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二一二〇年。
吸血鬼の存在が生物として認められてから、百年経っている。
彼らは魑魅魍魎蔓延る裏社会に暗躍するのをやめて、人間との共生を選んだ。
何故なら、その方がコスパがいいからだ。
人は、夜でも明るい都心に集中し、また、人間でさえ窮屈に思えるほど監視のキツくなっていた現代において、鏡や映像には映らないとはいえ、実体を持った吸血鬼が狩りをするのは難しくなった。
そこで吸血鬼の一部が人間との和合を始め、互いの利益のために協定を締結するまでになっていった。現代の吸血鬼は今や、人間の提供する輸血パックさえ有れば生きていける。
黎明期には諍いや、論争が激化を極めたそうだが、時代が進むにつれて、緩和されていった。
そして、長年陰惨で血生臭いイメージを持たれてきた吸血鬼は、彼等の権利を求める活動家達の働きかけにより、保護される存在にもなった。
そうした流れの中で、ある吸血鬼が血液事業を展開する救護組織の広告塔となった。その功績により、献血を行う人が増え、吸血鬼と人の双方に安定的な血液提供の場が整ったのだ。
これは全部ママの受け売り。ママは吸血鬼の権利を守る非営利団体に属している。
最近になってから活動について、それから彼の事について、よく聞くようになったので、ママは呆れ返りつも嬉しそうにする。
私は、白いシーツの上に放ってあった端末に、メッセージが入っているのに気がついた。
「ママが売店にいるみたいなんだけど、何かある?」
「うーん。君は何か頼むの?」
「果肉入りのアップルジュース」
「じゃあ、僕もそれ」
「濃縮レバージュースがいいんじゃない?」
「君と同じものが飲みたい」
赤い瞳と目が合う。縦長の瞳孔は私のものとは違う。
「あのさぁ…」
「君と同じがいい」
彼がたいそう意固地で、ものすごく我が儘だという事は、今の状況になってから知った。
彼のようにひどく人間染みた行動なり、状態に陥るケースも多く報告されているらしい。
人間と結婚とほぼ同等のパートナーシップを結んだり、人間が起こすような犯罪を起こしたり、吸血鬼が余命宣告なんてされちゃう時代。
ワイドショーで、吸血鬼の人間化が進んでいると、有名なコメンテーターが言っていたのが記憶にある。
それから、人間化にともなって、吸血鬼に対する医療行為を行うようになり、専門の医療施設も設立された。基本的な体質は違うものの、人間による吸血鬼の治療処置が可能になった。
とはいっても、吸血鬼は大抵の怪我を自己治癒してしまう。
問題は疾病の方で、狩が必要なくなった事による栄養過多、それに起因する生活習慣病、あるいは吸血鬼にとっての有害な物質の摂取による健康被害。あとは、日中の活動が増えた事で日光による皮膚への
彼はというと、人間生活に馴染みすぎて、血液を取らなかった事で鉄欠乏症が悪化して、このような事態を招いた。
彼は人間食を何故だか好む。まだ入院していなかった頃からだ。
そして、ここ数ヶ月、彼は人間食しか口にしていないらしい。
ママにそう聞いて、彼に確認すると、彼はあっさりと「うん、そうだよ」と認めた。
人間が普通にする食事だけでは、吸血鬼が一日に摂取しなければいけない量は到底補えない。ポパイと同じくらいほうれん草を食べたって間に合わない。
血だけならいい。彼は吸血鬼用に開発されたレバージュースさえ飲まない。
ある日突然嫌いになったんだと言っていた。一度一口でいいから飲んだら、と言って半ば強制で飲ませると、その場で吐いた。
どれだけ人間生活に適応していこうとも、体の作りは変わらない。
彼はあらゆる鉄分を拒否し、生きる事を拒否している。折角、何百年も生きてるのに。
「君のママっていつも元気だよね。もう十年くらい付き合いがあるけど、全然変わらない」
「そうだね」
「君と性格全然似てないよね」
「確かにね」
「君も変わってない。初めて会った時から。たしか、君は七歳だったよね」
そう考えるとなかなか長い時間を過ごしてきた事になる。
初めて会った時、ただ綺麗な人だなあと思った。それを伝えると彼は「ありがとう、僕は吸血鬼なんだよ」と言った。
その後、ちょくちょく顔を出しては、何かとちょっかいを出してくるようになった。趣味なんてないので、ただその場にある見えるものについて話したりするのが、ただ楽しかった。
けれどこの状況になってやっと思う。私は彼自身のことを何も知らないのだと。
「君って全然吸血鬼に興味ないよね。お母さんと違ってさ」
その通りなので、素直に頷く。私はママのようには吸血鬼に興味はない。そもそも私は何にも興味なんてない。
「君は吸血鬼どころか人にも興味無さそう。執着も頓着もない」
「まぁね。…ちょっと。悪口入ってない?」
「ふふ、そういうところが君の良いところさ。君は誰にでもフラットだ。自分のことさえ」
「そうかなあ」
また彼は、何故か誇らしげに笑った。
ノックの後、スライドドアが開かれて、ママが入ってきた。
「一番近いエレベーター点検中だったから参ったわ。別棟の方に回るの大変だから階段で上がってきたよ」
丸い襟首をぱたぱたしながら、ママは笑う。
「でも無理言ってこの部屋にしてもらったの、正解かもね。環境がいいし。私のお見舞いも楽だし」
「すみません、僕の我儘で」
ママは特に返事せず、代わりに鼻から息を吐いた。
そして、彼の目の前にアップルジュースとレバーペーストジュースの二つを差し出した。
「はい、アップルジュースの方はとんでもなく高いわよ」
「現金は残念ながら持っていないから、僕の瞳をくり抜いて換金するといいよ。ずっと価値があるし。お釣りで今までの恩返しができるといいんだけどね」
「あのね、あんた達の利権を守る活動をしてる人間に対して通じる冗談じゃないよ」
ママは怒り笑いのような微妙な顔をしている。
すると彼はママの手から、しれっとアップルジュースを抜き取った。ママは悔しげな顔をした。そうして諦めたように私の方に言った。
「調子はどうなの」
「大丈夫そう」
私は答える。
「僕は、元気すぎて夜空を駆けちゃいたいくらいですよ」
「それだけ元気なら、食べさえすれば、すぐ復活できるわね」
ははは、と彼は曖昧に笑うだけだった。私はぼんやりとそれを眺める。
「あんまりわがまま言うようだと、もうウチの娘に会わせないわよ」
「それはひどい! それこそ死んでしまうよ!」
「はいはい」
私は適当に受け流す。
人間の抱くイメージとは違う、理性的で無駄な争いを好まない吸血鬼たちは早く人間社会に馴染み、人間社会にすんなりと迎合される事となった。
勿論、人間と全く同じ権利を有するわけではないので、ママ達はいつも忙しくしている。人類が初めて接触した知的生命体であるが故に、その立ち位置は曖昧模糊であり、未だ心許ない。
見計らうように、真剣な顔をしたママが改まって言った。
「また拒否したらしいわね」
「…」
「私は…私たちは、あなたたちと共生できる社会を目指しているのよ。特別なあなたたちと一緒に生きていけるように。あなたは、私たちのしてる事を否定するの?」
「…そうじゃないよ。あなたにはたくさん感謝してる。それこそ、僕の生きた数百年分を費やしたって、返しきれないくらい」
「…いいえ、あなたの態度は、私たちの否定よ」
「…僕にはそのつもりはないよ」
「…」
ママの気持ちは分からなくもなかった。
「…私は帰るから」
ママは私にキスして、帰ってしまった。妙によそよそしい速度で、扉は閉じる。
【あなたからも何か言って】
イエスでもノーでもない適当なスタンプだけ押して返信する。
ママが病室を後にしてから空気には、何か妙な気まずさのようなものが混じっていた。換気がてら、私がカーテンに手を伸ばすと、彼が制した。
「僕が開けるよ」
彼はふらりと立ち上がると、血色の悪い顔で窓を開けた。
「君はさ、アップルジュースがない世界を生きられる?」
「何それ」
「レバージュースがある世界は生きれるけどさ。アップルジュースのない世界、僕だったら一秒だって耐えられないな」
「私はへっちゃらかな。違うものを飲めばいいし」
「えー、僕はアップルジュースの美味しさを忘れられなくて死ぬのも嫌なくらいなのに」
「ふぅん」
よくわからなかったが、たまに彼は哲学的に聞こえることを口にする。
私はアップルジュースにストローを刺して、口に含む。彼も私に続いて一口飲むと、微笑んだ。
私は、その横顔に問いかける。
「なんで血を飲まないの」
私は自分で聞いておきながら、聞きたくないような気になって、被っていたニットの帽子の耳のところをずり下げた。
時限爆弾の赤い線と青い線を、おっかなびっくりちょんぎろうとするときのような。ちょっと大袈裟だけれど。
けれど、そんな気持ちなど彼は知れないようで、戯けて言った。
「最近君さ、よく僕の事を聞くよね。君は吸血鬼の事も、僕にすらそんなに興味がなかったのかと思っていた。人間は僕が吸血鬼だというだけで構うだろう。だからさぁ、君と話してると落ち着くんだよ」
珍しく聞いてもいない事をベラベラと喋り出したかと思えば、これだ。
「ねぇ、話を逸らそうとしてるでしょう。少しは飲んでるのかなって思ってたのに。いくらアップルジュースを飲んだって、あなたにとったら異食行動なんでしょ?」
尤もらしく眉根をさげたって誤魔化されない。
僅かに間があってから、いつもの調子に戻った彼は話し出す。
「君だって好き嫌いがあるだろ。血ってさ完全な液体じゃないんだざらざらしてて。舌触り最悪なんだよ。君だって飲んだらいいんだ」
子供のような口ぶりに呆れてしまう。
「じゃあ何。血が飲みたくないから、食べたくないから、死ぬの?」
「そうじゃないよ」
「じゃあさ、なんでなの? だって余命って言ってもさ、このまま血を飲まないでいた場合に算出された数字なんだよ? 君のはセルフネグレクトだよ。それどころか…」
「…だって吐いてしまうんだ」
「輸血だって拒否してるじゃない。点滴すら」
「人の道理は僕らには通じないさ。異種族なんだ。いくら人間と近くなってもね」
「今は現代。道理はそう変わらないでしょ」
「吸血鬼は、ヒトの友達、ね」
「…子供の駄々の次は、皮肉でやり過ごそうってわけ?」
「やだなぁ。そんなんじゃないって。それに君のことは友達だと思ってるよ」
すると彼は熱っぽく語り出す。
「大体さ、僕らは生物の三つの定義、複製を作る、外界と膜できしられている、代謝を行う、を満たす事になっているけれど、それにしたって疑問だ。複製についての議論は絶え間ないし。代謝だって、僕達には排泄が必要ない。おかしいと思わない? 鳥の生き血をまぜてるけどさ、レバーペーストがどれだけ栄養になっていることやら。きっと僕達の身体は血液を生成できない。血管のようなものに、他の命の血液をそのまま流してるだけなんじゃないかな」
「論文でも書いてみたら」
「ただの想像だから。これも想像だけど、死についてだってそうさ、僕らは人間に退治されて終わりを得ていた。僕らは人間を脅かす存在ではあったけれど、人間も僕らにとって、死を与える存在だったんだよ」
「なるほどね」
「人間の法を犯した吸血鬼は、処理されるけどね。ハンターだったり、同胞だったりにね」
今でもバンパイアハンターは存在する。閑古鳥だそうだが。
そこで、ふと、思い至った。
「あなたは、人の血を吸った事が、あるんだよね」
「……あるよ。何回か、だけどね。肌に歯を立てた時の感覚とか、叫び声が僕は苦手でさ。専ら野うさぎやら、鹿なんかを捕まえて済ましてたよ」
彼は「今じゃあ生き血全部受け付けないけどね」と、補足のように呟いた。
私は手首に目をやった。
すると、彼が唐突に言った。
「そう、どんなに過保護に扱おうが、所詮は怪物って事なんだよ」
ハッとして顔を上げると、見開かれた瞳に鋭く埋め込まれた瞳孔が、さらに鋭くなる。
「化け物だなんて」
彼は反論しようとする私をかわすように言った。
「吸血鬼と人、死んだら同じところに行くのかな」
「吸血鬼は魂がないから灰になるんでしょ」
「まったく。こんなに人間社会に適合してるのに。ロマンもへったくれもないよ」
「なんとなく、天国には行けなそうだよね」
「それ偏見だよ」
確かに偏見というか、無遠慮だった。謝ろうと口を動かそうとしたら、彼が話し出した。
「でもさ、こんなに俗に染まった僕だ。地獄になら行ける気がしない? そしたらまた会うかもよ」
「私は地獄なんかに落ちないよ」
「そうだね。じゃあ、今からうんと悪い事してよ。そうだ、君が僕を殺してごらんよ。保護指定生物を殺したとなれば重罪だ」
「…やだよ」
何故だか残念そうにする彼は理解不能だ。私はそこでやっとまた気がついた。また話を逸らされてしまっていた。
「なんで、食べないの?」
私は恐る恐る、再び尋ねた。
あんなに多弁だった彼は、黙り込んだ。そうして、ただにっこりと笑うばかりで、結局さいごまで、理由も口にしなかった。
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