第5話『うかつな思い出』
滅鬼の刃 エッセーノベル
5・『うかつな思い出』
十五年ほど昔のこと、準急に間に合わせるため駅の三つ手前の信号から走りました。
平年よりも五度ほど高い気温だとは天気予報で知っていたのですが、ソメイヨシノが終わって、造幣局の通り抜けの八重桜には間があると言う四月の半ば、走っても汗にはならないだろうとタカをくくっていました。
混んでいるエスカレーターを尻目にホームへの階段を上がると、ちょうど準急が出たところでした。
上着を脱いで額の汗を拭こうと思ったらハンカチがありません。
脱いだ上着でゴシャゴシャと汗を拭いて、カミさんは、こういうの嫌がったなあと反省。
やっときた各駅停車に、オッサンが気楽に腰を下ろせるほどの空席がありません。
しかたなく、隣の車両に移動して、六人掛けのシートに三人しか座っていないのを発見して腰を下ろしました。
すると、視野の端に入っていたオバサンが間合いを詰めてきます。
「おおはっさん」
呼ばれて顔を向けると、初任校でいっしょだったM先生です。
「あ、ああ、お久しぶりです(^▽^)」
「走ってきはったんですか?」
「アハハ、準急を逃してしまって。M先生、いまはどこの学校に?」
「○○高校に、去年から」
○○高校は、わたしの勤務校よりも偏差値で15ほど上の学校です。
――あ、ええなあ――
思いましたが、むろん声には出しません。
ほとんど十年ぶりに会う方なので、精一杯の笑顔で受け答えします。
「S先生といっしょなんですよ(o^―^o)」
S……!?
Sという名前に、わたしの精一杯は一瞬で吹っ飛んでしまいます。
「去年退職しはって、今はH短大で教えながら非常勤で来てはりますよ(^▽^)」
「Sだけは許せんのですよ……」
反射的に言ってしまいました。
M先生は、S……S先生がわたしの恩師であることを承知していて、久々の邂逅の話のタネにしようと思われただけなのは声の調子で分かります。
しまった。
M先生は、よく言えば鼻白んで、公平に見れば傷ついて憤慨されてしまわれました。
可愛い子犬と思って頭を撫でようとしたら噛みつかれたみたいな感じです。
M先生に罪は無いので、すぐに挽回しようと思うのですが、とっさには間に合わず、二つ向こうの目的の駅に着いて、わたしは降りてしまいました。
「それじゃ」とか「失礼します」とか言ったのか、無言で降りてしまったのか記憶にありません。
それほど、S先生の名前は、わたしの脳みそを瞬間で沸騰させてしまったのです。
S先生は、こんな先生でした。
一時間目の授業には来られません。
「オレ、一時間目は来ないけど、ぜったい職員室に呼びに来るなよ」
一年生で学級委員長になったわたしを廊下に呼び出して言い含めました。
せいぜい、次の一時間目の授業だけかと思ったら、連休前になっても一時間目の授業に来ません。
たまたま、教室の前を通りかかった担任がS先生の不在に気が付いて「おい、委員長」と廊下に呼び出され、「五分たっても先生が来られない時には呼びに行くようにいっただろ」と叱られ、いや注意されます。
子ども心にも本当のことを言ってはまずいと思い「すみません」と、その場は謝っておきました。
その次の日の一時間目もS先生は来なかったので、さすがに職員室に呼びにいきます。
そこで知れました。S先生は一時間目に間に合う時間には出勤していないのです。
ちょっと問題になって、その後出勤してきたS先生に怒られました。
「おい、呼びに来るなって言っただろうが!」
「え、あ……」
「気のきかん奴や」
「あ……すみません(-_-;)」
ちょっと不貞腐れるように謝った記憶があります。
S先生はヨタ話というか雑談の多い先生でした。学生時代の話や、学校の噂話などで、一時間目に来ないこともあいまって、授業の半分ほどはヨタ話と自習で済ませていました。
連休明けになると、真面目な生徒は自分で勉強していたように思います。
テスト前の三時間……二時間ほどでしょうか、大慌てでテスト範囲の内容を黒板の端から端まで三回ほど書いて早口で説明されていました。
主要教科ではなかったので、それ以上に問題になることはありませんでした。
幸か不幸か、二年生になるとS先生は学年が異なったこともあって、授業を持っていただくことはありませんでしたが、こんな出来事がありました。
S先生が予備校で授業をしていると噂が立ったのです。
進学校でしたので、現役の生徒でも塾や予備校に行っているものが居て、その関係で噂が広まったようです。
放置しておくわけにはいかなくなって、同僚の先生たちが「ちょっとまずいよ」的な注意されますが、今風に言うと「それはフェイクです」と突っぱねました。
先生たちの中には、S先生が高校生だった頃の恩師もおられ「ちょっとS君、いやS先生」と差しで話しているのを図書室で目撃しました。
ああ、これはヤバいなあと思いましたが、S先生の恩師は、それ以上注意することを控えて、腕組みしたまま図書室を出ていかれました。
強い喜怒哀楽というものは言葉にしなくても溢れてきます。例えば殺気ですねえ( ゚Д゚)。
殺気を感じて振り返ると、隣接する司書室からI先生の怖い顔がガラス越しに見えます。
I先生は、正義感の強い先生で、なんと、放課後S先生の後を付けて行きました。S先生の向かった先は、噂通りの予備校で、予備校の受付で勤務実態があることを確認。勤務を終えて出てきたS先生に「おい、S、やっぱりやっていたじゃないか!」と詰め寄られ、S先生の予備校勤務は白日の下に晒されました。
でも、ここまでであれば、まだ校内のもめ事ですみました。
なんとS先生はI先生に匿名の……なんというか、強い意志表明の手紙を出しました。
「大橋君、あいつ、こんなもの寄こしてきやがった(`Д´)」
見せていただきましたが、恐ろしくて「強い意思」であったことしか覚えていません。
ここまでくると、穏やかに事は運びません。
新聞社に情報を漏らした者が……生徒か、保護者か、教職員の誰かか、今となっては知る由もありませんが、法律で禁じられている兼職をやっていることや授業をロクにやっていないことが新聞に書かれました。
いまなら免職ものでしょう。
教師には甘い時代でした。
生徒でしたので、詳細は分かりませんでしたが、どうやら戒告程度で済んだようで、勤務はされていました。
しかし、すでに学校関係者や世間の知るところとなり、府議会でも問題になり、府議会の文教委員の議員が随時査察にやってきました。
これはこれで面白い事件だったのですが割愛いたします。
S先生は、翌年、府内でも指折りの困難校に転勤になりました。離任式の日に図書室に寄られて、他の先生にグチっておられるところを、また目撃してしまいました。
子ども心にも――どの面下げて――と思ってしまいました。
S先生は、わたしが所属していた部活の顧問でもあって、部活でもいろいろあったのですが、ここでは触れません。
とにかく、この先生は許せないと思ったのですが、M先生と電車で会ったのは、それから四十年近くたっています。
ちょっと間を開ければ「ああ、S先生ですかあ……懐かしいなあ、お元気にやっておられますか(o^―^o)」くらいに言えたのですが。
信号三つ分走って、準急に間に合わなかった悔しさと汗で、スイッチが入ってしまったんでしょうか。
あれから、十余年、思い出しては汗が出てきます。
うかつな思い出は、不用意に人を傷つける刃になります。
こんどM先生にお会いする機会があったら、ちょっとフォローしておきたい失敗でありました。
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