最初の朝、少女の奇行
リンフーは【
ユァンフイから借りた一軒家は、前に住んでいた借家よりも広く、部屋数も上だった。厨房、食堂、寝室がちゃんと分かれている。特に寝室として使える部屋が二つあったのには助かった。これでシンフォの扇情的な寝姿を見てしまい、それをネタにからかい倒されることも減るだろう。
不満を挙げるなら……食堂に流血の黒い痕跡がいまだに残っているところだろうか。以前住んでいた夫婦の修羅場が否応なく想像され、作っている飯が不味くなりそうだった。慣れるのを待つしかない。
昨日——月四〇〇
リンフーは早速酒臭くなり始めた部屋の空気を嗅ぎとりながら、散乱した酒甕を集めて厨房の隅っこにまとめた。飲み過ぎないよう今度注意しようと思った。
この新居は食堂を中心にしてその他の部屋へ分岐している。厠は衛生の都合上、それらの部屋から通路を伸ばしたところにあるが。
お手製の朱色の稽古着に着替える。シンフォの寝室から微かに聞こえる、くかー、くかー、という寝息を聴いて苦笑しながら、リンフーは庭へと出た。
家の横に広がる庭は、三方を木塀に、一方を家に隔てられた正方形をしていた。武法の修練にちょうど良い広さだ。初夏の早朝の涼しい空気と、夜明け前の空がリンフーを出迎える。
軽く準備運動を行って体をほぐしてから、朝の鍛錬を開始した。
呼吸を整え、心身を整えてから、まるで波紋一つ立たない湖のように静止する。
数秒間その不動状態を続けてから、突発的に動いた。
拳、肘、掌、脚——雲のように緩やかな動きの随所で、突如として発せられる爆発的な術力。一撃発するたびに、空気が強く押されて微風が吹く。
「緩」と「急」が明確に分かたれたその型の流れは、まさしく天を漂いながら地に雷を落とす雷雲のようであった。
【
武法の型は、川と同じだ。
型という一本の「流れ」の中に、膨大な情報が凝縮されている。小川の底に散らばる無数の石のように。
その無数の石の意味を一つ一つ振り返りながら、リンフーはその川を下っていき、やがて終点へと行き着く。
呼吸を整えて小休止。額に少し汗が浮かんでいるが、呼吸の乱れはさほどでもない。型を一回やっただけで息も絶え絶えだった一年目に比べれば、大変な進歩だとしみじみ思う。
しばらく型を反復練習し、朝日が顔を見せる頃には、心地よい疲労と発汗が全身を覆っていた。汗が顔の輪郭を伝って下り、顎先から落ちる。
疲れた体を木塀にもたれかからせ、青空をぼんやり見つめる。
……本当に、こんな凄い体術を思いついた人物には、頭が下がる。
武法の歴史は悠久だ。その起源は、千年前までさかのぼる。
——かつて、ダーマという青年がいた。
ダーマは貧しくも、とても穏やかで争いを好まない青年だった。
そんな彼は、精霊たちからも愛されていた。
当時、大陸を支配していた王朝は、腐敗と退廃に彩られた末期に突入していた。
一掴みの穀物すら流血の種になる当時の世の中に、心優しいダーマは心を痛めた。
武の精霊は、そんな善良さに心を打たれ、ダーマに「精霊の武術」を授けた。
ダーマは数年の修行で、その「精霊の武術」を極めた。武の精霊は「その武術は、お前の好きに使いなさい」と言い、ダーマの前から消えた。
その「精霊の武術」を、ダーマは世のため人のために使う道を選んだ。
多くの人々がダーマの神武に救われ、心惹かれ、やがて彼の元へ多くの人々が集まった。ダーマは集まった人々に、自分の持つ「精霊の武術」を伝えた。
弟子達はダーマを強く慕った。彼らにとってダーマは偉大なる師であり、そして神にも等しき存在だった。国が腐敗し、貧しさから抜け出せず、救いも希望もなかった人民にとって、ダーマはまさしく一筋の希望の光であった。
だが、君主たる自分を差し置いて人心を掴むダーマの存在を面白く思わなかった暗君が、ダーマを強引に捕まえて極刑に処そうとした。ダーマは抵抗しなかった。「もし抵抗したら、お前の弟子も皆殺しだ」と、脅されていたからである。
ダーマは首を断たれ、絶命した。暗君はその師の首を弟子達のもとへ送り届け、希望を削ぎ、叛意が死ぬことを期待した。
だがそれが逆に弟子たちの憤怒を買った。弟子達は当時朝廷に反乱を起こしていた勢力に加わり、腐った王朝を打倒せんと蜂起した。
ダーマの残した「精霊の武術」は、朝廷軍を猛烈な勢いで屠っていき、やがて首都をも陥落させ、暗君の首をダーマと同じように刎ねた。
こうして、新しい時代が始まり、人々に希望が戻った。
平和な世になってもなお、ダーマへの信仰は廃れることなく続いた。
やがてダーマは【武神ダーマ】として扱われ、【
さらにその【黄林寺拳法】は、様々な分派を生み出した。
それらは星の数に匹敵するほどに増え、やがて【武法】と総称されるようになった。
——以上が、武法の歴史のあらましである。
どこまでが事実で、どこまでが【黄林寺】の権威付けのための作り話であるのか、リンフーには分からない。
けれど、武法を生み出してくれた人物がいるお陰で、自分はこうして楽しい日々を過ごせている。
そのことに関しては【武神ダーマ】とやらに感謝したいと思った。
リンフーはそんな物思いにふけった小休止の後、再び修練に励んだのだった。
食事を作るのはいつもリンフーだ。小さな定食屋だったが、それを切り盛りする母の料理の腕前は本物だった。店の手伝いがてら、母から料理の手ほどきを受けていたのである。
それだけでなく、家事全般がリンフーの仕事となっている。
タダで稽古させてもらっていることへの恩返しということもあるが、それ以上にシンフォの生活力の無さを見かねてのことであった。油断すると部屋がすぐに散らかるし、食事が酒とツマミばかりになりかねなかった。
一方で、生活資金を稼ぐのはシンフォである。彼女の本業は医者だ。おまけに腕も良い方。なのでそれなりに稼げるが、その稼ぎの大半は酒代に消える。あの新居が酒瓶酒甕
ちなみに新居を医院とはせず、外で売り込みをかけるそうだ。シンフォ曰く「人死にが出た建物で医院なんか構えても、縁起が悪すぎて誰も来ないだろう」とのこと。
朝食をすませたシンフォが稼ぎに出ていくのを見送る。リンフーはしばらく部屋を掃除してから、暇になったので外へ出ようと思った。せっかく【槍海商都】まで来たのだ、物見遊山に行きたかった。
食卓の上に外出する旨の書き置きを残してから、リンフーは外へ出た。
現在は「
これからは体を冷やす食材を使おうかなと考えながら、リンフーは石畳で舗装された街路を歩いた。
まず最初に、この都の中央にある広場へと来た。
この巨大な【槍海商都】の中心には中央広場があり、そのさらに中心には【
さらにその【尚武環】の隣には、頂点の屋根が尖った巨大な四角柱の建物が建っていた。頂点付近の壁面には大きな時計が取り付けられていて、針が現在の時刻を指していた。正午まであと二時間ほど。
そう、時計塔である。名は【
「でっけぇー……」
これぞ都と言わんばかりの、高度な設備と豪壮な景観。お上りさんなリンフーの視線はあちこちを滑り回っていた。
残念ながら、【霹靂塔】には関係者以外入れないのだそう。そこで働いている技師のおじさんにそう言われた。
とぼとぼと時計塔から去ろうとする寸前、その外壁に紙が一枚貼り付いているのが目に入った。近寄って確かめる。
「えっと、なになに……【
それは、近々行われる予定の、武闘大会の貼り紙だった。リンフーも聞き覚えがあった。
一年に一度【槍海商都】で催される大会。
「試験」を経た十六名の武法士が、勝ち抜き形式で試合をする。
最後まで勝ち抜いて優勝すると【槍海覇王(そうかいはおう)】の称号が与えられ、武法士としての名誉と、一部の店で一年間の大幅値引きの権利が与えられる。
「これは……!」
一武法士として、気持ちがたぎるのを実感する。
だが、参加者選出期間を見たリンフーは、一気に気分を消沈させる。
今日までだったのだ。
「ていうか、参加者ってどうやって選ぶんだ……って、字が読めないぞこれっ」
肝心の参加資格取得方法の欄の文字が、消えていて読めなくなっていた。おそらく雨に当たって墨が落ちてしまったのだ。
でっかい溜息とともに、リンフーはとうとう諦めた。
今日で期日って時点でかなり厳しいのに、今から参加資格取得条件を探す気分にもなれない。……来年は絶対出よう、リンフーは誓った。
【槍海大擂台】のことは忘れることにし、気を取り直して街の散策を続けることにした。
リンフーはシンフォから「小遣い」と称して少ないながらお金を毎月もらっている。自分は武法を修行しに来たのだから金なんかいらない、と最初は拒否したが「子供のくせに何言ってる? いいからもらっておけ」と半ば強引にシンフォに渡された。しかし、あまり使っていないため、現在リンフーは結構な額の小遣いを貯めこんでいた。
どこかで何か食べようと思い、リンフーは周囲を見回していると、見知った横顔を見つけた。
「あれって……」
チウシンだった。広場の端にある腰掛けに座っていた。
上は胸部を大きく盛り上がらせている長袖の稽古着だが、下は裾が極々短い穿き物であるため、陽光を反射するほど艶やかな美脚が大胆に露出している。しかしチウシンは恥じることなく、右脚をおおっ広げていた。
「お、おいおい、なんてはしたな——んっっ?」
慌てて目を逸らそうとしたが、視線を再びチウシンの美脚に戻す。別に見たくなったからではない。気になるモノを見つけたからだ。
左足は靴を履いているのに、右足は靴を履いていなかった。太腿を開いて上に持ち上げられたチウシンの右足の指先は、串焼きの棒の末端をしっかり握っていた。串焼きはそのまま右脚で口元まで運ばれ、それをはむっと頬張るチウシン。
チウシンは串焼きを食っていた——足で。
「な、何してんだ、あいつ……」
リンフーは唖然としながら、その珍奇な食事風景を見守っていた。
けれど、足で串を持って食べるチウシンの動きと姿勢は、非常に慣れている感じがした。まるで日常生活で当たり前にこなしているかのように。特にその足の柔軟性と器用さには、目を見張るものがあった。
あっという間に全部食べきると、チウシンは串を近くの屋台の親父さんに返し、その場を立ち去ろうとして、
目が合った。
リンフーはギョッとするが、無視するのも気が引けたため、バツが悪い表情のままチウシンに近づいて、
「よ、よう、チウシン……」
「こんにちは、リンフー! こんなところで会えるなんて偶然だね!」
「お、おう。あのさ……その、さっき足で串焼き食ってるの、見ちゃったんだけど、あれ、どうしてなんだ?」
リンフーが恐る恐るそう尋ねると、チウシンは少しも恥じらう様子もなく、あっさりと答えを明かした。
「ん? 修行だよ? 【
「えっ、マジで? もしかして……ユァンフイさんも、その、足で飯を食ってたりするのか」
「うふふふ、違う違う。これはわたしが自分で考えた修行なの。【六合刮脚】は蹴りの武法。足を手と同じくらい器用に使うべきなの。だから、本当に足を手の代わりにしてるんだ」
「へ、へぇ……」
若干やり過ぎな気がしないでもないが、リンフーは苦笑いを浮かべて相槌を打った。
リンフーより若干背が高いチウシンは、リンフーの顔を覗き込み、
「ところで、リンフーはどうしたの? 散歩?」
「ああ、うん。暇だったから、都を見て回ろうかなって」
「そうなんだ。あ、じゃあさ、わたしが都を案内してあげるよ! 今道場休みで、わたしも暇だからさ!」
「いいのか?」
チウシンは「もち!」と元気よく肯定した。
「それじゃあ、頼めるか? ボク、どこに行こうか迷ってたからさ」
再び、チウシンは強く頷いた。
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