血戦小豆坂
翌朝、刈谷城の水藤四郎信元を陣に加え、織田勢は出立した。岡崎まではおおよそ三里、周囲を警戒しつつゆるゆると進み、昼前には小豆坂に差し掛かる。
嫌な予感ほど当たるものじゃ。今川の手によるものか、尾張者への反感かはわからぬが、東三河の豪族たちが後ろ巻きに現れているという。
「岡崎衆、城を出て坂の真下にて待ち構えておりまする」
細作の報告を受け、殿はぎくりとした表情をわずかにされた。
そのまま軍を止め、行軍隊形から備えと呼ばれる戦闘隊形に組みなおす。
「権六、どう見る?」
「はは、物見の報告を待ってからになり申しますが、岡崎衆は出せるだけの兵と思われます。伏勢がおるかどうかにございますな」
「であるか。東三河の鵜殿が動いておるそうじゃ」
「……今川の下知によるものにございましょう」
「であろうな。一気に踏みつぶすか……」
「安全策をとるのであれば、安祥に引くも一手かと」
殿もそれはわかっているのだろう。ただ、一度軍を起こしたのであれば、一度も戦わずに退けば臆病のそしりは免れない。戦奉行は強いゆえに任じられている。その肩書を失えば織田家を主導する根拠が失われる。
それゆえに今は先に進み、敵を破るしかないのだ。
「よいか! 今より兵を三段に備える。先備えは三郎五郎(信広)、藤四郎(信元)が率いよ。中備えは儂が率いるでや。平手、佐久間、柴田は我が下知に従え。
後備えは孫三郎じゃ。林、内藤が補佐せよ。よいか!」
「「「おおう!!」」」
「しからば、掛かれ!」
殿が振るった采に従い兵たちが動き出す。中備えは前衛を佐久間の義兄上と親父が、旗本衆に平手殿、後ろ巻きに佐久間半介信盛という陣立てだ。
儂自身は旗本衆に組み入れられた。
「旗本は殿の盾となるが役目じゃ。毛筋一つの傷を負わせてもならぬぞ」
「まかしときゃんせ。権六が武辺を信じよ」
「うむむ、まあ近頃じゃ槍を合わせてもお前にゃ敵わんがのう」
「敵の首を取るよりも殿のご無事がお前の手柄じゃ」
「わかっとるわい。それよりも親父。このいくさ、なんかきな臭いでや」
「どういうことじゃ?」
「六年前のいくさと同じようになっとるがなん。一度負けた今川がまた同じ手でやられるとはどうしても思えんのだがや」
「……お前の申し条、もっともだでや。しからばいかがする?」
「先手の横腹を敵の伏勢が突くと勘考するに、その伏勢を叩く。そんで後ろ備えが踏みとどまるうちに坂の上に戻る。あとはゆるゆると退く。敵が追ってくれば今度はこっちが伏勢で叩く番じゃ。こっちに向かう途中にいくつかよさげな藪やら林があったでな」
「……いつからそのような兵法を心得たのでや。ひたすら槍を振り回すしか能がなかったお前がなあ」
「儂にもようわからんが、こうしたらよいと頭の中に出てくるのでや」
「左様か。まあ、細かいことは良い。たとえ勝てずとも負けはせぬように戦うのじゃ」
眼下では坂を下りきった三郎五郎さまの手勢が岡崎衆とぶつかろうとしていた。岡崎衆からは防ぎ矢が放たれ、盾を構えた荒し子が喊声を上げ、地を踏み鳴らして掻い潜る。
盾の隙間をすり抜けた矢に貫かれ、うめき声をたてる暇もなく絶命する雑兵。距離が狭まり、弓衆は下がって長槍を持った兵が穂先を天に向け構える。
「叩けええええい!」
組頭の号令に従い槍の穂先を前に向けて落とすように倒す。
三間の高さより落ちてくる穂先はその重量と相まって盾を割り兜を叩いて兵たちをなぎ倒す。
足を止めた織田の先陣中備えより一斉に矢が放たれた。風切り音と共に降り注いだ数百の矢は岡崎衆の中に降り注ぐ。
援護を得た先手衆が敵の槍衾を食い破り、先手同士が得物を振るっての白兵戦に移った。
「やあやあ、わが名は本多平八郎なり! よき首はおらぬか! 出会え! 出会え!」
大身の槍を掲げ名乗りを上げる武者に、数人の侍がかかるがたちまちのうちに突き伏せられる。
その姿に怯んだ刹那、岡崎衆の中備えが殺到し、先手が押し返され始めた。
「むむ、旗色がよくないだわ。盛次、行け!」
「はっ、儂に続け。かかれえええええい!」
混乱する戦線を避けて先手右翼より迂回して攻撃を仕掛ける。その手際は見事なものであった。
先駆け大将の本多平八郎も手傷を負って退き、大久保衆が戦線を支える。
戦線はじりじりと押し込んでいて有利なまま推移していった。徐々に前進し、中備えが坂を下りきった。
松平勢は算を乱して後退する。先手が追撃にかかり、突進を始めた。
直後、鏑矢の音が戦場に響き渡る。
「いまでや! すわ、かかれい!」
右手の方からざあっと驟雨を叩きつけるかの勢いで矢が降り注ぎ、喊声を上げて足軽の群れが切り込んでくる。
降り注いだ矢に馬上の物頭が数名倒され、虚を突かれたままに陣が混乱する。
「いかん! 伏勢か!」
あらかじめ殿は伏勢があり得ることを周囲の旗本に伝えていた。それがあって動揺は抑えられた。
殿の周囲を小姓たちが固める。同時に旗本たちは矢の放たれた方に陣を組みなおす。
だが儂は違和感あって、周囲を見渡すと……鬨を上げず、無言で斬り込んでくる一塊の武者の姿があった。
思わずそちらに向かって槍を掲げ大音声で名乗りを上げる。
「わが名は柴田権六でや! 推参なり! 名乗りを上げぬか!」
無言で迫る武者どもは儂の名乗りを聞いても名乗り返すことはない。
おそらくだがこやつらは殿の命を狙って迫っているのであろう。ただひたすらに本陣目掛け駆けこんで行く。
「ぬうん!」
槍の石突を握って片手で振るう。穂先に斬り裂かれひとりが断末魔を上げて倒れた。
騒ぎに気づいた旗本が数人こちらに加勢せんと向かってくる。その状況からおそらく殿に迫ることはできぬと判断した武者はそのまま踵を返して藪の中に逃げ込んだ。
「共に行こうぞ!」
儂は合流した旗本の先頭に立って陣をぐるっと回り敵の伏勢の横に回ると、槍先を向けて突き込んだ。
「推参なり、柴田権六じゃああああ! 掛かれ! すわ、かかれええええええええええい!!」
腹の底に力を入れ大音声で名乗りを上げる。
儂と十騎の旗本は当たるを幸い敵をなぎ倒した。
「ぐぬ、こわっぱめが、生意気な。儂が討ち取ってくれようぐがっ!」
槍先をしごきつつ出てきた大兜の武者を一息に喉首をついて倒す。
「があああああああああああああああああああああああああ!!!」
車輪のように槍を振り回し、荒れ狂うさまを見た敵兵は、「鬼じゃ、鬼が出たぞ!」と座り小便を漏らす者もいた。
「柴田権六じゃ! 出会え! であえい!」
儂の前に立った武者はすべからく三途の川を渡してやった。
「権六、見事なり!」
殿の声が聞こえるまで、儂は無我夢中で荒れ狂っていた。具足は返り血に濡れ、朱に染まったありさまは、まさに地獄の赤鬼のようであったと義兄上に後日言われた時は我ながらあきれるほどの狂いっぷりであったものだと他人事のように思った。
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