豆腐屋さんの社畜日記 ~愉快なブラック企業と労働基準監督署~
西織
ご挨拶
『いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。手作りの〇〇豆腐でございます。おいしい、おいしい、お豆腐はいかがでしょうか。今夜の晩御飯に、あったか~い湯豆腐はいかがでしょうか……』
パープーとラップを鳴らし、こんなふうに放送をかける車を見たことがあるだろうか。豆腐屋さんの移動販売だ。
会社のロゴが描かれた軽バンで豆腐を運び、住宅街でラッパを鳴らす。『いらっしゃいませ……』と放送をかける。お客さんがいればその場に停車し、ハッチを開けてその場でお豆腐販売。多種多様な豆腐商品が並び、販売する。
この光景は全国各地で見られるものだろうか。
ほかの県はわからないが、少なくともうちの県では所狭しと走り回っていた。
さて、ではこの豆腐屋の移動販売。
主な仕事は豆腐の販売。行商だ。一日中、行商車を運転し、お客さんのところに向かう。主婦の方々と世間話をしながら、豆腐を買ってもらう。時には商品を売り込む。新商品をオススメしたり、おいしい食べ方を教えたり。時間が空けば新規開拓を行い、知らない土地でラッパを鳴らす。
月曜日から金曜日まで、同じ時間同じ場所に車を走らせて、大体決まったお客さんを拾っていく。ルート営業ならぬルート販売だ。客の9割近くがリピーターである。
そこでお聞きしたいのだが、この仕事、ほかの業種と比べて特別大変に見えるだろうか。
信じられないほど激務で、心労を重ねる仕事だと思うだろうか。
少なくとも、わたしは思わなかった。大体の人もそうだと思う。そりゃお仕事だから大変なのは間違いない。でも、ほかの仕事と比べてめっちゃ忙しいかっていうと、どうだろう? 豆腐の販売だよね? そこまでじゃない? そう思うんじゃないだろうか。
わたしは思ってた。
豆腐製造と販売をひとりで行うなら大変な仕事だ。けれど、それが〝販売だけ〟ならどうか。車に乗って売ってくるだけなら。それなら、ほかの接客業とそれほど変わらないのではないか。お客さんが近所のおばちゃんなら、むしろ気楽とさえ思える。
(実際、客層はめちゃくちゃいいので、接客業特有の苦労は少ない。昔、本屋兼レンタルショップでバイトしていたが、それに比べると2億倍マシ)
労働時間だって短そうだ。外でラッパを鳴らすのだから、常識的な時間でしか活動できないし、残業だって多くはなさそう。あっても普通の企業と同じくらいだろう……。
きっと大丈夫。そうタカを括り、わたしは入社した。豆腐の移動販売を主とする会社にだ。地元では有名な会社だった。
しかし、その実態は。
月の平均サービス残業時間、110時間。
月の最高サービス残業時間、199時間。
出社時間は大体6時半から7時半の間。
退社時間は早ければ21時前後。少し手間取れば22時。ちょっとしたトラブルが起きれば23時。24時までかかるのは年に数回。
大体こんな感じの生活が毎日続く。残業代はつかない。すべてサービス残業だ。
毎日毎日、5時間以上を会社にタダで提供し続ける。サブロク協定なんて聞いたこともない。
正社員雇用、ただし退職金なし。残業代なし、有給なし、昇給なし。ボーナスほぼ壊滅。歩合制だけがギリギリ息をしている。
奴隷の方がまだマシな生活してんじゃねえか、と思うほどの社畜っぷりである。
気が狂うわ。
実際、ある程度は狂っていたかもしれない。
とはいえ。
極悪な労働環境といえど、それだけなら面白味はない。シンプルにひどいだけの会社だ。この会社がただただ労働時間が長いだけだったら、わたしはこの話を書こうとは思わなかった。
過酷な会社ならほかにもあるだろうし、わたしより長く働いている人もいるだろう。
しかし、この会社ほど面白い企業はほかにないと思う。
わたしがこの会社にいる間、さまざまな事件が起きた。望んでいないのに勝手に起承転結ができあがった。物語ができていた。あぁこれは書き残しておかないと勿体ない! と思い、筆を取ったわけだ。
わたしがこの会社にいた期間は――大変恥ずかしながら、1年と3ヶ月。たったの1年3ヶ月である。
しかし、このたった1年3ヶ月の間に、本当にいろんなことが起きた。
会社の工場が燃えたり、部長が豆腐の水槽に顔を付けたまま動かなくなったり、有給自動消化システムが導入されそうになったり、社員が社長に殴りかかったり、救急車がきたり、消防車がきたり、警察がきたり、労基がきたり、辞めた社員が「この会社の悪行をすべてマスコミにバラす!」と脅したり、給料が遅れたり、豆腐を作る大豆がなくなったり、豆腐がなくなったり、社員が一斉に辞めたり、車が横転したり、油揚げにゴキ〇リが混入していたり……、と挙げ始めたらきりがない。
濃厚すぎる数ヶ月だった。1年3ヶ月間の出来事とは信じられない。
……いや、本当に信じられない。無限のように感じたあの苦行の日々が、たったの1年3ヶ月……? いや、明らかにもっと長かっただろう……?
(まぁ起きている時間が単純に長かったから、体感時間は長くて当然なのだが)
そして、このお話はひとつのサンプルである。
この物語の舞台は、決して昔ではない。平成後期、2010年代のお話である。とっくの昔に長時間労働は問題視されていた。労働環境は改善され、昔のような無茶な働かせ方は言語道断の時代だ。きちんと労働者の権利が認められる時代。会社の古い人がうっかり「今の若者は仕事に対しての姿勢がなっとらん」なんてSNSで言おうものなら、即炎上である。
新人は一番早く出社するべきだ、残業は喜んでするべきだ、サービス残業だって文句を言うな。そんなのは昔の話で、今はそんな時代じゃない。企業が時代に合わせて切り替わっていく……、どころか、切り替わったあとの話だ。
だからこそ、たまにテレビでブラック企業が特集されたりする。
それを観ている人は、こんなことを言う。
「そんなにブラックなんだったら、労基に言えばいいのに」
実際、わたしも言われたことがある。この豆腐屋に勤め、サビ残まみれになっているわたしに、家族や友人は言った。労基に言えばいいのに、と。
言った。
もう言った。
サービス残業199時間は、だれもが認めるブラック企業だろう。ならば、そのことを労基――労働基準監督署に、正式にチクったらどうなるのか。
どう会社が変わっていくのか。
それもこれから書いていこうと思う。
もし、自分の会社がブラックで、労基に相談するか迷っている人がいれば、これは参考になるかもしれない。
とはいえ。
このお話はコメディである。喜劇である。エンターテイメントである。わたしが経験した、面白ブラック会社エピソードを書いていくだけ。アホな若者がアホな会社に入ってアホな事態に巻き込まれた。その程度の話だ。肩肘張らず、気軽に読んでもらえばいいと思う。
事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、おかしな話ばかり出てくる。小説としてはとても書けない。会社での数々の事件は「リアリティがない」と言われるだろうし、社長の造形に関しては「ベタすぎる。もっと捻って」と編集に止められるだろう。
色々とツッコミどころも多いが、だれよりもツッコミたかったのはわたしたち当事者である。
これから語るのは、そんなお話。
しかし、最初に言っておく。
これは、邪知暴虐の王として君臨する豆腐屋のパワハラ社長、そして彼が率いる100人の奴隷たち。
その王を打ち倒すために立ち上がった、若者たちの戦いの物語である――。
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