魔宝石商の旅日記～本日もイケメン(女)魔石商はマイペース営業中～

魔石商見習い

第1話 はじまり

　大粒の雨が地を緩ませるなか、泥にまみれた生物が馬車道へ這いずりでる。

「ち、くしょう。こんなところまで・・・逃げねえと・・」

　着衣は泥水に染められ、濃い金髪の輝きをも奪う。太ももから上肢までは筋肉隆々としてたくましいのに、ひざ下は拉げて（ひしゃげて）歩けないことは一目瞭然なその状態は見るに堪えない。

　ゴロゴロと聞こえる雷鳴は、まだまだ雨が強くなることを知らせども、この男には雨宿りする手段もなかった。

　腕の筋肉だけで歩みを進めようとしても、悪天候が追い打ちをかけるように、それを阻む。力尽き、こめかみをどしゃり、と地面に落とせば、雷鳴の轟が振動として伝わってくる。それは長く、徐々に力強く。

　男ははっとして、胸ポケットを漁り、巨峰ほどの大きさの赤い魔石に魔力を流し、火を灯した。

「おーい！頼む！止まってくれ！！！！」

　痛みに耐え、男はなんとかうつぶせの体を仰向けにして、魔石をもった手を振りかざす。自分の視界にはとらえられないが、馬と荷車が走らせる地響きを感じ取り、希望を託しての行動だった。ここで気づかれないで絶命するか、魔獣に襲われて絶命するか、馬車に運悪く轢かれるか。この最悪な三つの選択肢のなかで一番生き残る可能性が高いのは三つ目だ。

　魔石を振りかざすために上げていた腕に血が巡らず、痺れて冷たくなってきた頃、馬の蹄の音が途端に止む。

「おい、こりゃひでえな・・・魔獣にでもやられたか？」

　上からかけられる声に、金髪の男は、自分の運の強さに力なく笑った。

「悪いが、近くの神殿まで送ってくれ。狩人（ハンター）なんでね、御礼はきちんとさせてもらう」

　脚を自由に動かすことができない男は、馬車から降りてきた数人の男たちに助けてもらいながら、辛うじて荷台に身体を載せ上げることに成功した。

　明かりがない荷台に目が慣れてくると、そこには首に枷を付けた者たちが数名乗り合わせている。この大陸では珍しくもない奴隷商の荷馬車のようだ。

　奥には大きな果物籠のような取っ手がついた籠が置いてあり、そこから小さな手がちらりと見えた。男はただの興味本位でその籠を覗きたくなった。そこまでの小さな子供が奴隷商に売られるのはそこそこ珍しいから、というのが理由だったかもしれない。

「ぷ、あー」

　まだ言葉を話せないほどのこどもだったが、うすグリーンの瞳をきらりとさせて男を不思議そうに見上げる。この年に親が手放すとは貧民か特別な事情か。物心がつく前に売られるのは果たして不幸なのか、不幸中の幸いなのか、答えは数年後に本人のみぞ知るところだ。

　ガタガタガッ

　悪天候ゆえか、馬車は大きく左に傾きながら地面を滑るように揺れた。その衝撃で木箱の上に乗っていた荷物が傾いて、先ほどの子供の上になだれ落ちた。

「おいおい、大丈夫か？」

　声もなく荷物のなだれに巻き込まれた子供が心配になり、赤い魔石に火を灯らせ、近くに置かれている燭台に火を移す。なだれた布やら本やら食材をかきわけて、やっと覗かせた小さな顔は、きょとんとして男を見つめた。

「こっちは肝が冷えたってのに、そっちは肝が据わってるねえ・・・」

　男はぐてり、とその場に寝転がるが、違和感を感じてもう一度頭をあげる。

「……なるほど、そういうことか」

　自身の拉げた脚を泣きそうな、憎そうな、複雑な顔で見やったかと思えば、天井を仰ぎ見て、くつくつと笑い始めるのだった。

「おい奴隷商の旦那ぁ！この子供は俺が買った！！大金はたいてやる！！！！！」

　雷鳴轟くその夜、意気消沈した奴隷商の荷馬車からは、男の愉快そうな笑い声が響き渡ったのだった。