梅干しじいちゃん
詠三日 海座
1話読み切り
梅干しの入ったおにぎりと、一杯の味噌汁。これが食べたくて、外に出た。夜道を歩いた。玄関のドアは軋むから、音を立てないように慎重に開けなければならない。家には僕以外、誰もいないけれど、お隣に聞こえてしまうのはまずい気がしてたから、そっと誰にもバレないように、僕は家を抜け出す。
お家でいい子にしてるのよ、母さんはそう言って毎晩出かけた。食事をするテーブルには五百円玉が置かれている。僕は母さんが出かけると、五百円玉を秘密の貯金箱にしまう。ずっしりした重量と重みのある金属の音に、僕は思わずほくそ笑む。中身が見たくてうずうずするのだけれど、実際中身を出したのはあとの話。
僕はお腹が空くと家を出た。夜のアパートの階段は不気味だった。顔を強ばらせて、慎重に階段を下りてやっと地上に足を付ける。すると広い道路を挟んで向かいに、大きな一軒家が見えるのだ。木造建築、瓦屋根。僕の住むアパートも古かったけど、あの一軒家はとびきりのボロ家だった。でもいつも、玄関ポーチだけ、トルコランプみたいに装飾された、暖かい灯りが、キラキラと入り口を照らしていた。――まるで、僕を待っているようだった。
大きな道路を駆けて、毎晩あの家へ向かう。ドアの前でノックして、
「梅干しじいちゃん」
と声をかけると、しばらくして中から小柄なおじいさんがドアを開ける。
「いらっしゃい、お入り」
僕は、母さんが出かけた日の夜、ここへやってきて、梅干しの入ったおにぎりと、一杯の味噌汁をご馳走になる。おじいさんはおにぎりの梅干しにすごくこだわっていた。だから、梅干しじいちゃんと呼んでいた。背が低くて、頭もてっぺんが禿げていた。おっとりしたおじいさんだった。
梅干しじいちゃんはお茶碗でご飯を食べる。その上にはもちろん梅干しが乗っている。あと一杯のお味噌汁。
梅干しじいちゃんは、僕が初めて、夜中に宛もなく家を抜け出した時に出会った。
「あおくん」
「なに?」
「あおくんは、大きくなったら何になるんだい?」
「……決めてないよ」
「なりたいものは決めておかないと、あおくんこれから辛い時、頑張れないよ?」
「うん、どうやって決めるの?」
「あおくんは、何が好きだい?」
「ぼくお絵描き好きだよ」
「お絵描きかい、あおくん上手そうだねぇ」
「梅干しじいちゃんのご飯も好きだよ」
「嬉しいねぇ。あおくんは優しい子だ」
「そうかなぁ」
「あおくんは強い子だ。賢い子だ。好きなことをこれからもずーっとやっていくといいよ」
僕は頷いた。
好きなものは絵を描くことと梅干しじいちゃんの晩ご飯。大きくなるにつれて好きなものは増えていった。
小学校、中学を出て、高校に進学する時に、アパートを出た。故郷を出て寮で生活し、卒業すると、大学へは行かずに、故郷へ帰って小さな店を開いた。大切にしていた貯金箱は六つにまで増えていたから、そのお金で弁当屋を開いた。売りは梅干しにとことんこだわったおにぎり弁当。メニューの絵はもちろん全部手描きだ。朝早くから夕方まで、一人で営業を終えると、僕は近くの病院に向かう。
右手に花束と、左手に店のおにぎりを持って、エレベーターで五階、一番奥の部屋に梅干しじいちゃんはいた。
「梅干しじいちゃん」
呼ばれて梅干しじいちゃんはゆっくり振り向く。
あの頃より随分腰が曲がってしまっている。
「あお」
梅干しじいちゃんはにこやかに笑う。夕焼けのオレンジの光が、窓から差し込む。それは玄関ポーチの暖かい灯りのよう。
梅干しじいちゃん 詠三日 海座 @Suirigu-u
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