【全自動有給消化システム】

【全自動有給消化システム】



 1月。



 1月を迎え、わたしは労基に電話を掛けた。1月2週目の金曜日にだ。


 この時点で、労基と会社は決着をしている。


 そうなっているはずだ。田上さんはそう言っていた。


『もうさすがに待てません、とは伝えています。ただ、次の提出日である12月末までは待ちます。そこでそれでも改善する気がないなら、もうおそらく逮捕することになるんじゃないかと、思います』


 この言葉を覚えているだろうか。11月の電話で田上監督官はこう言っていた。



 社長が本気で会社の改善を考えているとは思えない。今後も同じように、「いやぁ~、やってるんですけどねえ」で済ませるつもりだ。何も出すつもりはない。改善する気なし。ということは、いよいよ決着だ。逮捕、という言葉を田上さん自身が使っている。「もう労基全体の問題になっている」とも言っていた。



 わたしに残された時間は多くない。この会社に残っているのはあと1ヶ月程度。だが、ギリギリ決着を見ることはできそうだ。



 提出日は12月末、ということだったので、1月に入ってから連絡した。もう待てない、と労基が言った提出日が12月なのだから、さすがにもういいだろう。


 そして、田上さんは電話に出てくれた。


 彼は結果について、こう言う。


「いや、実は年末は一番忙しい時期だから待って欲しい、と言われまして……。提出日は1月になりました。さすがにここで出させますので……」



 ……………………。


 ……………………。


『もうさすがに待てません、とは伝えています。ただ、次の提出日である12月末までは待ちます。そこでそれでも改善する気がないなら、もうおそらく逮捕することになるんじゃないかと、思います』


 いや、あの、田上さん? いや、あの……、あぁ、はい……。まぁ田上さんがそれでいいなら、別にいいですけどね……。


 もう決着がつくというなら、今更数日待つ程度は何ともない。待てなくてもどうしようもない。社長が「待って?」と言って、労基が「いいよっ」と返した。じゃあわたしも待つしかない。



 仕方なく、その日は仕事に戻った。




 話は前後するが、先にわたしの退職までの話を書いてしまおうと思う。



 12月の『お祭り』を終え、今後は引継ぎを進めることになる。今まで投げっぱなしにしていた分、この1月ですべて終わらせなければならない。


 これがまた大変だった。年末のあとに休みなくやったものだから、かなり辛かったのをよく覚えている。「あと1ヶ月頑張れば、ここから逃げ出せる……」という思いがなければ、どうにも耐えられなかっただろう。



 引継ぎ作業。



 わたしの仕事を丸々引継げるフリーの人がいれば、それはもう楽に終わる仕事だ。めちゃくちゃ楽。すぐ終わる。


 しかし、その相手を用意できないのは川崎さんたちで経験している。会社は本当に何もしない。わたしもふたりと同じく、同じ営業所の人に仕事を被ってもらうしかない。


 では、引継ぎ作業はどんなものか。


 まず、お客さんへの説明。出会うお客さん全員に担当者が変わることをお伝えする。日時を変更する場合は、日時変更のお知らせをひとりひとりに渡す。どんな人が来るのか、どういった理由でこの時間になるのか、一から説明する。それもひとりずつ。お客さん全員に。発狂しそうになる。通常の販売に加えて、その説明の時間がかさんでくるので、どんどん遅れる。短くなる昼休み。伸びる勤務時間。増えるサビ残。もう散々だ。



 もしフリーの引継ぎ相手がいるなら、助手席にその人を乗せ、「この人が次から来ますんでー」と言って終わりだ。超簡単! そうでありたかった。


 そして、引継ぎ相手への説明。


 回る地域の説明を引継ぎ相手にする。ルートの説明だ。地図を広げ、ここをこうやって通ってこのお客さんを拾うんですよー、と口頭で伝える。


 通常業務を終えた21時から22時のあとにこれを始める。ひとつひとつ説明していくために、めちゃくちゃ時間が掛かる。気が狂いそうだ。疲労で頭も上手く回らないっていうのに。


 フリーの引継ぎ相手がいればいっしょに行商を行い、道を覚えてもらえばいい。だがこの場合、引継ぎ相手は各々自分の仕事があるため、それはできない。地図を見て覚えてもらうしかない。



 地図の説明もさることながら、地図を作る作業が大変だった。何せ手作業だ。手作りの地図だ。自分で作らなければならない。


 会社にはゼンリン地図のコピーが置いてある。A4用紙にコピーされ、それがファイリングされている。それらを引っ張り出し、コピーし、セロハンテープでくっつける。ルートを蛍光ペンでなぞり、お客様の家には印しを入れる。それを丸5日分。10時間近くのルートを書く。100人以上の家をチェックする。


 気が狂うわ。


 というか、この作業に疑問を覚えて仕方がない。地図をコピーしてセロハンテープで張り付ける? 蛍光ペンで道を書く? いや、今、平成何年……? 小学生の自由研究じゃねーんだぞ。会社から渡されている、このスマホをもっと上手く使えばいいのでは……? さすがに前時代すぎない……?


 しかし、わたしたちは幹部から「発注フォームに日付の概念を入れると、きっとわからなくなっちゃう」と思われているアナログチンパンジーだ。このやり方は変わらないんだろうな、と思う。


 そしてこのアナログ作業、やたらと時間が掛かる……。文字で書いているとそうでもないが、実際にやってみると大変なのだ。死ぬほど面倒くさい。わたしの場合、結局地図を作るだけで30時間くらい掛かった。全部タダ働き。


 地図を作らないと話にならないから、1月3日に会社に出てきて、朝からせっせと地図作りを行っていた。去年の1月3日は神宮で一日タダ働きだったが、今年は地図作りでタダ働き。嫌すぎる。


 18時で切り上げ、帰りは喫茶店でお茶して帰ろ……、と思ってチェーン店に入ったら、「すんません、三が日なんで18時で閉めちゃうんですよー」と言われた。切なさが過ぎる。




 いよいよ辞める時期が近付いていたが、わたしにはやっておきたいことがあった。


 わたしの前には川崎さんが作った道が続いている。既にこの道を滝野さんも歩いて行った。わたしが行かない理由がない。


 有給申請だ。


 一度も使ってないから当然だが、丸々残っている。もらえるものはもらっておきたい。あのふたりがもらえたなら、わたしだって使えるはずだろう。


 とりあえず、所長に相談してみた。すると、


「別にええけど、あれってなくなったんじゃなかったっけ?」



 と首を捻っていた。なくなった、というのは例の就業規則のことを指してだろう。全自動有給消化システムのことだ。



 上手いなぁ、と思ったのは、所長にこう思わせていたことだった。所長でこれなら、同じ認識の社員はほかにもいると思う。「有給って、なくなったんじゃなかったっけ?」と。なくならねえよ、と言いたいところだが、「なくなった」と思わせるのがミソだ。「ないもの」として彼らは扱う。あんなめちゃくちゃな就業規則だが、社員にそう思わせた時点で社内では実在する就業規則に変わる。所長がもし辞めるとしても、きっと有給を取ろうとはしない。そんなものはないからだ。


 もしかしたら、再配布した給与明細もそういう意図があったのかもしれない。


 あの就業規則は労基から注意がいっているはずだ。そんなものは通用しません、と言われているはずなのだ。だが、押し通した。給与明細の再配布までした。労基からなんと言われようが、外から見て間違っていようが、あれで「残業代は払ったことになった」。


 この有給と同じだ。社員はこう思うことになる。「残業代って、払っていることになったんじゃなかったっけ?」。



 だからもし、新入社員が迂闊にも、「残業代って出ないんですか?」と聞こうものなら、彼らは半笑いでこう答える。「いやまぁ、一応、全額出てることになっとるよ」「そやな。一応、全額出とるな。給料上がってへんけど」「わはは」みたいな。わははじゃねえよ。



 とはいえ、わたしにはそんな事情は関係ない。有給はある。だから取る。わたしにはその権利がある。


 所長が今まで一度も開けたことのない棚から、有給申請の用紙を持ってきた。まさか、この会社にこんな用紙が実在するとは……、と宝を発見したような目で見ていると、所長はその用紙を眺めて、「ん!?」と止まった。


「これ、所長許可にハンコ押さなあかんのやな……」


 そんな欄があるらしい。まぁ有給申請で、直近の上司の許可を得るのは普通だろう。許可くれよ、と思っていたら、彼は首を振る。


「許可出せるか出せやんかで言うたら、あんなことがあったんやから俺からは許可出せへんよ」


 え、エェー!



 所長が言っているのは、川崎さんたちが有給申請を押し通したこと、それにキレた社長が全自動有給消化システムを導入したこと、そして社員がそれに同意して「有給はないもの」として扱っていること、それらすべてだろう。



 この状況で有給申請するのは、空気を読まないこと、ケンカを売ることに近い。会社側が「有給ってもうないんだよ? だって、もうナイナイしちゃったから! ね? 有給ないでしょ? ね? ね?」とニコニコしているのに、「うるせえ寄越せ」と突っぱねる。


 所長は、それに付き合うのが嫌なのだ。わたしの有給申請に加担するのを拒んでいる。最悪、これで社長がキレたら所長までいっしょに怒られる。それが嫌なのだ。


 まぁそれに関しては何も言うまい。別に責められないとも思う。所長だって余計な争いに巻き込まれたくないだろう。ただでさえ、ずっと忙しいのだ。


「どうしても取りたいんやったら、総務に直接言いな」


 そう言ってくれただけでも十分だ。わたしは、総務に電話を掛けて部長に代わってもらった。社長の代わりに何度も労基に行く羽目になり、この営業所にも就業規則の説明をしに来てくれた総務部長である。


 有給が取りたいんですけど、と部長に伝えると、返答は実に早かった。


「いや、あれは就業規則のときに説明した通り、なくなったでしょう?」


 これを結構強めの口調で言われた。おおっと、なんだ強気じゃねぇか。ちょっと怒ってる風に言えば、こちらが黙るとでも?



 例えばこれが、川崎さんのマネで言っている相手なら、通用したかもしれない。前にも書いた通り、川崎さんが有給申請して実際に通ったことで、みんな辞める前に有給申請をしていった。あの就業規則はその便乗を止めるため。なので、「そういえば、前に川崎が有給通ったって言ってたなぁ。俺もやってみるかぁ」くらいの気持ちの人なら、部長に「なくなったでしょ」と強めに言われたら、「そういえばそうだったなぁ」と黙るかもしれない。



 わたしは川崎さんと滝野さんと同じ営業所だ。それこそ部長からは、ふたりから「有給申請したらもらえたで」と唆されたと思われているのかもしれない。



 どうもこの会社は、社員が完全に無知だと思っているきらいがある。



 今回のこともそうだが、滝野さんが辞める直前に社長に呼び出されたのもそうだ。わたしたちが何も知らないと思って、「求人広告を出したが、だれからも応募がなかった」と平気で嘘を吐く。わたしたちはそれが嘘だとわかる。今回もそうだ。こっちは労基に裏を取っている。有給は使える。



 まぁ無知を利用するのはブラック企業の基本だ。「ほかの会社でも同じことをやっている」「ここで続かないんだったら、ほかでもいっしょだぞ」と嘯くのと変わらない。まぁさすがにもうちょっと嘘の精度を上げてくれ、とは思うが……。



 部長から「有給はなくなったでしょ?」と言われ、何と返答したのかは、あまり思い出せない。


 ただ、こっちはこっちで強めの口調で、「有給は取れるはずだ」と強固に主張したんだと思う。そうなれば、あっちは否定できない。嘘つきは部長だ。そしてその嘘は通用しない。


「じゃあ、ちょっと社長に許可を取ってきます……」


 と、案外あっさり通った。


 ここで社長がブチキレながら電話を掛けて来たら一波乱だったが、そんなことはなかった。しかし、スムーズに話が進んだかと言えば、そうでもない。


 わたしの有給は丸々残っているので、10日丸ごと請求した。しかし、後日、部長から返ってきた答えはこれである。



「ごめんね、社長から許可はもらったんだけど、『どうしても5日までしか出せない』っていうものだったんだ。だから、本当に申し訳ないけれど、5日で我慢してもらえないかな?」



 どうしても5日しか出せない??????????


 どういうこと? 有給で「あー、今回は〇日までしか出せない~!」ってなるシチュエーションある???



 いやまぁ普通に働いている分にはわかる。仕事の状況で、〇日間しか休めないっていうのはあるだろう。だが、わたしは辞める身だ。勤務状況は関係がない。お金を出して終わりのはずだ。そして現状、いくらなんでも数万円が出せないってことはないんじゃないか……? 捻りだせよ! ジャンプしろよお前!



 全部出せない、でも全部出す、でもなく、「5日までなら出す」というのが、何とも社長らしくはあるのだが……。



 ここで「は!? いや、困るんですけど! 10日分ちゃんと丸々寄越せ!」と主張するのは簡単だし、そうするべきなのはわかるのだが、この時点でかなり面倒くさい。既に部長とも揉めている。それこそ、滝野さんのように本社に呼び出され、「会社に損害を出すつもりがあるってことやな……」なんて言われたら目も当てられない。


 仕方がないのでここで手を打った。5日で我慢した。痛み分けというよりは社長の粘り勝ちと言えるが、まぁそれも含めてしょうがない。

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