番外編1 優しさの重ね合わせ(カガリ視点)

 これはかおるの祖母である万智子まちこが、まだ達者たっしゃだったころのこと。




 今日も猫又の世界は平和である。カガリは大通りをのんびりと歩く。たくさんの猫又とすれ違うが、皆にこにこと穏やかだ。


 ここにいる猫又は皆人間さまの手で殺められ、猫神さまに猫又にしてもらった猫ばかりだ。悲壮な過去を抱えているのに、皆そんなことを感じさせない。


 それはカガリも例に漏れない。


 カガリは生前人間さまの飼い猫だった。飼い主である一家の父親が感情の起伏が激しい人で、何がきっかけだかは忘れてしまったが、怒りで怒鳴り散らす父親にカガリは近くの小さな川に投げ捨てられてしまったのだ。


 雨上がりで流れも早い濁流だくりゅうだった。カガリは川から逃れようともがくが、激しい暴力に押さえ付けられ、やがて力尽きた。


 大声を上げる父親が怖くてカガリは怯えて鳴いた。多分それが父親の逆鱗げきりんに触れたのだ。父親は「うるさい!」と声を荒げながらカガリをつかんだので、間違い無いだろう。


 理不尽な話である。しかしそのころは父親が絶対の時代だった。小さな娘さんの「お父さん止めて〜!」という声が父親の背中を追い掛けたが、父親は聞く耳を持たない。


 母親はどうしていただろうか。カガリからは見えなかったが、父親の怒号を浴びながら怖がって震える娘さんを抱き締めていたから、そのままだったのでは無いだろうか。父親を止めようとする娘さんを抑えていたかも知れない。この時代父親に逆らうことはご法度だったのである。


 そしてカガリは気付いたら猫神さまのお屋敷にいた。そして猫又のことを聞いたのだ。全ての猫が猫又になるわけでは無い中、なぜカガリがそうなったのか聞いたら、猫神さまは優雅に微笑むだけだった。のちに次代の猫神の話を聞いてその謎がようやく溶けたのだが。


 だがそれはカガリだけの理由だと言える。他の猫に関してはカガリもまだ聞かされていない。いずれカガリが猫神になる時には教えられるだろう。


 カガリは今日も人間さまの世界に向かう。猫又が人間さまの世界に行くには猫神さまのお屋敷の横にある小さなほこらくぐるのだ。そこで2本の尻尾が1本になり、言葉が喋れなくなる。


 この祠は数カ所あって、気軽に使うことができる様になっている。ちなみにこの数年後に薫とじゅんがこの世界に連れてこられるわけだが、その時にカガリが使ったのはこのうちのひとつである。


 そしてカガリは人間の世界に足を踏み入れる。緑の多い郊外だ。木々が生い茂る林の中である。こうして人目の無いところに出て来るのだ。


 上を見上げてみたら、常緑樹の緑の葉の隙間から見える空は綺麗な青だった。良い天気である。ここで雨なら引き返すところだ。カガリだって濡れるのは嫌なのだ。


 カガリは駆け出す。少しでも早く会いたい人がいるのだ。最近行く様になったところである。とっとことっとこ、4本の足をしなやかに動かして走って行く。やがていくつかの建物が見え始める。


 カガリの目的はそのうちの一軒である。こじんまりとした庭があり、建物の中とは木造りの縁側で繋がっている。中は畳敷きの部屋になっていて、カガリがいつもの様に軽やかに縁側に上がると、部屋には初めてみる男の子がふたりいた。


 誰だろうか。カガリはちょこんと首をかしげる。するとひとりがカガリに気付き、「あ」と嬉しそうな声を上げた。


「黒猫や。祖母ちゃんが言うてた通りや。祖母ちゃーん、猫来たでー」


 男の子が大きな声で誰かを呼ぶ。すると奥から姿を現したのはカガリお目当の人物、万智子お婆ちゃまだった。


「まぁまぁ、今日も来てくれたんやねぇ。嬉しいねぇ」


 万智子お婆ちゃまはカガリを見てほっこりと微笑む。いそいそとカガリのそばに来ると腰を降ろして正座をし、カガリの喉元をごろごろとくすぐった。カガリは気持ちが良くなって「にゃあ」と小さな声を上げる。


「ふふ。可愛らしいわねぇ。今日はねぇ、娘と孫が来てくれてるんよ。娘はまだ台所仕事をしてくれてるんやけども、このふたりが孫やねん。薫ちゃん、優ちゃん、ほら、猫ちゃんに挨拶しぃ」


 万智子お婆ちゃまが言うと、ふたりの男の子は四つん這いで近付いて来る。そして年上だと思われる方がそろそろとカガリに手を伸ばした。


「野良猫やんなぁ。可愛いな。んだりせぇへんよな?」


「私は噛まれたこと無いなぁ。大丈夫やで。おとなしい子や」


 すると男の子はそのままカガリの背中をそっと撫でた。カガリは抵抗するつもりも、もちろん噛むつもりも無い。この万智子お婆ちゃまのお孫さんなんだから、悪い人のはずが無いと信じている。


 カガリが気持ち良さげにうつ伏せになると、男の子はほっとした様に口元を綻ばせた。


「ほんまに可愛いな」


「兄ちゃんずっこい。俺も〜」


 もうひとりの男の子もカガリに手を伸ばす。兄ちゃんと呼ばれた男の子が手を引っ込め、弟くんがカガリの背中を撫でた。


「うわぁ、ほんまにおとなしいんやな。可愛いなぁ〜」


 弟くんはそう言って表情を綻ばせた。その時万智子お婆ちゃまが「よっこいしょ」と立ち上がる。


「猫ちゃんご飯食べる? 今持って来るからねぇ。孫と遊んでやってねぇ」


 万智子お婆ちゃまはそう言って奥に消えて行った。それと入れ違う様にひとりの女性が部屋に入って来る。カガリを見て「ああ」と口角を上げた。


「この子がお母さんが言うてた黒猫か。えらいおとなしゅう撫でられて。ええ子なんやなぁ」


 この女性が万智子お婆ちゃまの娘さんなのだろう。面影が万智子お婆ちゃまと良く似ていた。だが話し方がしゃきしゃきしていて利発そうだ。


 娘さんもカガリのそばに来るとしゃがんで、カガリの首元をくすぐった。


「あ〜可愛いなぁ。なんやうちでも猫飼いたなるわぁ」


「でも動物飼うって難しいやろ」


 弟くんが言うと、お兄ちゃんも「そやなぁ」と同意する。


「可愛いだけやあかんからな。飼うんやったら最後まで責任持たなあかん」


「そやな。この子も野良やてお母さん言うてたし。飼おうとは思ってないみたいやわ。責任云々もやけど、この子、ご飯食べたらもう用無しや言う感じで行ってまうらしいしな」


 カガリは決して万智子お婆ちゃまの飼い猫になりたくない訳では無い。カガリはいつもにこにこと穏やかで優しい万智子お婆ちゃまが大好きだ。ただカガリは猫又たちの世界も大好きなのだ。


 飼い猫になってしまえば猫又の世界に戻る時間が少なくなってしまう。できればそれは避けたかった。


「はいはい、猫ちゃんお待たせね〜」


 万智子お婆ちゃまがペット用の器を手に戻って来た。それをカガリの前にことりと置いてくれる。かりかりの上に鮭のほぐし身が散っていた。これはごちそうである。


 万智子お婆ちゃまが用意してくれるご飯は、いつもかりかりの上にかつお節やしらす、鶏のささみをほぐしたものなどが乗っていた。


 人間の世界のご飯なので味付けはされていない。猫には塩分はご法度なのだ。


 それは猫又のカガリにとっては少し味が足りない様に感じる。だがかりかりだけでも充分なのに、ほぼ必ず何かを乗せてくれる万智子お婆ちゃまの厚意はとても嬉しかった。


 カガリは「にゃあ」と鳴くと身体を起こし、器に顔を突っ込んだ。かりかりかりと音を立ててご飯をいただく。鮭はきちんと臭み取りがされていて、ふっくらと焼き上げられていた。


「祖母ちゃんが鮭買うとったんは猫にやるためやったんか。一切れだけ買うから何かな思っとったけど」


 お兄ちゃんが言うと、万智子お婆ちゃまは「そうよぉ」と微笑む。


 鮭は生で買うとそれなりの処理がいる。かつお節やじゃこなら買ったまま使えるし、ささみは茹でるだけで良い。だが魚はものによっては皮を外したり骨を取ったりしなければならない。


 カガリ自身は料理ができないので、猫又の世界でお食事処を営んでいる猫又に聞いた話だ。


 万智子お婆ちゃまはカガリのためにそういう手間を掛けてくれたのだ。それは本当に、とてもとても嬉しいことだった。


 こうして人間さまの優しさに触れることは、カガリたち猫又にとってとても良いことなのだ。


 カガリは人間さまを恨んでいない。人間さまにもいろいろいる。カガリを殺めたあの父親は確かに怖い人だった。だが全ての人間さまがそうでは無い。現に母親と娘さんはいつも和やかにカガリと遊んでくれていた。食事はいつも質素だったが、そんなのは瑣末なことだった。


「美味しいかしら? 猫ちゃん、たんとお食べねぇ」


 万智子お婆ちゃまはそう言って、ご飯をもりもり食べるカガリの頭をそっと撫でた。


 やがてご飯を食べ終えたカガリは顔を上げて「にゃあ」と鳴く。お腹もいっぱいになりすっかりと満足だ。


「食うたか。旨かったか?」


 お兄ちゃんが嬉しそうに言ってカガリを撫でてくれる。弟くんも「良かったね〜」と手を伸ばして来た。


「あはは、嬉しそうやなぁ」


 娘さんも楽しそうに微笑んだ。その横で万智子お婆ちゃまもにこにこにしている。


 ああ、本当に幸せだ。万智子お婆ちゃまに出会えて本当に良かった。


 いつか、いつか万智子お婆ちゃまを猫又の世界に連れて行きたい。カガリたちの世界を見て欲しい。


 だがカガリには勇気が出せなかった。怖がられたらどうしよう、嫌われてしまったらどうしよう、そんな自分勝手なことばかりを考えてしまうのだ。


 でもいつか。きっといつか。カガリが奮い立つことができたら。


 カガリは万智子お婆ちゃまをじっと見つめる。万智子お婆ちゃまは「ふふ」と小さく微笑んだ。


 カガリは「にゃ」と短く鳴くと立ち上がる。そしてひらりと庭に降りた。


「もう行くんか」


「またね〜」


 お兄ちゃんと弟さんが笑顔で手を振ってくれる。娘さんも「ほんまに食べたらとっとと行ってまうんやなぁ」と笑いながらひらひらと手を振った。万智子お婆ちゃまも「ふふ。またおいでねぇ」と微笑んで手をゆったりと振った。


 カガリは「にゃあ」と鳴いて万智子お婆ちゃまの家を後にした。


 万智子お婆ちゃまは今日もお元気だった。良かった。娘さんもお兄ちゃんも弟さんも良い人たちだった。良かった。良かった。


 カガリは、これが人間さまならスキップでもしそうな、鼻歌でも出そうな陽気さで歩く。嬉しい。良かった。良かった。


 また明日も来ようかな。雨は大丈夫かな。お天気になると良いな。


 カガリは浮かれた足元のまま、猫又の世界に帰って行った。




 そして数年後、万智子お婆ちゃまの逝去せいきょに、カガリは泣き崩れるのだった。

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