夜の道で

紫鳥コウ

 たばこの火を消してしまうと、伝票をゆびにはさんで、いってしまった。またひとり、ここからいなくなった。からになっていく、この喫茶店のなかに、どんどん、夜がしのびこんできていた。


 ぼくは、ひとを待っていた。しかしそのひとは、いくら待っても、あらわれなかった。電話もつながらなかった。二杯目のコーヒーを飲んでしまうと、もうここにいることが、はずかしくなってきてしまっていた。


「成島?」


 すこしずつ眠たくなってきて、うとうととしていたら、だれかがぼくを呼んだ。流し目でそちらを見やると、そこには、恰幅かっぷくのいいおとこがいた。ぼくは、あたまのなかの図入りの辞書をめくったが、すぐには見つからなかった。


「柏原だよ」


 そういって、彼はわらった。


 柏原――名前を聞いても、ピンとこなかった。かといって、どなたですか、と尋ねるのは、なんだか気がひけた。


「お疲れだな。成島も待ちびとがこないのか?」


 ぼくは、こまってしまった。


「もしかして、こっちに、住んでるのか?」


 ぼくは、辞書のうしろのほうまでめくってみたが、柏原という名前は、どこにもなかった。


「ああ……なるほどな。苗字がさ、変わったんだよ。結婚してさ。黒木だよ、黒木」


 黒木――そうか、黒木だ。なんとなく、いやな感じがするから、小学生のときの知り合いだと、うすうす思っていたが、黒木だ。いじめっ子の総大将の、黒木だ。


「柏原は、妻の苗字さ。いい苗字だろう」


 ぼくは、ようやく、口をきこうとした。しかし、その前に、黒木は、こんな提案をしてきた。


「ちょっと歩かないか? もうさ、ここにはいられないだろ。そとは、寒くもないし、かといって、暑くもないし。歩こうさ」


 歩く?――なぜ、黒木は、そんな提案をするのだろうか。ぼくは、よくわからなかった。ただ、なにかうらがあるような気は、しなかった。


「そこらへんをさ、歩こう」


 黒木は、わらった。こんなに、よいわらいかたをする、おとこだっただろうか。

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