英雄に憧れる少年の英雄譚
新免ムニムニ斎筆達
序章
弟子入り
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
少年は息を切らせながら、切迫した表情で街中を走っていた。
季節は冬。雲もなくすっきり晴れ渡った空でも、衣を厚く着込んでいなければ肌を刺すほどに寒い。
けれど少年は二分ほど前から必死に走り続けているため、薄着でも体が湯立ちそうなほど暖かかった。
硫黄の匂いがほのかに混じった街の空気を高速で吸って吐く。
胸から喉へ持ち上がってくるような息苦しさに耐えながら、雑踏をかき分けて進んでいく。
少年は途中で振り返り、そしてバクバクと早鐘を打つ心臓をさらに飛び跳ねさせた。
「待て、貴様ぁ!」
「よくもやってくれたなぁ!?」
「ただでは返さんぞっ!」
——さっきよりも近づいてるっ!?
各々怒鳴り散らしながら追いかけてくる大人達が、少年の遠く後方に見えた。
見なきゃ良かった。
最初に追いかけっこを始めた時は、もっと間が遠かった。
それが今や服のシワが目視できるほどにまで接近を許してしまっている。
【
十歳の、しかも何の鍛錬もしていない普通の少年が今なお逃げ続けていられるのは、ひとえに、この温泉街を往来する無数の人混みが障害物の役割をはたしているからである。少年は体が小さい分すり抜けやすいが、あの大人達はさぞ通りにくいだろう。
が、それでも着実に距離は縮まりつつある。
——なぜ大の大人が、徒党を組んで十歳児を追いかけ回すという大人気ない事をやっているのか?
その理由はひとえに、
「よくも我々の鍛錬を覗いてくれたなぁ!? 子供とて、ただでは済まさんぞっ!」
少年が、彼らの【武法】の稽古を覗いてしまったからであった。
この国【
その大陸に伝わる土着の武術——【武法】。
特殊な鍛錬で人体の潜在能力を解放し、超人的な技を使う体術。
星の数ほどの流派が存在し、それぞれが違う特徴を持つ。
武法を学ぶ者——武法士は、自分の流派の技を大切にし、それを次世代に伝承し繋いでいくことを尊ぶ。
その分、自分の流派や伝承に泥を塗られることを極端に嫌う。
少年がした行為……他流派の伝承を盗み見るという行為は【
それは、武法の世界における
武法士ではない普通の人でさえも知っているそんな禁忌を、少年は犯してしまったのだ。
その理由は、言い訳を抜きにしても「魔が差した」としか言いようがなかった。
だが、どういう理由であれ、捕まったら
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ…………ちくしょう、ボクのばかやろうっ……!」
少年は幼い両脚にさらなる無理を強いつつ、自身の「憧れ」がもたらしたこの現状を悔いた。
鍛え抜かれた武法を用いて、弱きを助け強きを挫く、仁義と武勇に富んだ侠客——武法士の中には、そんな【英雄】の存在も少なくなかった。
彼らの生き様に憧れ、武法の門戸を叩く者もいる。
少年も、そんな男の一人だった。
美人と評判だった母親に似て、女と見紛う可憐な顔立ちであった少年は、そのことでよく子供達にからかわれた。
母はせめて性格だけは男らしくしようと、よく英雄達の武勇伝を語って聞かせ、男気を育てた。
結果、少年は花のごとく可憐な容姿に不釣り合いな、勇ましい性格に育った。
同時に少年は、武法を学びたいと思うようになった。
聞かされた武勇伝に出てくるような、格好の良い男になりたいと思うようになった。
しかし現実はなかなか厳しい。
武法を学ぶのにまず必要なモノは稽古代、すなわち金である。
少年の家は小さな安料理屋だった。五歳の頃に亡くなった父に代わり、母が女手一つで店を切り盛りし、少年とその妹を育てた。家計は常に火の車。武法を学ぶための金など望めなかった。
自分でお金を稼ぐという手ももちろん考えた。だが「あんたはまだ子供なんだから、そんなことしなくていいんだよ」と母が許してくれなかった。こっそり働きに出ることも考えたが、父を亡くして以来心労の絶えない母に、余計な心配はかけられなかった。
だから、少年は「武法を学びたい」という気持ちを押し殺して生きてきた。
そんなある日、母が久しく「金に余裕ができた」と言い、少年と妹の二人を連れてこの温泉街まで遊びに来た。
温泉でぬくぬくしている母と妹より早く風呂を出た少年は、温泉街を散歩していた。
その途中、たまたま通りがかった塀の向こうから、武を練る踏み込みと掛け声が聞こえてきた。——そこは、武法の道場であった。
そんな武の音は、少年の内に秘められていた欲求を強くかき立てた。
吸い寄せられるように塀に近づき、よじ登り、その中を覗いていた。
鋭く洗練された武の動きに見惚れているうちに、その中の一人と目が合った。
少年が我に返ったのと、その武法士達の怒気が爆発したのは同時だった。
それから少年は逃げ出し、武法士達はそれを追いかけ始め——現在に至る。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁっ……!」
呼吸の乱れが悪化する。心臓が胸郭を突き破りそうなくらい痛い。足が疲労で棒のようだ。
「いい加減観念しろっ! 大人しく捕まれ!」
一方、追手は少しも疲労の様子を見せなかった。
鍛えている彼らと自分とでは、大小の差を引き算しても体力には雲泥の差があった。
このままでは、追いつかれるのも時間の問題だ。
どこかに隠れるか。
どこに?
隠れたとして、見つからない方法はあるのか?
隠れるってことは、同じ場所にとどまるってことだ。
うまく隠れられればいいが、見つかったら終わりだ。抵抗もできずに自分は……
比較的有効な策は見つかりつつも、それを行うにおいての失敗の可能性が怖くて、二の足を踏んでいた。
心中に迷いを抱きながら、少年は脇道へと入った。
「逃すなっ!」
それを追いかけてくる大人達。
どうする? 隠れるなら自分の姿が見えていない今しかない。でもどこへ隠れればいい?
走ろうか隠れようか迷い、疲労も込みで足が鈍くなっていく少年。
——損害を怖がるというのは、そのまま大損を呼び込む行為となり得る。
迷っているうちに、どんどん相手の声が近づいてきた。
これからの自分の末路を想像し、走行で火照った体が一気に冷めていく。
そんな時だった。
「わ……!」
腕を突然掴まれた。
かと思えば力一杯引き寄せられ、その引き寄せた「誰か」の体にぶつかった。
ふにゅっ、と、とても柔らかいものに顔がぶつかった。
二つの大きな球状の綿の間に顔が挟まったような感触。
——女性の豊かな胸部の間に、自分の頭は挟まっていた。
甘香ばしい女体の香りと、ほのかに香る果実酒の匂いが混ざった蠱惑的な香り。少年の心をくすぐってくる。
「動くんじゃないぞ」
そう囁くような一言とともに、自分の体が大きな布——外套に包まれた。
外の様子が見えなくなり、また外からもこちらの存在が見えなくなる。
数秒後、
「どこだ、小僧っ!?」
追手の一人が発した怒鳴り声が、少年が今いる通りに響き渡った。
その声にビクッと身を震わせると同時に、確信する。
この女は、自分を追手から庇おうとしているのだと。
心中で感謝するが、次の問題が少年を襲う。
散々走り続けていたために、呼吸が荒くなっていた。心音もばくばくと高鳴ってた。
これはマズいと思った。
武法には【
練度にもよるが、これがあれば目に頼らずとも周囲の情報を集められる。
温泉で疲れを癒したのであろう人々がゆったりと往来しているこの温泉街の一角で、一人だけ息切れを起こしているのは明らかに不自然だ。
呼吸は振動を起こす。【聴】はそれを敏感に嗅ぎ取るだろう。
……バレる。隠れていても見つかる。
これまでかと思った瞬間、少年の顔が胸の谷間のさらに奥まで押しつけられた。
少年の額が、その女の胸骨と接する。
さらに片手を握り合わされる。なめらかで肌触りの良い指だった。
少年は羞恥でさらに心音を高め、顔を真っ赤にした。
女の胸骨と接した額越しに、鼓動を感じる。それが余計に恥ずかしかった。
だが、その女の鼓動が、だんだんと早まってくる。
鼓動の間隔がどんどん狭まっていき、やがて少年の心音と同調する。
女の呼吸も、少年と同じ
(まさか……)
少年は女の狙いに気付いた。
互いの骨をくっつけた上で鼓動と呼吸を同調させ、それによって相手の【聴】の感知を誤魔化そうとしているのだ。
二人の鼓動と呼吸が一致すれば、その場を動かない限り、【聴】によって感知できる存在は「一人」になる。
(まさかこの人、武法士なのか……?)
それをやってのける所を見て、彼女には武法の造詣があるのだと確信する。
だが、それでも息を荒げていると、怪しまれるものだ。
「おい、女。なんでそんなに息を荒げている?」
少年を追っていた武法士の一人が、訝しむような声でそう訊いてきた。
女は心をくすぐるような艶のある声で言った。
「いや……さっき裏通りで一緒に
まだ幼い少年はその言葉の意味を分かりかねたが、意味を察した男は苦々しく呻き、そして舌打ちをして去っていった。
激しい足音が、徐々に遠ざかっていく。
聞こえなくなってから、しばらくして、
「——もう出てきていいぞ」
そう優しい声音が頭上から聞こえてきた。心音と呼吸の調子も普通に戻っている。
少年は恐る恐る外套から出て、恩人であるその女の全体像を見上げる。
息を呑む。
真っ黒な、とても美しい女性だった。
二十を少し過ぎた程度に見える若々しい外見。
顔の造作はやや鋭めに整っているも、緩んだ目尻からはどことなく憂いと柔らかさが感じられ、疲れたような色気を醸し出している。強い光沢を持った長い黒髪が、腰まで絹帯のように柔らかく垂れていた。
手首足首までを覆う黒い衣服は、理想的な曲線美を輪郭として描き出していた。特に少年が先ほどまで顔を埋めていた双丘は、服の下から豊満に形良く自己主張していた。
目玉が凍ったように視線が動かせない。完全に釘付けとなっていた。
そんな少年の様子に黒い女は小首をかしげるも、やがて何かに勘づいたように目を見開き、にんまぁ、という擬音が聞こえてきそうな意地の悪い笑みを浮かべた。
「ふふふ、もしかして、私に惚れたかい?」
「へっ!? な、ち、ちが……」
「あはははは! 冗談だよ。そんなに顔を赤くして、可愛い子だなぁ」
可笑しそうに笑う黒い女。少年は真っ赤な頬を膨らませながら上目遣いで睨む。
お礼を言おうと思っていたのに、茶化されたせいで一気にその気が失せた。
「それで、どうして武法士なんかに追いかけられてたんだ、君は? 君、見たところ素人だろう」
「……わかるのか?」
「おうとも。歩き方や重心の動かし方を見れば分かるさ。で、何で追いかけられてた?」
少年は事情を説明した。
途端、黒い女はでっかいため息を吐き、世間知らずの子供をたしなめるような口調で、
「あのなぁ、それは君が悪いぞ? 武法の練習を覗いちゃいけないことは知っているだろう?」
「……うん」
返す言葉がない。少年は頷くことしかできなかった。
そんな少年を、美女は呆れ笑いで撫でた。
「別に覗かなくても、親に通わせて貰えばいいじゃないか、道場に」
「そんなお金あったら、とっくに通ってる」
「それもそうか」
美女は苦笑を浮かべ、少し間を置いてから訊いてきた。
「どうして……君は練習を覗いてまで、武法がやりたいんだい?」
そんな問いに対し、少年はバツが悪そうな顔をした。
「……笑わない?」
「おうとも。笑ったりしないよ」
「……………英雄」
「ん?」
「英雄に、なりたいから」
「英雄、かい?」
「うん……武法を習って強くなって、いろんな強敵と戦ったり、誰かを助けたりする……そんな男に、ボクはなりたい。だから、武法を習いたい。いや、いつか必ず習ってみせる」
思いの丈を包み隠さず口にした。
それを耳にした黒い美女は、目を丸くしていた。
黒曜石のようなその瞳には、驚きと、そして思わぬ拾い物を見つけたような感情がこもっていた。
憧れ。
自分に無いモノを持つ人間に対して向けるような、羨望にも似た眼差し。
黒い女はしばらく無言で間を作ってから、やがて意を決したように少年へ話しかけた。
「……少年。綺麗なお姉さんから一つ提案があるんだが……聞いてみないか?」
改まったその物言いにきょとんとしつつも、少年はとりあえず頷いた。
「——私の弟子になる気はないかい?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「え? 弟子? ボクが、お姉さんの?」
「ああ」
「さっきも言ったけど……ボク、お金持ってないぞ」
「分かっているさ。対価は金でなくとも構わない。炊事なり掃除なり、そういったものを稽古代として支払ってくれてもいいんだ。あるいは、私と一緒にいてくれるだけでもいい」
少年は押し黙った。
かねてよりの目標であった武法の学習が、まさかこんな所で叶うとは思わなかった。
嬉しさよりも、戸惑いの方が大きかった。
「お姉さんも、やっぱり武法士なのか」
「武法士だった、という方が適切かもね。昔はそれなりに武法が使えたけど、今は技を全て失ってしまった。今の私は不朽の美貌だけが取り柄の、ただの女さ」
「どういうこと?」
「君は【
少年がふるふるとかぶりを振るのを見て、黒い女は説明を始めた。
「決められた材質の針で、決められた箇所の
「……どうして、そんなことを。せっかく覚えた技なのに」
「贖罪のためだよ。私はかつて、取り返しがつかないほどの大罪を犯した。その罪をもたらしたのは、かつて私のこの身に宿っていた技の数々。その技で、私は大勢の人間を手にかけた。その罪の重さにようやく気がついたのは、手遅れになった後だった。……だから私は、その技を捨て、さらに医術を学び、多くの人々を治すことで罪を贖おうとしたが……その程度では贖いきれる罪ではなかった。つまるところ、私はとんでもないロクデナシなのだ」
黒い女は握った自分の右拳を、光の乏しい眼で見下ろした。
しばらくそうしてから、再び少年をまっすぐ見つめ、告げた。
「……この事実を明かした上で、再度提案する。少年、こんなロクでもない女で良ければ、君の師にしてもらえないだろうか。私にはもう武法は使えないが、それでも何とかして教えてみせる。君に、私が知る限りの全ての技を授けよう。君が武法士として大成するまでの間、私の残った命数をすべて君に捧げよう」
少年はきょとんと目を丸くしてから、小さく笑った。
「……変なの。ボクが弟子入りする話なのに、まるでお姉さんが弟子になるように頼んでるみたいだ」
「そう思ってくれて構わない。私は君を育ててみたい。——英雄を強く夢見る君の未来に水をあげて、どんな花が咲くのか見てみたい。そうすることで君の助けになれるし、何より……私の「償い」の一つになる。だからこそ、「頼んで」いるのだ」
それをすることで、自分の中で何かが救われる……そう信じ、それを実行しようとしているように感じられた。
——彼女の過去に何があったのか、まだ詳しくは分からない。
けれど、目の前の美女の表情はひたすら誠実で、企みの匂いは感じなかった。
それに彼女は、見ず知らずの自分を率先して助けてくれた。
その事実だけは、会ったばかりの自分にも分かる。
「分かったよ、それじゃあ——よろしくお願いします」
少年は一歩後に退がり、頭を垂れてそう言った。
美女はやや驚きつつも、口元をほころばせて訊いてきた。
「そういえば、君の名前は?」
「……
「私は
この瞬間、二人は師弟となった。
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