第8話 童心に還る
寝正月を思う存分過ごして仕事が再開すると、見計らったかのように冬の空は大粒の雪を降らした。天気を操る神様は、きっと嫌いな奴がいたらそいつが一番幸せなタイミングで陥れてやろうともくろむタイプなのだろう。
長靴を履かないとまともに外も歩けないほど積もった雪は、道路を小学生が走って通るたびに家の屋根から崩れ落ちて低温を響かせる。またどこかの家の屋根から雪がずり落ちた。そんな遠くの見えない景色を想像しながら、私は澄玲の首にマフラーを巻き終えた。
「だ、大丈夫カナ」
まだ外にも出ていないというのに、澄玲は身体をガチガチに固めていた。
今日は共通テスト当日。夏からずっと勉強に日々を費やしてきた成果を出す日である。つまり、その費やした時間が無駄かどうかが、今日決まる。
結果よりも過程なんて戯れ言は、ここまでくるともう通用しない。澄玲もそれは分かっているのだろう。珍しく緊張している様子だった。
「お笑いのオーディションにいったときを思い出せ。合格するはずもないのに意気揚々と飛び出していったじゃんか」
「あれは、澄玲にはお笑いの才能があるから自信を持っていけたけど、勉強の才能があるかどうかはわからないもん」
お笑いの才能もないと思う。……言おうとしたら澄玲が目をキッと光らせたので、唇の裏に仕舞い込んだ。
「そんなこといってもやるしかないし、行くしかないだろ」
「確かに、タラバガニ」
「一応、やることはやったんだし、あとは自分を信じるしかない」
「そうかもしれないけど、頸動脈」
「さっきから変なのがくっついてきて鬱陶しいな。それはお笑いじゃなくてただの親父ギャグだからな」
「今のうちに滑っておこうとおもって」
滑っている自覚はあるらしいが、残念ながら親父ギャグとは滑る滑らない以前に、その場から動いていないのだ。
「ほら、もう出る時間だから。受験票持ったか? 筆箱は? 」
「持ったってー、まつりさっきも聞いてきた」
「雪すごいけど、身体冷やすなよ。やっぱタイツ穿いたほうがいいんじゃないか?」
「ううん、いらない。制服には素足。これが女子高生の生き様だよ」
高校生としての自覚があってなによりだ。
私は高校時代、今、自分が生きているこの一瞬一瞬がもう二度と手には入らないかけがえのないものだとは気付かずに惰眠を貪って過ごた。青春というものを生ゴミに投げ捨てたような私より百倍立派ではある。
「あ、そ。でも素足に長靴はダサいぞ」
「十年後にはオシャレとされる。流行とはそういうもの」
どうも澄玲の口もそこそこ動くようになってきたようだ。
クラゲの触覚みたいになっている横の髪をマフラーの中に仕舞ってやると、澄玲はくすぐったそうに目を細めた。
「まつり、ちゅーして」
「はあ?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。煩悩は朝晩を問わないどころか、緊張すらも飛び越える。
「おまじないちょーだい」
つま先を立てて、唇を雛鳥みたいに突き出してくる澄玲。
「いいからはよいけ」
「やーん!」
肩を掴んで反転させてから、外に放り投げた。
澄玲は階段をドタドタ降りながら、口をラッパみたいな形にして、なにやら私に抗議している様子だった。
「合格したらな」
外の冷気が顔に当たって痛い。さっさと部屋に戻りたいので、軽率な約束をぽいっと放り投げる。澄玲は目をパッと輝かせると、大股で雪をかきわけながら駅へと向かっていった。
「しまった……」
言った手前、私からしなければいけないのは当然だろう。ええ、嫌だな。ええ……。
嫌悪感というものからは何億光年も離れた遠い遠い惑星に行き着くと、羞恥という物質が検出される。その瞬間、熱で溶けた雪が、アパートの屋根からズドドと落ちてきたのだった。
「茉莉……あとは頼んだ……」
最後の肥料を運び終えた白雲さんは、遺言を私に残すと肥料の上に倒れこんだ。
「あの、邪魔なんですけど」
「あたしの腰はもう終わりだ」
「支柱持ってきましょうか?」
「おいこら人をアサガオ扱いしてんじゃねえぞ!」
「白雲さん休憩入りまーす」
わっと立ち上がった白雲さんをそのまま休憩所に繋がる階段へと連れて行く。
「いいじゃないですかアサガオ。花言葉は『愛情』ですよ。もっと後輩に愛情を注いでください。頼れる先輩」
「おっ、そうか? まあ、あたしって結構愛情深いしな。花言葉ってやつは案外わかってんじゃねーか。ハッ! いいぜ! アサガオ休憩入りまぁす!」
すっかりアサガオ気分になった白雲さん。ちょろいとは別次元の、なんていうか……真っ直ぐしか進めない牛……いや、言わないでおこう。こんなところで闘牛士にはなりたくない。
とりあえず今日は、白雲さんが休憩を終えたら私が代わって休憩に入ることになるだろう。それまでは店番だ。
水の入ったバケツをよっこいせと持ち上げて、時々レジの方を見ながら運んでいく。
三十分くらいすると、昼時ということもあって店から客がいなくなった。
資材の搬入もまだ来ないので、休憩まで手が空いてしまった。
手が空いたときに、すかさず周りの掃除とか、何かできればいいのだけど、私はそこまで仕事熱心な人間じゃないし、もしやるとしても今日はできそうにない。
時計を見ると、十二時を回っている。今頃、午後のテストが始まっている頃だろう。
澄玲は、大丈夫だろうか。本番には強いはずだからそこまで心配することはないのかもしれないが。刻々と進んでいく時計の秒針を見ていると、つま先が上がったり下がったりを繰り返してしまう。
外の天気が崩れないよう睨みを利かせながら外を見ている途中で、会場は室内だということを思い出して肩を竦める。仕事が終わったら会場へ向かいに行こう。
せめて吹雪かないようにと静かに落ちてくる雪を眺めていたら、小学生くらいの女の子が店の扉にへばりついてなにやら店の中の様子を窺っていた。
間抜けというかなんというか、雰囲気が澄玲にそっくりだった。
「なんの用?」
私が扉を開けると、その子は後ろに尻餅をついた。すくっと立ち上がると、鼻先に雪を乗せたまま目を輝かせ、入り口近くに置いてあったシクラメンを指さした。
「すっごくきれいなお花。おくらかしら」
「四号のものが千三百円になります」
「まあ、わたくしさんびゃくえんしかありませんわ。飴ならたくさんありますけど」
その子がポケットに手を突っ込むと、カラフルな飴がドバドバと出てきた。
「そうですか」
「なので、ください」
新手の恐喝だろうか。
いきなり商品をただでよこせと言うこの子供は、その図々しい要求を微塵の躊躇もなく言ってのけた。
私はため息を隠すことができなかった。そもそも、子供の相手は昔から苦手で、いまだに敬語で話すべきか、それともタメ口で話すべきか分からない。
「お母さんに言って買ってもらいな」
「おかあさまには内緒なのです」
誕生日か、もしくは記念日か。
本来ならここで話を深掘りして、お客さんの事情を聞くのが店員としての仕事であり大人としてのマナーである。しかし、私は時計ばかりが気になってしまい、どうせ子供相手ということもあって「あ、そう」と突き放すような相槌を打ってしまった。
数年前までの私が、冷たい風に乗って再び蘇ったみたいだった。
「なら、うちでは売れないね。お金を払って物を買う。それはこの社会では当たり前のことだ」
どうせ売れないのだから、せめてこの世界のルールを教えてこの子の未来に役立ててもらう他ない。
「でも、とてもきれいなお花です」
しかし、女の子は引き下がらなかった。
「どうしてもほしいです。ゆずってもらえませんか」
「あのな……」
相手の顔色を窺って、後に退く。その、人間として当然のルールがこの会話には存在しない。ただ、自分の欲望と願いだけが目が焦げるほどの真っ直ぐなまばゆさだけで構成されている。
「ダメですか?」
この小さな客は、私が渋っているのを不思議そうに見つめていた。
その濁りのない瞳も、そう、澄玲に似ている。そして、その瞳の輝きは、私も昔まで、持っていた気がする。
いや、みんな持っていた。
幼稚園で積み木を並べる時間、小学校の休み時間、中学校の部活の時間。みんなこの目をして、社会人が作り上げた整然としたルールの外で走っていた。
しかし、高校にあがったあたりでそれらは陰っていき、気付けば周りは、大人の顔つきになっていた。
自分の欲を、恥じずに言う。それは、歳を取るたびに難しくなった。
「袋は持ってる?」
「ううん、きゅうしょくぶくろが学校にあるけど、もってきわすれちゃったのです」
「聞いてねー」
会話のターン制を理解していないのだろう。
けれど、実のところ私も、ターン制のない会話の方が好きだ。そういう空気を、心地良いと思ってしまう。
私は一番大きな紙袋にビニールをかけて、そこにシクラメンの鉢を入れた。
「重いから、途中で落とすなよ」
「わあ、くださるのですか?」
「そんなわけないだろ。物をただでもらえると思うな」
「しかし、そのせんさんびゃくまんえんをわたしは持っていませんわ」
勝手に桁が増えていた。
「じゃあ、これを貰う」
私は床に落ちていたあめ玉を拾った。
「って、これのど飴か……。あれないの、しゅわしゅわするタイプの飴」
「ぱちぱち飴ならたくさんありますわ!」
女の子はなぜか誇らしげに胸を張り、そして手のひらいっぱいの飴を私に差し出してきた。
「よし、ならこれで交渉成立だ。これ、レシートな」
レジから出したレシートに、うちの店の判子を押して女の子に渡す。
「ありとうございます! 優しいおねえさま! このご恩は一生わすれませんわ!」
「へいどーも、まいどあり」
女の子は紙袋を抱えると、店を飛び出して雪の中をぴょんぴょんと駆け回った。
「わーい! やったー! あははっ! わあ!」
途中でその子が振り返って、こちらに手を振ってくる。
当然、道の真ん中でそんな風に喜べば周りの視線はその子に集まる。
鋭く、強固な、好奇に満ちたその目は、その者が社会に溶け込んだ者であるかどうか、その性質が正常であるかどうかを、査定するようにその子を串刺しにする。
痛いほどの、注目。雪を溶かしてしまうほどの羞恥心。
しかし、そんなもの、その子は知らないのだろう。
小さく手を振り返すと、「わーい! わーい!」とはしゃぎながらその子は走り去った。
私は一度休憩室に戻り、自分のロッカーから財布を取り出す。千円札を取り出して小銭を漁る。……十円玉と一円玉しかなかった。
「あの、白雲さん。いま三百円ってあります?」
畳の上で寝転がっていた白雲さんに声をかける。
「あっけど、なんだよ」
「貸してくれませんか」
すると、白雲さんは何故か嬉しそうに笑うと一瞬で飛び上がって自分のロッカーを開けた。ジャラジャラとしたチェーンだらけの財布から三百円を取り出すと、白雲さんは高らかに声をあげた。
「三百円ってことは、分給で換算すっと、十五分ってことになる」
どういう計算なのかも知らないし、そもそも分給ってなんなんだ。疑問の嵐が到来している。
「つまり、あたしはあと十五分休みを延長するぜ! 茉莉、そいつはてめーにくれてやるが、休み時間はあたしのもんだ!」
「はいはい」
何が白雲さんのスイッチを押してしまったのか。静かだった休憩所が急にうるさくなった。奥の方で眠っていた高橋さんがモゾモゾと動きこちらを睨んでいたので、私は三百円を受け取るとそそくさと店に戻った。
本当、子供みたいな人だ。あの人も。
三十歳までミュージシャンという夢を追い掛けて、それでも夢は叶わなくて、今は別の目標に向かって走っている。それは、すごいことだ。月並みな言葉になってしまうけれど。
だって、夢を追い掛けるというのは簡単なことじゃない。必ずどこかで苦しい時間はあるし、心の均衡だって、きっと目指すものの遠さと、自分の無力さを痛感した瞬間崩れてしまう。
ちょっと張り切っただけで私は声の出し方すら忘れてしまった。だから、夢を追い掛け続けた白雲さんのことを、私は尊敬している。
そんな人が、どうしてあんなに子供じみているのか。
いや、子供じみているから、そこまで走り抜けることができたのか。
そんな疑問を載せて、私はレジにお金を投げ込んだ。
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