空を飛ぶ、地獄からの逃避行

 赤井クンによる致命的な勘違い。瑞希から教えられたその推論は今のところ拒絶できない説得力を誇示していた。

 不躾でボクにだけは失礼な態度を取る赤井クンは未だに優し気な顔を見せている。『同盟』の連中が赤井クンを囲もうとするたびに、彼女らを押しのけボクの下にやって来る。彼は他の女性陣と絡むことにボクがひどい孤独感を抱いている勘違いしていると思われてならない。そしてそれによってボクはヒステリーになっている、と。

 とんでもない勘違いである。

 しかし、勘違いと言っても彼はまるで聞いてはくれない。

 『同盟』が赤井クンに声をかける。それをトリガーとして毎度毎度ボクに寄ってきて、甘い声で囁いて来る。もはや地獄だ。

 加え、あれだけ「赤井クンとはそんな関係じゃない」と言ったのに傍からはイチャイチャしているわけだ。『同盟』が般若の如き顔を向けるのも致し方ないだろう。

 だから彼女らも躍起になる。

 赤井クンが近付く頻度も高くなる。

 ボクの心が摩耗していくペースが速まる。

 その様子に『同盟』は勢いを増して躍起になる。

 最悪の連鎖が起きていた。


「……アンタ大丈夫? 顔青褪めてるけど」

 ようやく帰りのSHR。普段は全く興味のない担任の教師の言葉がベアトリーチェの言葉のようにも思えた。解放の時は刻一刻と近付いており、ボクの心は安堵する。

 しかしピコにはボクの歓喜の色が見えないようだ。赤井クンの精神攻撃によって、それほど深く顔が青ざめていたのかと再認識させられる。

 こんなにも心の底から喜んでいるのに。まだボクの顔は青いのか。

 五限の終わりにトイレに逃げ鏡を見た。その時には土色をしていたから改善したのだろうが。まだ青い方が健全だと思う。……あまりに程度の相対評価だけど。


「赤井はともかく『同盟』とかいうヤツ、アンタのことすごい睨んでるわよ」

 そんな予感はしていた。目を合わせない様に、記憶の隅に追いやるように。忘れようとしていた事実をピコによって突きつけられる。

 ボクはボクの精神衛生のために、ボクの尊ぶべき意志を以てして早く家に帰らねばならぬ。このような地獄にこれより長くいられるわけがない。愛しき我が家へ逃げ、心を癒さなければ、死んでしまう。


「あれから逃げるとなると、骨が折れそうね」

 随分と人ごとに言ってくれるピコ。

 しかし逃亡は今のボクにとって生命を維持するための絶対的に必要とされるもの。骨が折れるも何も、達成されなければ待ち構えているのは死の一文字。文字通り決死の逃避行をボクは突きつけられているのだ。

 おぉ、神よ、運命の女神よ。一体ボクがなにをしたというんだ。

 存在の疑わしき神へと呪詛を並べ連ねる。そんなとき、遂にSHRが終わった。


「ねぇ、佐倉さん。お話しま――」

 その途端である。縮地でも使ったかごとく目の前に藍色女が現れた。その瞳にメラメラと赤の闘志と、直視しがたき悍ましき緑色の焔がともっていた。

 これが仙人だとしたら、世界はどれほど不条理なのかと思う。ボクは悪魔に忠誠を心の底から誓えると思えるくらいくそったれな世界のように思える。そして同時にコレが説得不可能な存在であるとも思えた。いやそれは確信だったかもしれない。

 兎角ボクは無意識的に逃走していた。


「……あぁ、そう」

 ボクが魔法少女になれることは、この学校においては周知の事実である。ゆえに予備動作もなく、突如としてボクの目の前に現れた連中から逃げるために、窓を開けベランダへと足を踏み入れる。

 なにをしようとしたか、一歩遅れて理解した藍色女と若葉色がボクを捕まえようと迫ってきた。しかしもう遅い。


「にげるなにげるなにげるなにげるな」

 地獄の門が開かれた。そう思えるほどにぐちゃぐちゃの醜い感情があふれ出ていた。一人の人間が抱く悪感情だけではとても醸成できぬほどの怨嗟が渦巻いていた。

 煮詰められた醜さから飛び出る手を避けて、ボクの身体はベランダを飛び越える。

 身体が浮遊感を襲い、しかも思う様に翅が出てこず口元が引き攣った。


「あ、あ、あ、アンタ馬鹿じゃないの!?」

 地面ギリギリのところで二対の翅が羽ばたく。一瞬死がよぎったが成功は成功。

 騒ぎ立てるピコを尻目にボクはなれぬ翅で、出来得る限りの高速で飛行する。背後からはいつぞやの水刃が飛翔して、相変わらず回避機動をする。

 けれども人がいる手前、あの嫉妬ヒステリー女も本気で殺しにかかってくるのはためらわれたのだろう。数分が経つと、もう学校は遠く水刃も飛んでこなくなった。


「……翅を動かすんだったら練習はするでしょう、元々なかった器官なんだから」

 ようやく赤井クンからも『同盟』からも逃れられた。あの閉鎖的で絶望渦巻くあの空間を逃れ、今いるのは何処までも遠くまで見渡せる空の中。ようやく気持ちが落ち着いて、深呼吸でもしてみると心地よくなってくるような場所に浮かんでいる。

 速度も落ち着かせて、ふよふよ浮かんでいた。

 ボクの落ち着きを知ったピコは、ねちねちと文句を言ってくる。といってもヒーロー部の連中に比べたら全然、可愛らしい執拗さだ。


「別に、怪我しなかったからいいじゃない」

「怪我をするしないじゃないでしょう、行き当たりばったりのそのスタンスがダメだとワタシは言ってんのよ。第一、大けがしかけてたでしょう」

 ピコに正論をぶつけられるというのがすごく新鮮味がある。いつもは滅茶苦茶な論理を振りかざして、暴力やらなにやらを以てして奇怪の論理を押し通すこの妖精にも正しい論理回路はあったらしい。

 ピコの台詞はまじめな大人がするような説教。それに翅を開くのに遅れて地面と接触しかけたくらいだから、言っていることは間違いじゃない。

 でもピコが言うのは間違ってる。これが語っていると鬱陶しく思えてならない。


「……それにアンタ翅使うの今回で何度目だっけ」

「三回目」

 けれど空を飛んでいると膨大な解放感が感ぜられて、鬱陶しさもかき消える。

 上空は思っていた以上に寒く風が強い。新鮮なその感覚が心躍らせる。


「そう、三回目よ、三回目。人間のアンタが三回目でこんなことをした」

「藍色女のお陰で、使い方は分かってたしね。感謝は絶対にしないけど」

 先日の藍色女の襲撃によって、翅の使い方に関してはその技巧を驚異的な短期間のうちに会得した。とはいえいまだすこし慣れない感じはあるのだけど、身体を動かすことには問題ない。ピコに比べるとちょっとぎこちないとは思う。


「生まれたての妖精だって、三回だけじゃふつう飛べないわよ」

「……褒めてるの、それ?」

「褒め二割、呆れ三割、引き五割だけど。アンタバケモンなの?」

 と言ってもピコもあれからボクに「飛べ」とさんざん訴えていた側である。ボクは現実的で物理的な対抗の手段を一つも持っていない。【魅了】も基本的には男にしか通用しない。だから相手が女であったときなどに逃げれるようにはしようと言っていたのだ、このピコというヤツは。

 それがなんだ、気持ち悪いって。


「引くくらいに飛ぶの上手いわよアンタ」

「それ、どう反応すりゃいいんだよ」

 それにそれは『三回しか飛んでないのに』と言う言葉が挟まっているだろう。こうやって憮然とした顔を見せながらちょっと罵ってくれるピコは、ボクよりもちゃんと飛べている。

 位置を保つために上下しているのに比べて、ピコは完全にホバリングしている。

 改めて見ると、ピコって蠅みたいな動き方している。


「でも速度と安定性はイマイチね」

「……それはそうでしょうね」

 ここぞとばかりにぴゅんぴゅん周りを高速で飛び回るピコの鬱陶しさったらない。その癖ちょっと自信満々な顔をして、ない胸を想いきり張っている。

 その様子に呆れていると、いつぞやに見た悪辣な表情をピコが浮かべた。


「まあ今はそれよりもまず家に帰りましょう」

「……ん?」

 けれど少しの間をおいてピコの悪辣は息をひそめた。

 代わりに憐憫がそこにはあった。


「ほんとにヒステリーを起こしかねないから、今のサクヤ」

「なんか気持ち悪い」

「なんでよ!」

 ちょっと鳥肌がった。

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