経験差に立ち向かえ!

 その茶館【清香堂せいこうどう】の近くに小さな闘技場があったことは、二人の戦意の鮮度を保ったまま試合に持っていく要因になった。


 闘技場が遠くにあれば、ある程度歩いているうちに気の昂りが多少落ち着き、話せる予知が生まれるのではと思っていたので、チウシンは頭を抱えたくなった。


 闘技場で睨み合う二人の武法士を、もう誰も止めることは叶わなかった。


「リンフーとか言ったか。俺は手加減せんぞ。腹をくくってかかるんだな」


「それはこっちのセリフだよ馬鹿。後悔して泣き出しても知らないからな」


「……その生意気な口がいつまで利けるのか、見ものだな」


 静かな怒気を孕んだ声でそう言うと、リーフォンはおもむろに左腰の剣を抜き放った。


 細い両刃の直剣が外界に晒された。冷たい金属の塊が、昼の陽光を控えめに反射する。まごうことなき刃の輝きだ。


 その輝きに当てられ、リンフーは否応なしに緊張感を強いられた。


 ——武法同士の戦いにおいて、剣や刀、槍などは一撃必殺の武器にはなり得ない。


 【こう】という、己の肉体の硬度を一時的に鋼鉄並みに高める技術が存在するからだ。【鋼】を使えば刀剣や矛先は防げる。だからこそ、武器が無かったから勝てなかった、などという言い訳は通用しないのである。


 武法は素手の拳法を基盤として体系化されており、武器はその拳法の術力で操ることができるように作られている。武器の役割は、間合いの延長、または戦術の拡張という程度である。


 リンフーは刃物への恐怖心を少しでも薄くするため、シンフォからいろいろな訓練を施された。その甲斐あって今ではかなり恐怖が薄れたが、戦意をもって刃を握る敵とこうして実際に相対してみると、否応なしに刃を気にしてしまう。


 だが、引き下がることはあり得ない。


 こいつはシンフォが授けてくれた【天鼓拳てんこけん】を侮辱したのだ。一発入れてやらないと気が済まない。どでかい一発を。


 二人は互いに右掌左拳の抱拳を行い、名乗りを上げた。


「——【天鼓拳】、汪璘虎ワン・リンフー

「——【箭走炮捶せんそうほうすい】、高励峰ガオ・リーフォン


 それを境に、戦いが始まった。


 次の瞬間、剣尖がリンフーの右胸へと急迫した。


「うおっ!?」

 

 無論、当たる前に知覚できたので回避は間に合った。【游雲踪ゆううんそう】による「最速の一歩」で剣尖の延長線上から瞬時に身を外し、剣尖は霞のごとき残像を穿つ。


 リーフォンは目を見張るが、それは一瞬のことで、すぐに右の爪先で蹴ってきた。


 これもまた【游雲踪】で回避しつつ、リーフォンの右を取る。突き出されたリーフォンの蹴り足の真上を滑らせるように左肘を走らせた。狙いは【移山肘いざんちゅう】という肘打ち。【天鼓拳】の例に漏れず術力はそうとうに重い。


 しかし肘が当たる直前に、リーフォンの体が急激に遠ざかった。目標を遠くへ逃し、踏み込みに合わせた左肘が虚空を貫く。


 かと思えば、その遠間からまた急激に距離を縮め、剣で突いてきた。まるでが往復したような驚くべき速度だった。


「くっ!」


 リンフーは前に出ていた左前腕に【鋼】を施した。一時的に鋼鉄並みの硬さを得た前腕部で剣尖を受け、外側へ滑らせ、後ろへ流す。


 やりすごしたと思った瞬間、すかさず次が来た。刺突の失敗からほとんど間を置かずに、靴裏で踏み押すような蹴りがリンフーの胴体にぶち当てられた。


「ぐっ……!」


 刺突に気を取られていて、蹴りに対する知覚がおろそかになってしまっていた。撞木で打たれたかのごとき衝突力に弾き飛ばされる。


 勢いよく流されるリンフーを、それ以上の速度でリーフォンが追い縋ってきた。放たれた刺突を、【鋼】をかけた左掌でガキンッ! と受け止めた。


「こん、のっ!」


 リンフーは攻められてばかりで頭にきていた。なので、蹴りを放った。


 それは考え無しに振り放たれた苦し紛れのひと蹴りで、戦術性は無いに等しかった。……それが偶然リーフォンの手元に直撃し、そこに持っていた剣を真上へ蹴り跳ばせたのは、まさしく幸運と言わざるを得なかった。


 回転しながら宙を舞う細身の直剣。


 二人は同時にそれへ近づく。虚空を垂直に落ちる剣を挟んで、間近で向かい合う。


 リーフォンは当然、剣を取ろうとする。


 だがリンフーはそれに対し、【頂陽針ちょうようしん】を繰り出した。


 猛烈な術力を宿して直進する拳の延長線上には、剣と、その向こう側のリーフォン。


 剣に向かって技を打ったのは、リンフーなりの駆け引きだった。


 相手が剣を拾いに来るとしたら、その剣はそのままリーフォンを引き寄せるための餌になる。どこに来るのかが分かっていれば、技は格段に当てやすくなる。


 だがリーフォンはその手に乗らなかった。腕を伸ばすのを途中でやめ、風のように後方へ退いた。


 リンフーの拳の間合いから、敵の姿が遠ざかる。考えていた作戦は失敗に終わったが、計らずも成果はあった。


 虚空を舞っていた剣の腹に【頂陽針】の拳が突き刺さり——粉々に砕け散った。


 武器破壊。


(やった!)


 リーフォンの戦術の一つを潰した。リンフーは嬉しい誤算に歓喜を覚える。


 しかし、リーフォンは少しも表情を変えない。再びリンフーへ突風のごとく近づき、その過程で宙から掴み取った「ソレ」をリンフーの顔面へ投げつけてきた。


「わ!?」


 思わず顔を両腕で覆う。投げられたのは剣身を失った柄だった。


 反射的に腕で防いだが、それと拍子を重ね合わせる形で、強い衝撃が土手っ腹に衝突してきた。正拳だ。


「ぐぁっ……!」


 突き抜けるような鋭い衝撃と痛覚に、視界が明滅する。


 反応を逆手に取られた。リーフォンは、モノを投げたら両腕で顔を防御するという反応を利用し、敵に目隠しをさせたのだ。


 歴然であろう実戦経験の差に、リンフーはまんまとしてやられた。


 衝撃の余波で後ろへ押し流されるリンフー。そこへリーフォンは瞬時に追いつき、直線状に蹴りを叩き込んだ。リンフーはさらに弾かれて加速し、壁に背中から衝突。


「けほっ、こほっこほっ……!」


 咳き込みながらも、リンフーは敵を睨み続ける。


 リーフォンは蔑むような眼差しを向ける。


「どうした、田舎拳法? これでおしまいか?」


「……言わせておけばっ!」


 リンフーは怒りを気力に変換し、立ち上がる。


 一気に駆け寄り、【頂陽針】。剛槍の刺突のごとき右拳が、風圧の帳をまといながらリーフォンへと爆進する。


 リーフォンは左腕を突き出すと、その側面にリンフーの右拳を滑らせた。進行方向を外側へズラし、後方へ流しながら懐へ入る。そのまま左掌でリンフーの胸を衝いた。


「ぐはっ!?」


 平べったい衝撃に息が一瞬詰まる。後ろへ流される。倒れないよう足で均衡を保つ。


 リンフーは反省した。下手な攻めは逆効果だ。怒りに身を任せるな。相手を良く見ろ。いつだったか、シンフォさんにも教わっただろう。


 呼吸を整えながらリーフォンを見据え、今までの戦いの記憶を振り返る。


(思い出せ、あいつは今まで、どんな動きを多く使ってた……?)


 すぐに思い浮かんだ。


 真っ直ぐな動き。


 刺突、蹴り、掌底、全て直線の軌道を描く攻撃ばかりだ。回し蹴りの類のような円弧軌道の攻撃は今のところ一度も使っていない。


 さらに、移動が速い。大きく離れた距離も、一瞬で詰めてくる。


 それがリンフーの、これまでの経過を分析した上での見解だった。


 ——同時に、リーフォンの使う武法【箭走炮捶】の特徴でもあった。


 創始者は、とある宮廷護衛官。


 主君や皇族、もしくは高級官僚が予期せぬ凶刃に襲われた際、護衛官は一刻も速くその賊に近づき制圧・打倒する必要がある。


 とある宮廷護衛官が、その任務を完遂するのにもっとも適した武法として【箭走炮捶】を作り上げた。


 追い求めたのは、「のような速さ」。


 特殊な歩法によって生まれる術力を用いて突風のごとく加速し、瞬時に敵に近づき打倒する。


 攻撃の軌道も直線が大半を占める。腕を振ったり回し蹴りをしたりなどという遠回しな攻撃は、【箭走炮捶】の売りである「速さ」を阻害するからだ。


 己自身を「箭」に変え、警護にも打倒にも優れた性能を発揮する武法である。


「そろそろ倒れて楽になるといいっ!」


 再びリーフォンが一気に押し迫る。やはり速い。


「舐めるなよ!」


 けれど、打とうとしている右拳の動きが見えた。「知覚」出来ている。


 リンフーは【游雲踪】でそれを紙一重で回避しつつ、リーフォンの横合いを取った。間を取らずに真っ直ぐな蹴りが迫ってくるが、それも回避した。


「ちょこまかと……!」


 リーフォンは苛立たしげに毒づいた。


 鋭い攻撃が幾度もリンフーを襲う。しかし、いずれも霞のような残像を貫くばかり。


(よく見て対応するんだ……相手に圧倒されて持ち味を失うな)


 相手が自分の持ち味で攻めてくるのなら、自分もまた持ち味で対処すればいい。自分に無いモノを相手は持っているが、自分もまた相手に無いモノを持っているのだから。


 リーフォンの動きをよく見て攻撃の予兆を観察し、少しでも攻める挙動を見せたのなら【游雲踪】で安全地帯へ身を滑らせる。その膠着状態を保ったまま、相手の付け入る隙を探る……【天鼓拳】の基本的な戦術をそのまま踏襲していた。


 だが、やはりリンフーには、まだ経験が足りなかった。


 もう何度目か分からない正拳の回避。しかしその拳は、リンフーのすぐ横を紙一重で通過したかと思ったら、そのままリンフーの二の腕を掴み取った。リーフォンはそのまま、勢いよく後退した。


「わっ……!」


 その勢いに引っ張られ、リンフーの両足が地から浮き上がった。


 驚きと同時にリーフォンの企みに感づき、背筋が寒くなる。


 確かに【游雲踪】は回避に優れた歩法だが、「歩法」である以上、地に足がついて・・・・・・・いなければ・・・・・使えない・・・・。……今、足は地から浮いてしまっていた。


 空中では身動きが取れない。格好の的。


 ここでまた、踏んだ場数の差が出た。

 

 まもなく、リーフォンは攻撃をしかけてくるだろう。今の自分にそれを回避する手立てはない。


 だがリンフーは食い下がった。


 避けられない? だったら——避けなければいい・・・・・・・・


「こん、のっ!」


 ぱしんっ! 


 リーフォンの右正拳が放たれるよりも一瞬速く、リンフーはリーフォンの左頬を右掌で引っ叩いた。


 無論、術力など宿っておらず、威力は皆無に等しい。


 けれどその右掌の一撃は、リーフォンの頭部の位置を傾けることができた。


 頭という重い部位が予期せぬ外力によって傾けられたことで、リーフォンの姿勢は大きく崩れ、その結果——技が不発に終わった。


(シンフォさんに教わった通りだ……!)


 術力というのは、威力を生み出す体術だけでなく、それを支える「形」も重要である。


 どれほど高火力の大砲でも、それを支える土台が貧弱では思い通りに飛ばない。


 武法の技もまたしかり。どれだけ術力を引き出そうとも、それを支えて打ち出すための「形」が歪んでいれば、術力は分散し、技は力を失くし、体勢は崩れる。


 手に入れた一瞬の猶予を使い、リンフーは地を手を付いて受け身を取った。


 しかし立ち上がろうとした時には、すでにリーフォンが得意の高速移動で彼我の距離を潰していた。しゃがんで無防備な状態のリンフーのすぐそこまで、蹴りが迫っていた。


 このしゃがんだ状態で使える技など——たった一つしか無かった。


 リンフーは跳ね上がった。真上へ弾けるような術力によって急激に腰と右脚を持ち上げ、リーフォンの胴体に右の踵を衝突させた。


「ぉあっ——!?」


 ずんっ、と、空気と大地が震える。同時に、リーフォンの呻き。


 【升閃脚しょうせんきゃく】。地に足が付いている状態であれば、どのような体勢からでも発動できる強力な垂直蹴り。


 リンフーの両足は、まるで天地に楔を打ち込んだように上下へ伸ばされていた。左足は根を張るがごとく大地を踏みしめ、右足は真上にいるリーフォンの胴体を垂直に踏み抜いていた。


 柱に腹を乗せて垂れ下がったような有様となっているリーフォンは、完全に気を失っていた。



 




「————はっ!?」


 それから約一分後、リーフォンは自力で覚醒した。


「目が覚めた?」


 見ると、やや雲が増え始めた青空と、それを背景にしたチウシンの微笑みがあった。


 リーフォンは今、闘技場のど真ん中で大の字になっていた。それを、チウシンがしゃがんで見下ろしていた。


 しばらくぼんやりとした顔で幼馴染と視線を交え、やがて気恥ずかしくなって、上半身を勢いよく起こした。


「痛っ……」


 だが、途中で胴体に残る鈍痛を自覚し、顔をしかめる。


 同時に思い出す。気を失う直前までの記憶を。リンフーに敗北したという記憶を。


 距離を置いて立っているリンフーと目が合う。女顔の美少年は何度かまばたきをしてから、プイッと不機嫌そうに顔を背けた。


 その態度が癇に障った。リーフォンはガバッと立ち上がり、リンフーに気炎を吹いた。


「おい! もう一度俺と勝負しろ! さっきは油断していただけだ! 次は絶対に負けん! さぁ、来い!」


「やなこった。それより、【天鼓拳】を馬鹿にした件を謝れよ」


「そんなこと後回しだ! まずはもう一度俺と戦え!」


「そんなこと、だと?…………ふん、お前なんかとは死んでもヤだね。とっとと【吉剣鏢局きっけんひょうきょく】に帰れ。それで道徳から勉強し直してこい」


「貴様ぁっ!」


 リーフォンは本格的に燃え上がり、リンフーへ突き進もうとした。


 だがそれよりも早く、チウシンの非難がましい声が飛んだ。


「リンフー! 今のはいくらなんでも言い過ぎだよ!」


 たしかにそうかもしれない。リンフーはそう思い、苛立ちに任せての失言を後悔した。けれど、そもそもこの一件において失礼なことを先に言ったのはリーフォンだ。だからリンフーは謝らず、黙るだけにした。


「リーフォンも、落ち着いて。大丈夫だから。リーフォンが本当はもっと強いってこと、幼馴染のわたしが良く知ってるから」


 チウシンは優しい微笑を浮かべ、そうリーフォンを慰めてきた。


 それを受け、リーフォンは気分を落ち着かせるどころか、さらに屈辱感が増した。


 惚れた女の前で無様に負けを晒し、さらにはその女に憐憫されている。


 男として、これ以上の屈辱があろうか。


「……畜生っ!!」


 リーフォンは屈辱で身を任せ、その場を走り去った。


「あ、待ってっ!」


 チウシンは追いかけようとするも、リーフォンの歩法に追いつくことは叶わなかった。

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