三河へ
古渡の城は弾正忠信秀様の居城である。
嫡男の三郎様は那古野の城におられ、此度は留守居となった。
「出陣!」
孫三郎信光様が号令をかける。諸将も唱和して鬨を上げる。
孫三郎が出立し、順次軍列を組んで進軍が始まった。
その日の晩、親父殿とかまどを組んで火を起こしているとき、通りがかった弾正忠様に声をかけられた。
「修理よ、此度の参陣大儀にてあらあず」
「ははっ! お殿様の陣触れとあらば、何を差し置いても駆けつけまする」
親父は膝をつき、弾正忠様と親しげに言葉を交わす。
「おう、そこにおるは修理のせがれかや?」
「はっ、権六と申します」
じっと儂の目をのぞき込み、がはっと笑いを漏らす。
「がはははは、こやつは大気者じゃ! 儂が目を一切外さず見返して居るわ。胆の太きがんさいにてあらあず!」
がんさいとは悪ガキくらいの意味であろう。
「はっ、此度を初陣として連れて参ってござる。いくさに出ればこやつもいろいろと学ぶこともあろうと思いましてのう」
「くはははは、儂よりも年上に見ゆるぞ。この落ち着き払った様を見よ。幾度も死線をくぐった古強者の居住まいではないか」
たしかに、いくさに赴くとあればなにがしかの違いが出るものだ。さらに初陣となれば命のやり取りにの恐怖におびえ、それを振り払うために陽気にふるまったりなどするものだと聞く。
しかしいくさに行くと聞いて、はじめは浮ついた心持であったが、いつからか心は凪いだ様に静まり、普段と変わらぬ心持でいることができた。
「修理よ、こやつを儂がそばにくれい」
「ははっ、お殿様のお望みどおりにいたしましょうぞ」
「うぇ!?」
いきなり自分の頭を飛び越えて殿さまの傍につくことになり、さすがに動揺した。
「権六、くれぐれも無礼の段、在ってはならぬだぎゃ。命に代えてお殿様をお守りせよ。よいな?」
「かしこまってござる」
こうして儂は殿の傍に控えて馬を進めることとなった。
「うむうむ、良き面構えだぎゃ。其方がごとき良き武者を見つけられたは良き縁と申すものじゃ」
殿は鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌であった。
「死のうは一定、しのび草にはなにをしよぞ、一定かたりをこすよの~」
本当に歌いだした。唖然としつつもその響きには聞き覚えがあって、どこか懐かしさを感じる。
「吉法師がよく歌っておるのじゃ。っと、元服して三郎信長であったな。こんなことでは儂がうつけと言われてしまうわ」
「……吉法師様にござるか」
「うむ。あやつはのう、変わり者だで」
「な、なるほど」
「先日の評定でも留守居を命じられたらおとなしくうなずいておったが、不満のいろがありありであったわ。大将たるもの顔色を簡単に読ませてはならんのだがのう」
「……若君に置かれましては世情にはあまり良きお話を聞きませぬが」
しまったと思ったがもう遅い。無礼打ちにでもされるかと思ったが、殿は苦笑いを浮かべておられた。
「権六、そのほうはうわさを聞いたものと実際に目にしたもの、どちらを信じるかや?」
「……なるほど。左様にございますな。ご無礼の段、伏してお詫び申し上げまする」
「よい。あ奴が自業自得というものでもあらあず」
こうして数日の進軍ののち、三河の最前線である安祥の城へとたどり着いた。
「父上、ご無事の着陣、祝着至極にございまするに」
「おう、三郎五郎。出迎え大儀」
城の周辺で兵たちは野営する。武将格の者は城内の陣屋で休息をとることとなった。
「権六。お殿様にご無礼はなかったであろうな?」
「いや、実は……」
三郎様についてのやり取りを話すと殴られた。
「お家断絶になったらどうするのじゃ!」
「いや、すまぬでや」
「しかし、相当殿様に気に入られたようじゃな。そこまで無礼なことを抜かしてそれでも首がつながっておる」
「ああ、うむ。ようわからんがそのようにあらあず」
親子そろって首をかしげているところに使い番がやってきた。
「柴田権六殿?」
「はっ、左様にござる」
「殿がお呼びです」
「かしこまってございまする。直ちに参りまするに」
「はっ、こちらです」
使い番に従って城内に入る。大手門をくぐると周囲には酒を片手に談笑している将兵の姿があった。
「此度は四千もの大軍ですからな。松平など一ひねりにしてやりましょうぞ」
天文十一年の戦いで今川軍を破ったときのことを言っているのだろう。敵に飲まれるよりはよいが、それでもこの弛緩した様が気になった。
「柴田権六、お召しに従い参りましてございまする!」
「うむ、大儀」
本丸の居館に通された。殿は上座に胡坐をかき、右隣に三郎五郎さまが控えている。
「権六よ、その方この陣をなんと見る?」
「……直言してもよろしゅうございますか?」
「許す」
「……いささか油断が過ぎるかと。刈谷の城も偽降であったならば我らは袋のネズミにございまするに」
「く、くくく。ぶわはははははははははははははは!!」
必死で絞り出した言葉に殿は大笑いで応えた。
「某の言に何かおかしなところがおありでしたかなも?」
「いや、儂と同じことを考えておるものが居ったと思うてな。三郎五郎、これぞ侍の嗜みと心得よ」
「はっ、面目次第もございませぬ」
「水野には見張りをつけておる。今のところおかしな動きはないがのう。今川の後ろ巻きが来ぬと誰が決めたのじゃ?」
「なれど、河東で北条と睨みあっていると……」
「駿河のさらに東の情勢がこちらに知れるまでにどれだけ時がかかると思うておる? 今頃和睦が成立し、治部がこちらに軍を返しておるやもしれぬではないか」
「は、ははっ」
「それでなくとも、今川の兵は多い。1万とは言わぬがその半分でもこちらに向けば数の優位は失われるのじゃ」
三郎五郎さまへの説教を見かね、思わず口を挟んでいた。
「岡崎の城を囲むことができずとなった場合はいかがいたしましょうか?」
「ふむ、結局は小豆坂の上に陣取ることになるであらあず」
「なれば、松平も、ひいては今川の大将もそのように思うでしょうな」
「逆落としに一気呵成に攻めればよい。前もそうやって勝った。……と敵も思うであろうが……権六、その方ならいかがする?」
「坂の一番下に兵を伏せ、坂の下にて待ち構える陣を敷きまする。相手が正面の兵に取り掛からばひと当てして下がらせまする。次第に息も切れてまいり、足が止まったころ合いで側面を突き、退いた兵をそこに突っ込ませれば…‥いかがでしょうや?」
三郎五郎さまは顔色が真っ白だった。
「くく、それをなすには相当の精兵でなくばできまいがのう、その方ならばできるかも知れんな」
「いえ、初陣の若輩者が出過ぎなことを申しました」
「よい、儂が申し付けたことじゃ。よき話を聞いた。褒美に湯漬けを食っていけ」
「ありがたきことにて」
「ふむ、権六よ、そなた嫁は決まっておるのか?」
唐突に問われた言葉に思わずむせてしまう。
「なれば楽しみにしておるがよい。儂が良き嫁を探してやろう程に」
「は、ははっ、ありがたき幸せにございまするに」
湯漬けの椀を脇に置いて頭を下げる。
本来主君が嫁を探してくれることは栄誉であるが、なぜか胸にちくりと痛みが走った。
脳裏にぼんやりとした女性の笑顔が浮かぶ。誰ともわからないがまだ見ぬ妻に思いをはせてしまう。
「くく、そういうところは年相応じゃの。これはうかつなことはできぬな。わははははははははは!」
殿は呵々大笑する。虎と呼ばれる獰猛な異名に似合わず、そのまなざしは子弟を見る様な暖かい優しさを感じ取れるものだった。
殿の前を辞しそのまま柴田衆の陣屋に戻り、板の間にその身を横たえる。頭をよぎるのは本来は油断しきった味方衆のありさまなのだろうが、ぼんやりとした靄の向こうに見える妻の笑顔が気になってまんじりともできぬまま夜明けを迎えることとなった。
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