序章 遭遇、契約

はじまり、それも忌まわしき


 ことの始まりは十二月の中盤。本格的な冬の始まりを初めて実感した頃だった。

 クリスマスが近づき街も少しずつ色鮮やかになってきていた。普段は廃れている街の化粧姿を何気なしに眺めつつ、日課の散歩をしていた時。ボクはそれに出会った。

 それは運命的と呼べるのかもしれない。しかし運命とは形容したくない出来事。

 ボクはそれほどメルヘンな人間ではない。それでも運命と言う言葉をあの出来事に用いてしまえば、それが持つ神々しい感覚が毀損されると思わずにはいられない。あれは悲劇と言うにはあまりに悪辣で、悲惨と言ってもまだ足りず、ボクの持ちうる語彙では語りつくすことのできない酷いものだった。

 ソレとの出会いは、朝ぼらけの美しい川辺を歩いていた時だった。


 冬の凍える寒さ。肌を指す冷気が胸に入り込む度意識がくらくらする。身体の感覚も薄くなり空を飛んでいるようにも思える。この感覚が好きだった。

 そして孤独感がたまらない。不可思議で瞬きさえも鬱陶しく思うほどの美しさを見せてくれる早朝の空。川面にも反射して別世界に迷い込んだかと思えてしまう。こんなにも魅力的なのに、しかし人は全く見えない。ボクが景色を独占していた。

 その上解放感。首都圏であるくせにまともにマンションもない川辺からは、少し遠くの方まで見渡せる。大きな川との合流点になるとかなり遠くまで見渡せる。どこを見ても鮮やかな水彩の色合いが満ちていて、空を泳いでいる様にも思えるのだ。

 気分は昂ぶり、鼻息を唄いつつ川岸を歩く。

 五分も歩いていた頃、ボクは空に凧を見つけた。


 十二月中盤。と言ってもまだクリスマスまで十日近くはある。そのような時分に凧を見つけた。寝ぼけて幻でも見たかと思って目を擦っても、そこに依然凧は飛ぶ。首をかしげて凧に繋がる紐をたどって目を動かす。そこに若干禿げたおじさんがいた。

 明らかに不審者。と思ったが別に露出しているわけでもない。発狂しているわけでも錯乱してもいない。妙なほどに爽やかで似合わない顔をして凧を上げているだけ。

 あまりに凧揚げをするには時期尚早。だけれど十二月だから何とも言えない。これが八月ならば不審者だろうと断言できるが、世には夏休みの宿題を一週間で終わらせる奇人変人もいるのだ。不審者でない可能性もあり得る。

 思案しつつ高く飛ぶ凧を眺めていた。

 朝早くで少し寝ぼけていたのかもしれない。あるいは高揚に包まれて理性を少し失っていたのかもしれない。凧がこちらに向かって急降下していることに気付いたのは、それが視界を埋め尽くした瞬間だった。

 謝罪の言葉を早くも叫ぶ凧揚げおじさん。瞬く間に凧と接吻を交わす。

 痛みはない。所詮は木に紙を張り付けているだけのもの。ただ途端に視界に入ってきた土下座するおじさんと、そのつるりと輝く頭頂部に心が痛む。頭を突き出すドゲザは、禿げかかりのおじさんにとっては全面降伏に等しいだろう。ちょっと気持ちが悪くてすぐにおじさんを立たせる。

 それでおしまい。おじさんと別れ青くなってきた空を見上げ家へと帰る。



「きゅぃぃ!!」

「……ん?」

 朝ごはんが出来上がるまで自室で寝転がって本でも読んでいよう。本棚から適当な本を引き出してタイトルを見て最近買った恋愛小説だと判別する。そしてベッドにぽすりと飛び乗って表紙を捲る。目次を眺め、そしてそこで何かが聞こえた。

 ねずみだろうか。首を回し息を潜めた。


「きゅぅぅ!!」

 五感に意識を向ける。するとパーカーのポケットからなにかの蠢動を感じ取った。しかしスマホは読書に集中するために先程枕の裏に置いたはず。なにか勘違いをしたのかと思って枕を取ってみて、現れるのはやはりボクのスマホ。

 強くなる蠢きと強くなるねずみのようななにかの鳴き声。

 ちょっと考えたくないことが思い浮かぶ。

 恐る恐る、ポケットに手を突っ込んだ。


「きゅう!」

 さわさわとしたなにか。それはやはり蠢いている。その上僅かに感じられる生温かさと柔らかさがそれをなにかの生命体であるとボクに訴える。口元が引き攣った。

 しかし放置することも出来ない。意を決してそれを白日に晒す。

 それは白色の毛玉だった。サイズで言えばボクの年齢性別としては小さめの拳から少し零れ落ちる程度。それがきゅうきゅう鳴きながら震えている。

 ねずみだと思っていた手前、安堵にホッと息が漏れる。

 続いてこれがなんであるのか首を傾げる。


「きゅぅぅ」

 ケセランパセランと言うのがこういう見た目をしていた気がする。遠くテレビで眺め、あるいは両親から聞かされた謎生物のことを思い出す。しかしあれは生き物ではなかったのだろうか、また首を傾げる。触り心地のよい白毛玉を撫でまわしながら。

 かなりの大きさの綿毛のようにも見える。そもそも外見はただの綿。小さく動き鳴き声を上げていなければ生き物とすら思えない見た目。

 じっと眺めていると可愛らしく思えてきた。

 目口鼻もどこにある分らないが、ペットとして飼うのも良いかもしれない。

 表情筋が緩み始める。


 鳴き声も収まって撫でられるがままになる白毛玉。しかしこれを愛でていても、これがどこからやってきたのかが不明。散歩に出かける前にはこんなものポケットにはいなかった。しかし散歩中にコレがポケットに入り込むことなど……。


「あっ」

 そういえばボクは一度凧に直撃した。それまで空高く飛んでいたのに、突如として急落下をし始め接吻を交わし合ったあの凧のことを思い出した。

 この白毛玉は凧に乗っていたのではないか。無論ちょっと無理がある考えだとはボクも分かっている。しかしこれ以外に白毛玉がポケットに入っていた理由など分からない。空間転移でもしたのなら別だろうが、それこそ荒唐無稽な話だ。


「……お前、おまえは一体なんなんだ」

 きゅうきゅう鳴きながら、撫でる手に抵抗することもなくなった白毛玉を問い詰める。しかし思っていた通りこれに日本語は通じぬようだ。通じたらボクは大きな悲鳴を上げてベッドから落ちていたことだろう。むしろそれは良かった。

 しかしこれはなんであろうか。

 ちょっと突いてみる。

 きゅうと鳴く。

 ちょっと問いかける。誰そ、と。

 きゅぅうと鳴く。


 それから大きな声でお母さんがボクを呼ぶ。

 そういえばもう朝ごはんの時間だとスマホを拾い本を元の位置に戻す。

 ふるふる震える白毛玉はどうしておこうか。机に置いてみて、少しの風でも飛んで行ってしまいそうで不安でならない。あまり良くはないが引き出しの中に入れておいた方が良いかもしれない。催促をされる中、毛玉を適当なところに放り込む。


「今行く!」

 一体どうしてお母さんはこんな朝から叫べるのだろうか。若干の頭痛を覚えつつ急いでリビングに向かう。もうわかった、分かったからお母さん叫ばないで。

 朝早くからそれはすごくつらいから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る