでだ…………冗談じゃない。くたばってたまるか。僕は生き延びる、生き延びてやる。——お前ら師弟の苦しむ顔を、腹一杯堪能するまではなぁっ!」
取り出したのは、掌で覆えるほどの
その蓋を取り、容器を傾けると、中から丸薬のようなものが一粒転がり出てきた。
なんだ、あれは。
ルォシンはその丸薬と数秒にらめっこすると、やがて覚悟を決めたような顔でそれを口に入れ、飲み込んだ。
いったい何をしたのか。リンフーは警戒心とともにそう疑問を抱きながら、ルォシンをじっと見つめる。
ルォシンはしばらく凍ったように無反応だったが、やがて顕著すぎる反応を示した。
「っっ!!? っぐぅ……か……はぁ…………っ!!」
突然、胸を押さえて苦しみ出した。
「ぐがっ! あああっ…………い、痛い、痛いっ!! 熱いっ!! が、ああああああああああ!!」
両膝を付き、うずくまって苦痛を訴える。
「い、痛い! 痛い痛いいたいいたいイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイよぉぉぉぉおぉおぉぉおぉぉぉぉ!! はぁっ!! 助けて! 助けて!! お父さんっ、たすけっ、あがっ、ひぎっ、ぎゃあああああああああああああああグフブッ——!!!?」
叫喚とともに、赤黒い血をドバッと吐き出した。大地に真っ赤な血溜まりが広がる。
「ゴボボホッッ…………あぎぃっ、ひぎ、ぎぁぁぁぁあああああああああああああああ!! ああああああ!! うがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああ!!」
その異様な光景に、リンフーも、シンフォも、下で戦っていた敵も味方も、皆手を止めて釘付けとなっていた。
ひたすら、ひたすら、もがき苦しみ続けるルォシン。
その叫びはもはや人の出すソレではない。まるで気の触れたケダモノのようだ。聞く者の心臓を鷲掴みにしてそのまま鼓動を止めてしまいそうなほど、おぞましく、本能的恐怖を抱かせるものだった。
しかし、そんなルォシンに、突如として明確な変化が訪れた。
ボコンッ!! と全身が膨れ上がった。
四肢、胴体、首、それらが
その太さは少しずつ増していき、やがて着ている衣服を内側から引き裂いた。
しばらくして、肉体の太さの膨張が止まる。その頃には、先ほどまでの長身痩躯とは比べ物にならない背丈と体格を持つ、骨太の巨人へと変じていた。
四つん這いの裸体の素肌から、色が少しずつ失われていき、やがて石膏のような純白となった。それが彫像などであればまだ美感を覚えたであろうが、人間の肌の色となれば不気味さ以外感じられない。
さらに、肉体の形状に変化が起こった。
メキメキメキメキ……木がへし折れて傾いていくような音を立てながら、背中が変形していく。広背筋が異常に肥大化して飛膜のように横へ広がり、脊椎が大きく湾曲していき、やがて
足がさらに強靭になっていく。足首から爪先までを除き、まるで馬のような屈強さを感じさせる形へと変貌を遂げる。
腹に開いた穴も、いつの間にか綺麗さっぱり塞がっていた。
そこまで変化して、ようやくルォシンの絶叫は止まった。
異形の姿のまま浅く呼吸を繰り返す。
呼吸の間隔がだんだん広がっていく。
やがて落ち着いた途端——白い異形の巨人は四つん這いの状態から立ち上がり、天を見上げて弾けるように馬鹿笑いした。
「はハははっ……グはははハハハハハハハはははははハはははハハハはははははハハハハハハハハハハハハハハハハははははははハハハははははははァっ!!!」
その声は、先ほどまでの涼しげな響きを持つルォシンの声ではなかった。異様に野太くなり、ところどころで調子の外れた不気味な声。
先ほどまでの面影は、ほとんど残っていない。顔はルォシンの面影を残しているが、それ以外の何もかもがいちじるしい変態を遂げている。顔の造作だけ変わっていないのが、かえって不気味だった。
これが……あのルォシンなのか?
リンフーだけではない。シンフォも、ユァンフイも、チウシンも、【
そんなリンフーたちを他所に、ルォシンは一人で喜びに浸る。相変わらず調子の外れた野太い声で。
「やっタ!! 僕ハやッたぞ!! 【
そこで言葉を区切ると、黒服達を見下ろし、高らかに言い放った。
「オ前達!! 今ここニ、新しイ【上品坐】が誕生しタ!! 【
まるで新たな時代の到来に熱狂する民衆のごとく、黒服たちは雄叫びを上げた。
状況が読み込みきれず、リンフーは当惑する。
ルォシンだった白い怪物は、その瞳をちろりとリンフーへ向けた。落ち窪んだように真っ黒だったその瞳は黄色く変色しており、中心には蛇眼のような縦線状の瞳孔。
「あア、分カラないヨウなラ説明シてアゲるヨ。——僕は今、
「何っ?」
「サっき僕ガ飲ンダ丸薬は【転命珠】。飲むト想像ヲはるカに超エルほどノ凄マジい激痛ガ体を襲ウ。だいタイの人間ハそノ激痛に耐エかネテ死んデしまウンだケど、そレヲ耐え抜クト肉体が「進化」すル。人間ヲ進化さセルモノは苦痛。ソレヲたクさん肉体ニ与えルこトデ、肉体ノ進化を強制的ニ促ス。結果、こノ通りトイうわケサ。まァ、種無しニなってシマウこトが唯一ノ欠点カモしレナイが、僕ラにトッては
「……そんな化け物に成り下がったからって、何の得がお前にあるんだよ」
「人間ヲ越えタ強サが手に入ル。何よりコノ【転命珠】ヲ飲んデ生き延ビルことガ、【下品坐】かラ【上品坐】に昇格スるたメノ条件なんダヨ。どレだけ【求真門】トいウ組織に身ヲ捧ゲラれルか、ソレを試シてイルンだ」
「くだらないな。よほど部下が信用できない組織と見える」
「くダラなイかドウかハ、ソノ身で確カメてミルといイ。——オ前にハ、この新タな力の実験台ニなッてもラウよ」
ルォシンのその白い巨躯が、リンフーの視界を瞬時に埋め尽くした。
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