酒瓶の割れる音

 リンフーは急いでシンフォを家へ連れ帰った。


 口を水でゆすがせ、寝台に横にならせた。酒もしばらくはやめるように言いつけた。


 いつものシンフォなら多少ごねたかもしれない。だが今は文句一つ言わずに従った。


 現在、シンフォは寝台で寝息をたてていた。


 こういう時、医術の知識があれば上手いこと処置できたのだろう。それができない自分がなんだか情けなかった。


 いや、あれは本当に、何かの病気なのだろうか?


 酒に酔ったとは考えられない。人間離れした酒豪であるシンフォが酔って吐くなど滅多にないし、吐くとしてももっと気持ちよく吐いていた。だが今回は少し異常な、病的な吐き方だった。


 発端はなんだ?


 あの異国の酒でないとするなら、発端は……


「……フイミンさんに、会ったこと?」


 そうだ。あの銀色の幼女と遭遇する直前まで、シンフォは心から笑っていたのだ。状況から判断するに、フイミンが原因であるとしか考えられない。


 彼女はシンフォを「リーリエ」と呼んでいた。かつて彼女自身が引き分けた相手の名前だ。


 二人はかつて、戦ったことがあるのだろうか?


 だが名前が違う。断定はできない。けれどシンフォのあの反応が、二人の間に「何か」があると雄弁に表しているのは確か。


 ……いずれにせよ、すべてはシンフォに尋ねなければ分からない。


 シンフォのことを思い、あえて今まで問わずにいた「過去」。


 自分で自分をロクデナシだと吐き捨てるほどの「過去」。


 今こそ、それを訊くべき時なのかもしれない。


 だが、今は休ませておくべきだろう。少し気持ちが戻ってから、勇気を出して話を訊くとしよう。


 すぐに答えが出ないことがもどかしい。


 自分も少し、気を落ち着けなければならない。


「シンフォさん……ボク、庭で鍛錬してるから、何かあったら呼んでくれ。あと、今日は酒は控えてくれよ」 


 そう言って、庭へ出た。


 リンフーは【天鼓拳てんこけん】の型を練り始めた。


 武法名と同じ名を持つただ一つの型を、半ば現実逃避するように行った。


 時間が経つのも忘れ、型を何度も練り続ける。


 気がつくと、空が夕方の片鱗を見せていた。


 庭の井戸で水を汲んで裸の上半身にかけて汗を洗い落とし、手拭いで水を拭う。それから手製の稽古着を着直し、家へと戻った。そろそろ風呂と飯の用意をしなければ。


 夕飯は消化の良いものを作ってあげよう……献立を思い浮かべながら家へと入る。


 入った途端、酸味の強い酒の匂いが鼻をついた。


 食堂に入ると、そこには椅子にふんぞり返って酒杯をあおるシンフォの姿があった。卓上には、大量の酒瓶が並んでいる。


「な……何やってんだよ!? 今日は酒は控えろって言っただろ!?」


 リンフーはそう非難するが、聞く耳持たずとばかりに、今度は酒瓶に直接口をつけて煽りだした。口端から無駄に流れ落ちるのも構わず飲む。


「やめろってば!」


 シンフォの手元から酒瓶をひったくる。だがシンフォは別の酒瓶を掴み、天高く持ち上げて飲み始めた。それは飲むというより、浴びているかのようだった。


 明らかに異常な飲み方だ。まるで酒がないと呼吸すらできないとばかりに。


 リンフーはそれも奪い取り、卓上に置いてから叱りつけた。


「一体何をやってるんだ!? 体に毒だぞ、そんな飲み方!」


 瞬間、リンフーの耳元を酒瓶が横切った。あさっての方向の壁に当たり、バリンッと割れた。


「うるさい!! 放っておけっ!! 私がどこでどれだけ飲もうが、君には関係のないことだ!!」


 シンフォは赤らんだ顔でキッと睨みつけ、そう癇癪のようにまくし立てた。


 リンフーは一瞬、言葉を失った。


 こんなシンフォさん、初めてだ。


 再び酒瓶を取り、笛を吹くように飲み始める。


「いい加減に、しろっ!」


 それも奪い取ると、シンフォは苛立ったように腕を横に振り、卓上の酒瓶を薙ぎ払った。ゴロゴロと無数の酒瓶が床を転がる。


「いい加減にするのは君の方だ!! いつもいつも私の飲酒に文句をつけて!! 君には関係ないことだろう!?」


「関係ないわけあるかっ! 心配なんだよ、ボクはっ!」


「余計なお世話だ!!」


「余計なもんかっ!! ボクはあなたの弟子なんだ!! 師匠の体調心配するのが悪い事なのかっ!?」


 そこで、二人の激しい会話が止まる。


 しばらくしてから、静まりかえった空気に、シンフォが信じがたい言葉を静かに投じた。


「……ならば、弟子などやめてしまえばいい」


「はっ……?」


 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


 固まっているリンフーに対して、追い討ちをかけるように発言を投げてきた。


「君は今日限りで破門だ。どこへなりと行くがいい。君のその武法は好きに使え。誰かに教えるのも、教えず腐らせるのも自由だ」


「な……何言ってんだよ? 冗談にしてはタチが悪いんじゃないか」


「冗談ではない。互いのためにならぬ師弟関係など、存在する価値はない。師弟関係はな、師による一方的な奉仕ではないんだ。師は武を教え、弟子は金なり何なりでそれに対する対価を支払う。君には金を要求しない代わりに、生活において私を快適に暮らさせることを要求した。だが実際はどうだ? 確かに家事炊事はやってくれているが、酒を飲むたびに何かと小言をぶつけて、私はいつも不愉快だった。これでは快適な暮らしとは言えまい。飲みたい時に飲めぬ生活など、私にとっては不快でしかないんだよ」


 呆然と立ち尽くすリンフー。


 信じがたい言葉の連続に、現実感が希薄だった。視界がぐにゃぐにゃと不規則にゆらぎ、鍛錬で安定しているはずの重心がよろめいた。


 シンフォは転がっている酒瓶を拾って煽り、数回喉を鳴らして空にした後、赤い顔で弟子を睨んで冷厳に言い放った。


「出ていけ」


「シンフォさ——」


 投げられた空瓶が側頭部を横切り、壁に当たって砕け散った。


 バリィン! という陶器の割れる悲劇的な音が響く。


 明確な拒絶。


 憤ればいいのか、悲しめばいいのか分からず、


「っ!」


 リンフーは、その場から逃げ出すことしか思いつかなかった。


 玄関の戸口を体当たりで開き、外へと飛び出すリンフーの後ろ姿。


 それが消えるのを視界に認めると、シンフォはその場にへたり込んだ。


「……これで、よかったのだ」


 ぽつりとこぼれたその言葉に、酔いの響きは無かった。


 転がっている酒瓶の一つを拾い、それを煽って飲む。一気に飲み干し、頭に心地よく酒精が回る感じがした。


 しかし、かつての自分がしでかしてきた蛮行の記憶が、薄れることはなかった。


「もう、酒に溺れても、頭から消えん……」


 なんという運命の悪戯だろうか。


 まさか、かつて「田麗洌ティエン・リーリエ」と名乗っていた頃の自分と戦い引き分けた猛者【白幻頑童はくげんがんどう】と、こんな形で出会うことになろうとは。


 これは、「お前の罪を決して忘れるな」と、今まで殺してきた武法士の亡霊が仕組んだことなのかもしれない。


 自分は今まで、自分の犯した罪をそそぐために、多くの人々に医をふるってきた。


 一方で、自分の罪を思い浮かべるたび、自刃したい衝動に駆られた。それを防ぐために、酒の力を借りていた。そうすることで自殺という逃げ道を断ち、なおかつ精神の均衡を保った。


 けれど、フイミンに再会してからというもの、酒をいくら飲んでも記憶が薄れない。


 もう、逃げられない。


 自分がどうしようもない畜生であるという事実を、忘れることができない。


「そんな私に……君は隣にいるには眩しすぎる」


 自分が畜生だと明確に自覚した状態から、もう逃れられない。そんな今、彼に武法を教えることに強いためらいを覚えてしまうだろう。


 酒に酔って夢心地になっている間、自分は彼にとっての「だらしない大酒飲みのシンフォさん」でいられた。


 だが、もう酒でも忘れられない。自分は畜生のまま、彼に教えなければならなくなる。


 怖かった。あの純粋な魂が、自分に教えられることによって穢れてしまうのではないかと、不安で仕方がなかった。


 だから、もう育てられない。


「無責任だなぁ……私は」


 手で顔を覆い、ひとりごちる。


 こんなことなら、あの時、彼に弟子入りなど持ちかけなければよかった。


 「この幼くも熱い少年を、自分の手で本物の英雄にしてみたい」なんて欲をかかなければよかった。


 義のため人のために武と勇を振るえる英傑を作ることで、自分の罪をつぐなえる……そんな考えがあったのかもしれない。


 つまるところ、自分は彼を利用していたのだ。


 英雄を育てることで、自分の罪が晴れるとでも思っていたのか。


 余計なことをしたせいで、彼をこうして傷つけて袖にするしかなくなってしまった。


「……最低だな、私は」


 誰も答えるはずのない独り言。


「——そうだね。お前は最低のクズだよ」


 それに答える声が返ってきた。


 ハッと顔を上げる。


 そこには、白い青年がいた。


 顔の造作は穏やかに整っているが、落ち窪んだような暗い眼差しがその青年の内包する闇の深さを示唆している。雪のように白い長髪は肩まで垂れ、身に纏っている文字だらけな白い外套に視線が行き着く。爆殺、轢殺、禁殺、絞殺、格殺、斬殺……あらゆる殺人手段の単語が赤い字で書き殴られた外套。


 あきらかな不審者——そもそも他人の家に勝手に上がり込んでいる時点で怪しいのだが——を前に、シンフォは警戒心を抱く。


 その不審者はまなじりを細め、いびつな微笑を浮かべた。


「へぇ……姿形が変わっていないね。やっぱり【亜仙あせん】か。まったくもって生き意地汚いね。けど、僕にとっては好都合かな。報復対象と捕獲対象がかぶるんだもの。あっさり殺すよりも、実験でいたぶり殺す方が楽しいよね」


「何を、言っている? 君は誰だ?」


 誰何すいかすると、白い青年はすぐに不快感を煽るような笑顔を浮かべた。表情は嘲笑に見えるが、その黒い瞳には強烈な憎悪の光が浮かんでいる。


「【求真門きゅうしんもん下品坐かひんざ羅鑫ルォシン。今日はお前に二重の用があって来たんだよ——鏤華ロゥファ


「——っ!?」


 心臓が跳ね上がった。


 『下品坐』……【求真門】の下級幹部が目の前にいるという事実よりも、シンフォは「鏤華ロゥファ」という呼称に驚愕を覚えた。


 かつて自分が幾度も変えた名前。そのうちの一つだったからだ。


 手足が震えてくる。自分の忌むべき過去を知る存在が、目の前に再び現れたから。


「一体、君は……?」


 シンフォがかすれた声でそう発した瞬間、左肩に激痛が走った。


「っ!? ぐああああああああああああっ!?」


 小さな一点を刺し貫かれるような痛覚の暴力に、叫喚した。


 痛みを受けた左肩の布地には、急速に血の染みが広がり始めていた。


 その様子を見て、白い青年——ルォシンは少し驚いた様子を見せた。


「あれ? なんで【こう】を使って防がないんだい? んー、…………えいっ」


「ぐうっ!?」


 今度は右の上腕部に、先ほどと同じような貫く痛みが襲って来た。


 唸りながら苦悶するシンフォ。それを不思議そうに見下ろすルォシン。


「ねぇロゥファ、なんで反撃して来ないの? 言葉の流れからして、僕がその痛みをもたらしていることは明らかじゃないか。明らかな害意に反撃しないなんて馬鹿なの? それともそういうアブナイ性癖の人……とは思えないねぇ。反撃しなよ、僕の父さんを殺したみたいにさ」


 そう言っても、いまだに反撃せずに苦悶しているシンフォを見て、ルォシンはある可能性を思いつく。


「……もしかして、今は武法使えない感じ?」


 一瞬だがシンフォの唸りが止まる。


 それを肯定と読んだルォシンは、シンフォの腹を思い切り蹴飛ばした。


「あはははははは!! なんだい!? 悪い事しすぎて【殲招鍼せんしょうしん】でも打たれちゃった!? なんてこった! これはとんでもない幸運だよ! 僕の父さんを一撃で殺すほどだった妖女が、今じゃただの雌か!? これならお前を連れて行くのなんか楽勝だ! 我らの悲願たる【真仙しんせん】研究のための貴重な材料になる【亜仙】がこんな簡単に手に入って、おまけにお前への報復もできる! 幸運すぎて怖いよ!! はははははははははっ!!」


 シンフォの右上腕の傷口が踏みつけられる。


 脂汗を額に浮かべ、苦痛に耐えるシンフォ。その苦痛をもたらす二箇所の傷口にルォシンは指を突っ込み、傷口の中に埋まっていた小さな異物——二本のクギを強引に引っこ抜いた。


「ああああああああああああ!?」


 激痛に絶叫するシンフォを悦のこもった眼差しで見下ろしながら、釘に付着した血を舐めとるルォシン。


「それじゃあ、早速僕と来てもらうよ。これからお前に、面白い見せ物を用意してやるからさ」

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