黒から春に染まるまで

光が丘ばなな公園

プロローグ『黒に濁る』

……家族。


それは人々にとっての安息の地。


大人は会社で嫌な事があっても、子供は学校で嫌な事があっても……


家に帰れば家族の輪が人々を癒し、明日も元気に会社や学校に行く事が出来る。


子供の手本となれるちゃんとした大人。


大人言う事をしっかりと聞いてくれる子供。


家庭を持つ者であれば……どんな人間でもそんな人達が集まる温かい家庭を築いていきたいと願う筈だ。


……しかし現実はそう上手くはいかない。


俺の母親は早朝から酒を飲み酔っ払い、家事もせず持病の統合失調症の影響で近所に向かって大声で叫び、そこにいるはずの無い敵と戦っていたアル中だ。


更に厄介なのが、本人は自分が統合失調症やアルコール依存症だという自覚は無い事だ。


その母親の相手をするのが面倒だという理由で俺と母親を捨て、浮気相手と逃げてしまったのが、俺の父親だ。


全く為にならない両親……更には母親が暴れているのに助けてくれず、関わりたくないと思っていたのか見て見ぬフリをしていた近所の大人達。


そんな大人達もそれぞれで家庭を持っており、母親が酒に酔い潰れて寝ている間、その幸せを見せびらかしているように、家族団欒の楽しそうな笑い声を聞かせてくる。


俺もあの家のような厳しい父親が欲しい。


俺もその家のような優しい母親が欲しい。


誰も呼びに来ない自分の部屋に引き込まりながら、そんな両親に囲まれて、ごく普通の家庭の日常を思い描く妄想の日々。


そもそも普通の家庭とは何だ?


普通の父親とは何だ? 普通の母親とは何だ?


この絵本に描かれている子供は、両親に囲まれて何故こんなにも笑顔でいられるのか。


誰も教えてくれないまま、世の中にとっての普通が分からないまま……身体だけが成長していく。


……そして中学一年生の時、暫く洗濯をしていなかった服で学校に行った為、周囲から臭いと虐められた日の帰りの出来事だった。


父親が浮気相手と逃げたと知り、いつも以上に酒を飲んで暴れていた母親。


遂には外に出て父親の名前を叫びながら暴れ狂う始末だった。


もう限界だった。


その時家の近くに集まっていた近所の人間達からどう思われようが関係無かった。


これで流石に警察も動くだろうという考えもとっくに消えていた。


"……もう逃げよう。"


兎に角遠くへ。


俺の知り合いに絶対に会う事のないような兎に角遠い場所へ。


家でも外でも自分の落ち着ける場所が無くなっていた俺は、前々から家出を計画する為に貯金していた金が入った財布を片手に、その日初めて最寄り駅から電車に乗って県外に出た。


……暫くして、その電車の終点に到着した。


新宿駅……聞いた事はあっても来た事は一度もなかった。


駅を出た時、最初に感じたのは夜にも関わらず、皆それぞれの目的地へと向かっていた人の多さだった。


自分の中の都会は通勤、通学ラッシュ時の田舎の最寄り駅周辺だったので、それをも圧倒する人の数は異常だった。


俺はただ何も考えずに歩き出した。


家族や知り合いに会わなければ、もう何でも良かった。


……それから段々と夜も更け、駅周辺の灯りも徐々に消えて、大通りを歩いていた人達も徐々に数が減ってきていた。


俺はと言うと、まるで迷宮のような新宿駅を行ったり来たりしていて迷子になっていた。


時刻も既に深夜二十二時を回っていた。


こんな時間に中学一年生が外を出歩いているのはおかしい。


そう感じていたであろう周囲の大人達は、別に俺を助けてくれる訳でも無く、まるで俺を居ない者として扱うように俺の横を通り過ぎて行った。


更に時間が時間という事もあり、酒で酔っ払った変な奴等にも絡まれた。


俺が一番大嫌いな人間の状態である。


一緒にいるだけでも腹が立ってきたので、俺は一目散に人がいない方に走り出した。


……こういう時に限って、ぽつぽつと雨が降り出し始める。


……次第に強くなっていく雨が、俺の身体に突き刺さり、これからどうしようかという一秒先の未来でさえも不安にさせる。


……気付くと俺は駅とは違い、周囲がとても明るい場所にいた。


何故その時の俺がそこに来たのかは分からない。


夜道の街頭に虫が集っているのと同じ原理だろうか。


そこが明るい場所であれば、その分だけそこを歩いている人の数が多くなる。


だがその場所を歩いていたのは、先程駅前を歩いていた人達とは全く違う雰囲気の者達だった。


黒や赤のスーツに、サングラス、指輪、高そうな靴……明らかに何奴も此奴も堅気の人間じゃない。


"帰りたい"


もう二度と故郷には帰らないと誓ったはずなのに、あまりの恐怖心の影響でそう思ってしまった。


そう思い走り出した瞬間、俺は誰かにぶつかってその場で尻もちを着いてしまった。


「……痛ってえなァッ!!」


顔を上げるとそこには金髪オールバックにサングラス、真っ黒なスーツを身に付けたドラマでしか見た事が無いようなやくざかチンピラが立っていた。


殺される。


そう思い恐怖のあまり声が出なかった。


逃げたいのに腰が抜けて立つことが出来ない。


「あ……あっ、あ……」


「この餓鬼……どこに目付けて歩いてんだぁッ!!」


そう言うと男は拳を上げ、俺の頭を目掛け振り下ろした。


俺はもうその時点でコップ一杯は小便を漏らしていたと思う。


━━━━━その時だった。


「ッ!?」


「やめなさい」


目を開けると、そこには男の拳を掌で受け止めていた、同じく黒いスーツ姿の身長は百七十以上はありそうな大女が立っていた。


「こんな子供相手にマジになるんじゃないわよ、大人気ない」


「はい組長!すいやせんしたっ!」


組長と呼ばれたその女は、俺の方を見ると手を差し伸べて来た。


「大丈夫、僕?立てる?」


「は、はい……ありがとうございます」


この女もやくざなのだろうか?


その時の彼女の顔は極道の人間だという事を感じさせない、とても優しい表情をしていた。


だが本当に怖い人間ほど、他人に対して優しくしてくる奴はいない。


その事をもっと早くに気付いて置くべきだった。


だが今の俺の味方はこの女しかいない。


初対面からまだ一分も経過していないというのに、俺はその女を完全に信用し、今の状況を何とかして欲しいと思ってしまった。


……その前に俺は恐怖心で完全に忘れ去られていた股間の湿りの存在に気が付いた。


恐怖心の次に、俺の中では羞恥心が身体の底から込み上げてきた。


「んっ……」


「あらあら、漏らしちゃってるじゃない。ちょっと貴方やりすぎよ」


「へい……すいやせん」


「てかそれ以前に貴方、びしょ濡れじゃない……傘もささずに歩いてたら風邪ひいちゃうわ、ちょっと君着いてきなさい」


「え?」


知らない人に着いて行ってはいけない。


そんな誰しもが教わる幼い頃からのルール等、今の俺にはどうでもよかった。


着いた先は、まるで一流ホテルのようなマンションの最上階だった。


俺は途中で下っ端が買っていたドン・キホーテの袋に入った新品のパンツに履き替えた後、大きな窓のガラスに顔と手を密着させてその場所から外の光景を眺めた。


二十四階建ての最上階という事もあり、今の状況を忘れさせてくれるような、正しく一万ドルの夜景がそこにはあった。


「わああ……」


「うふふっ、綺麗な眺めでしょう?」


「ほらっ、あれが東京タワーで、あれがスカイツリーよ」


「凄い凄い!」


東京タワーもスカイツリーも写真でしか見た事が無かった。


もし家族皆であそこに行った未来に辿り着けていたら、今よりももっと楽しめたのだろか。


そう思うと再び俺の表情は曇り始める。


「……」


女は俺の表情を伺うと俺にとって一番聞いて欲しかった質問をされた。


「貴方、どうしてこの街に来たの?」


「この街にはね、貴方のような子供はいてはいけない場所なのよ?」


「それに時間帯が時間帯だし、ましては大雨も降ってるし……」


「お父さんお母さんとはぐれて、終電逃してお家に帰れなくなったとかかしら?」


俺はその瞬間、これまで起こった事全てを話した


両親の事、それに対しての近所や施設の対応等……今まで抑えてきた感情を全てその女にぶつけた。


「……なるほどね」


「貴方、まだ子供なのにそういう施設に誰の力も借りずに一人で相談に行くなんて……頑張ったわね」


「うう……」


全てを話し、鼻水まで垂らして号泣していた俺を、彼女はしゃがんだ状態から、俺と同じ目線になった状態で優しく抱き締めてくれた。


それにしても、彼女はいつの間にかスーツを脱いでおり、上はワイシャツで下はパンツ一丁だ。


あまり下半身は見ないようにして目を逸らす……


「私はね、皇斬江(すめらぎきりえ)っていうの。 宜しくね……貴方のお名前は?」


「えっと、仁藤……大和です」


「大和くんね……とりあえずこのままだと風邪を引いてしまうわ」


「私と一緒に、お風呂に入りましょう」


「……え?」


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


部屋も広ければ、当然のように風呂場も広い斬江と名乗った彼女の家。


「それじゃあばんざいして?」


「は、はい……」


大きな鏡のある脱衣場にて、彼女は俺にバンザイをさせて服を脱がさせた。


当たり前だが外の冬の寒さなど、室内では関係なく、裸になっても暖かった。


「大丈夫? 寒くない?」


「ええ、平気です……」


その暖房の暖かさに抱きしめられるが如く、斬江の優しさに全身が包み込まれる感覚だ。


「さて、私も脱がなきゃ……」


俺が目の前にいるにも関わらず、下からパチパチとワイシャツのボタンを外していく彼女。


「わわわっ……」


当時の俺は中学生。


思春期になったばかりで、一週間前は学校で配布されている保健体育の教科書に乗っていた、女性の全裸が記載されてあるページで興奮をしても……


……それを発散する為のやり方、所謂自慰行為すらも知らない時期であった。


徐々に見えていく、彼女の下着……


「……ん? こらえっち、貴方の方から先にお風呂に入ってなさい!」


「わっ……ごめんなさい!」


しかしガン見をしていれば当然、斬江側も俺の視線に気がつく。


彼女はワイシャツを閉じて下着を隠しながら、俺の肩を押して、先に風呂場へと放り込んでしまった。


「え、えっと……」


……それにしても広い風呂だ。


マーライオンのような像が口から湯を出し、そのまま温泉のように広い湯船へと永遠に流れ続けている。


勝手にその風呂に入る事や、シャワーを浴びるのは申し訳がない気がして、何をすればいいか分からずに、肌寒い想いをしながらも只管に斬江が入ってくるのを待つ……。


……暫くして、風呂場の扉が開く。


「おまたせーっ」


「!?」


突然の光景に思わず後ろを振り向く。


見えた……今絶対に見えた。


……タオルで一切隠していない、彼女の乳房と陰毛が。


後ろを振り向いて手で顔を隠していても、初めて生で見た成人女性の全裸は、俺の脳裏にしっかりと焼き付いていた。


「あら、お風呂もシャワーも何も使ってないじゃない、風邪引いちゃうわよ?」


「いや、勝手に使ったら悪いなって……」


「あらー、それで私の事待っててくれてたの? 大和はいい子ねぇ」


「!?」


全裸の状態でも構わず、背後から抱きしめてきた斬江。


当然斬江の身体にある、色々な物が密着する事となる。


肩から感じる、もにゅもにゅとした柔らかい感覚……腰辺りから感じるふさふさとした、擽ったいような感覚。


「うう……」


まだ彼女の身体の事が頭から離れられていないのに、その状態で身体の触感を感じるのには刺激が強すぎる。


「……まずはお風呂に入る前に、身体洗っちゃいましょうか」


「は、はい」


風呂桶に座らされて、斬江はまずシャンプーで俺の髪の毛を洗ってくれた。


「大丈夫? 痛くない?」


「はい……気持ちいいです」


「ふふっ」


そのまま垢すりを使って、斬江は俺の身体を洗い始めた。


徐々に風呂に入れてもらっている申し訳なさよりも、女性に身体を洗われているという、快感度の方のパーセンテージが大きくなってくる。


「大和は、今いくつだっけ」


「……えっと、十三歳です」


急に呼び捨てで名を呼ばれて驚きつつも、彼女からの質問に答える。


「あらっ、てことは中学生くらいかしら」


「は、はい……中一です」


「なるほど……まだ成長期とかも来てないし、声変わりもしてないのね」


「はい……」


「そうなのね〜」


すると突然、彼女は俺の腕をむにむにと掴んできた。


「!?、何するんですか……?」


「あぁーごめんなさい、柔らかくて可愛い腕だなぁって思って」


「は、はぁ……」


「触ってて気持ちがいいわぁ」


「ああ……ありがとうございます」


抵抗が出来ず、腕を触られまくっていたが、不思議と不快感は感じなかった。


「急にごめんなさいね、そしたら……今度は前も洗っちゃいましょうか」


「えっ……」


「それとも自分で洗う?」


「いえ、おっ……お願いします」


「分かったわぁ」


彼女はどういうつもりなのか。


ただの善意だけで、そこまで尽くそうとしてくれているのか。


折角風呂まで入れてもらって、断るのは申し訳ないという様々な思考に、判断が追いつかず、反射的にイエスと誘いに乗ってしまった。


「それじゃあ……こっち向いて?」


「……はい」


尻の肉と風呂桶の摩擦力を感じながら、ゆっくりと斬江の方を向く……。


「……!」


「それじゃあ、胸から洗うわね」


「あっ、はい……」


俺は足を閉じて、股間にあるものを隠している癖に、斬江は一切身体を隠さずに俺に見られるがまま、俺の胸を洗っている。


腕を動かす事により、連動して揺れる彼女の乳房、乳首の先から垂れる汗……


その汗は腹や腰を流れて、局部の所に溜まっていた。


子供にとっては刺激が強すぎる絶景から、目が離せない。


「ふふっ……」


それらの光景を見ても、何故か斬江は恥ずかしがる仕草も見せなければ嫌がらない……。


それどころか俺から見られているのを分かっている上で、視線がそちらに向けられる度に笑っているような気がした。


「私のおっぱい……大きいでしょう?」


「っ……」


遂には見ているなという指摘も合わせて、俺に乳房を見た感想を求めて来る程となった。


「えっと、ごめんなさい……」


「大丈夫よぉ……見たければ、好きなだけ見てていいわ」


「は、はい……」


そう許可してくれると、再度身体を洗い始めた斬江。


「クラスの子達とは……全然違うでしょう?」


「……はい」


「ふふっ」


彼女の笑い声が艶めかしく感じる。


クラスの女子には、一人二人ぐらいは乳房が膨らみはじめている者もいた。


しかし……彼女の言うように、成長途中の者達とは違う、膨らみも乳輪も乳首も育ち切った、大人の身体が目の前にはあった。


「貴方の胸とも……全然形とか違うでしょう?」


斬江は俺の胸を撫でるように洗いながら、目を細めてニコニコと笑っている。


彼女の真意は今でも分からずじまいだったが、その時の俺はセックスはおろか、誘惑という行為も無知であった。


なのでこの女は、人に身体を見せつける事で喜ぶ変態なのかぐらいにしか思っていなかった。


だが乳房を見せつけられて、胸が昂っているのは事実。


……興奮して股間が熱くなってくるのは、今も昔も同じだ。


先程も言ったように、この気持ちを発散する方法を、俺はまだ知らない。


「うう……」


「ん……? そんなにもじもじしてどうしたの?」


「何か……あそこが……」


「……え?」


「むずむずするんです……」


「……あらあら」


……股間が疼くが尿意を催している訳では無い。


そのよく分からない感覚が怖く、不安になってしまい、思わず今の状態を斬江に報告してしまった。


「どうなってるのか……私にもよく見せて?」


「えっ……」


「大丈夫……痛くしたりとかはしないから」


優しそうな顔をしている斬江を信じて、足をぱかっと開く……


「……まあ」


……まじまじと俺のモノを見ている斬江。


性器を見せるという行為は、当時子供である俺にとっては恥ずかしい気持ち以外の何物でもない。


「怯えなくてもいいのよ……これはね、男の人になら誰にでも起こる自然現象なのよ」


「しぜん……げんしょう……?」


「そうよ……男の人はね、女の人の身体を見ると興奮してこうなっちゃうの」


「そっかぁ……大和、こんな私の身体で興奮してくれてたのねぇ」


「うう、ごめんなさい……」


「……謝らないで。 身体を隠さなかった私にも責任があるわ」


そうして彼女は慰めるように、俺の身体を優しく抱き締めた。


「この歌舞伎町はね、貴方みたいに心に傷を負った人達が、お金を払ってでも慰めを求める為にやってくる場所なの……」


「その慰める事を……今から貴方にお姉さんがしてあげるわ」


俺の髪の毛をかきあげながら、もう少しで唇が触れ合いそうになる程に顔を近づかせて、彼女はそう呟く。


優しくて温かい筈なのに、少しだけ恐怖を感じるのは何故だろう。


「貴方の今まで溜め込んできた事全部、私にぶつけて……私が全部、受け止めてあげるから」


「……はい?」


「……おいで」


そう言って斬江は俺の手を引くと、訳が分からないまま全裸の状態で、寝室へと連れて行かれた。


そこで俺は、歌舞伎町での慰めの意味を思い知る事となる。


男にとっての最大の快楽を感じる時……性行為。 俺はそこで初体験を終えて、斬江に精力も嫌な思い出ごと全て搾り取られたのであった。


「はぁ、はぁ……」


……静寂さ感じるただの水を、沸騰させてぼこぼこと泡立たせるように。


まるでライオンに食べられている草食動物のように。


俺はされるがままの状態で、溢れんばかりの成人女性の性欲を全身で受け止めているような感覚に悶え続けていた。


……事後、俺は余韻に浸りつつも、斬江と全裸で抱き合ってシーツにくるまりながら睡眠に入ろうとしていた。


「ふふっ……気持ちよかった?」


「はい……」


「嫌な事も……全部忘れられた?」


「まぁまぁ……それは良かったわ」


……それもその筈、今は斬江の事しか考えられていない。


大人の女性としての包容力、甘えたくなる気持ち……本来の母親という人間は、斬江みたいな人の事を言うのだろうと思った。


この人が実の母親ならば、どんなに良かった事か……。


「貴方……暫く家の組に住む代わりに働いてみない?」


……そう思っていると、唐突に斬江はそのような提案を出してきた。


「……え?」


「この家……そしてこの街に住むからには、私が直々に貴方を鍛えてあげる」


「もう二度と、さっきみたいな人に絡まれてもおしっこを漏らさずやり返せる程強い人にね?」


「……」


……その質問が俺にとって人生最大の分岐点になる。


まぁあの時に嫌だと答えていた場合も、あの女もタダで返すつもりは無かっただろうが……


「私が大和の面倒を見ている間は……私の事を本当の母親だと思ってもいいから……」


もう故郷の家に帰らなくて済むのなら、俺の答えは決まっていた。


「はい……俺を、ここで働かせて下さい……」


「……うふふ、ありがとう……大和、愛してるわ」


そして斬江にそう言われながら、額にキスをされた事で俺は目を閉じた……


……こうして俺は、歌舞伎町を制する組の一つである、皇斬江率いる皇組に、十三歳にして極道入りする事になる。


それから四年間、俺は斬江に格闘、射撃、極道のいろは、学校では教えてくれない現代社会をずる賢く生きる術までを叩き込まれた。


その勉強が終わると、俺と斬江は一緒の飯を食い、一緒に風呂に入り、一緒に寝る毎日を送った。


その時は、まるで本当の母親と生活しているような、今まで生きていた中でとても幸せな時間を過ごしていた。


初めて出来た、俺の事を心から愛してくれる存在。


「大和、愛してるわ……」


そして彼女も宣言していた通り、本当の母親のようにそう言って接してくれながら、俺を抱きしめてくれて、甘えさせてくれて……そして慰めたりもしてくれた。


……そんな幸せな日々も、ある日終わりを告げる。


ある日……俺は斬江に呼び出され、いつも授業を受けていたあのマンションの屋上に向かった。


今日もまたいつもみたいな親子ごっこが出来る。


一階から二十四階まで向かうエレベーターの中で、今日は斬江とどんな事をしようか妄想にふけっていた。


斬江の部屋の前に着くと、俺はリズム良くドアを三回ノックした。


「……入りなさい」


「……?」


いつもの斬江じゃない。


怒っているのだろうか、俺のノックに対して低い声で彼女はそう返事をした。


「……失礼します」


「来たわね、大和」


声だけでなく、表情もいつものようなにこやかな物ではなくて、組長専用の机に縦肘をつきながら真顔でこちらを睨んでいた。


やはり斬江は何か怒っているのだろうか。


俺は言葉を慎重に選び、こう問いかけた。


「あの……何か怒っていらっしゃるのですか?」


「怒っていないわ、けれどこれから真剣な話があるの……そこに座って頂戴」


「……? はい……」


これまで見せなかった表情から語られる斬江の話とは、一体どういう内容の物なのか。


俺は彼女の向かいにある椅子に座ると、口から予想もしていなかった事を耳にした。


「……貴方は一人前の極道よ、もう私から教えられる事は何も無いわ」


「……え?」


「貴方はもうこの歌舞伎町で立派に生きていく事が出来るわ」


……ショックだった。


もうあの楽しかった授業が受けられない。


そう悲しんでいる隙を与えず、彼女は更にこう続けた。


「……この四年間、今まで私は貴方に色々な恩を売ってきたわね」


「今度は一人前になった貴方が、私に恩を返す番よ?」


「今まで貴方を育ててきた分……四千万円を返して頂戴」


「……んなっ!?」


四千万円。


当時十七歳からの俺にしたら、四千万という数字はあまりにも荷が重すぎて、途方に暮れるようなレベルの数字だった。


「そんな、そんな大金……」


「あら? 組長である私自らが教えてあげる授業なんてタダじゃないに決まってるじゃない」


「勿論払えるわよね?」


「そ、それは……」


「今まで貴方がこの街で生活をして来れたのは、誰のおかげかしら?」


「……」


何も言い返せなかった。


恩というのは受ける事は良い事でも、返さないのは悪い。


そうずっと四年前から斬江に言い聞かされていた為、その事はよく分かっているつもりだった。


だがその時の俺は、恩返しの仕方を金で返す。しかもその額が四千万円という多額に何とも納得がいかなかった。


しかしどうやって斬江に反論をするかどうかが思いつかない。


俺は下を俯いて黙っている事しか出来ずにいた。


「……」


「……恨むんなら自分を恨みなさいね」


辛い、悲しい……裏切られたような気分だ。


「何、そんなに難しく考えなくていいわ」


「普通の子供だって高校生になれば、アルバイトを始めるようになって、お家にお金を入れるようになるでしょう……? そんな感覚よ」


あの時、俺の初体験を奪ってまで、毎日愛してると言い続けていたのは、そのようなつもりも無かったのに、恩を売ったという事で金を返させる為だったのか……!


アンタが今までに、俺に与え続けてきた愛は、全て偽りの物だったというのか……。


「この世で、はいと言ってはいけない質問は二つ……」


「赤の他人の連帯保証人になる事と、家みたいなヤクザの勧誘よ」


「……ッ!!」


……だが確かに自分のせいだ。


自分があの時、斬江に着いていかなければ……こんな事にはならなかったのだ。


もうあの故郷にいた時のようには逃げられない。


もしこの街を出れたとしても、どこまでもどこまでも斬江が追ってくるような気がしたからだ。


そうやって震えていると、追い打ちをかけるように斬江は俺も耳元でこう囁いた。


「……もしも払わずに逃げたら、その時は容赦しねえからな」


そう言われた瞬間に、これまで斬江と過ごしてきた日々が、嫌な思い出へと一瞬でドス黒く塗り替えられてしまった。


……斬江には昨日も抱かれていた。


しかし斬江と過ごした夜の一時も、あの時に感じた幸せも、ぐしゃぐしゃに握り潰された。


愛している者との性行為……それは恐らく男が生きている中で、一番に楽しいと思える行為だろう。


今までそう思い続けていたので、もうこれ以上幸せを感じられる事も無ければ、後は苦しい人生しか送る事しか出来ないと感じた。


……だがもういい。


それからが、俺にとっての極道社会という檻に閉じ込められた……無期懲役生活の始まりであった。

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