第6話 でかい犬
これまでの人生で何かを強く決断することが一度もなかったせいか、目標に向かって進むその勇み足にとてつもない重圧と疲労を感じる。
小学生の頃に総理大臣になると夢を語ったか、一万円欲しいと現実を見たかの違いでしかないのだろうけど、大人になっても感性というものはなかなか変わらない。
私は私にできることの限界は知っているし、大げさな夢を見る虚しさも理解している。人はそれを要約して身の程を知ると呼ぶ。
「それじゃあ、お願いします」
エアコンの効いた、少し肌寒い塾から蒸し暑い外に出る。
夏休みが終わる前に受け付けを終わらせておこうと家から赴いたわけだが、秋になるのを待ってもよかったかもしれない。
いや、どうだろう。最近になって、秋というものが随分と希薄になった気がする。夏の余韻を引きずることなく冬へ直行するその姿勢は、まるで自分なんかこの四季には必要ないんだと言っているかのようで少し悲しくなるのは私だけだろうか。
綺麗事が一瞬だけ思い浮かんだけど、反吐が出そうなのでやめた。
前までなら口にしていただろう。
「あぢー」
代わりに、なんてことのない言葉をやかましい蝉の合唱に混ぜてみる。曲にいっそう、深みが出た気がした。知らんけど。
アパートに戻ると、
大学受験が決まってから、澄玲の走らせるシャーペンの音が絶えない。この辺りの一番近くにある大学を第一希望にしたらしい。偏差値的には、どうなんだろう。
塾の先生には、頑張ってくださいとしか言われなかったのでそれが身の程にあっている大学なのかどうかは分からない。
「塾、来週の火曜日からだってさ。夏期講習逃したのは痛いけど、まあなんとかなるでしょ」
「んー」
黙々と勉強している澄玲は、俯いたときに落ちてくる髪を邪魔そうに耳にかけていた。
椅子の背もたれにぺろっとかかっている澄玲の髪をヘアゴムで束ねてやる。右耳の上にある癖っ毛が厄介で、ぴょこぴょこ反抗してきたのでそのまま放牧した。
澄玲の小さな手がシャーペンを握りしめて、ガリガリと文字を刻んでいく。
ついこの間まで公園を必死に走っていたのに、今度は机にしがみついて勉学に勤しまなきゃなんて、人生ってやることいっぱいなんだな。
「うーうー、疲れたよー。誰か代わりに勉強してよー」
「私が替わってやるよ」
「本当? ありがとう! じゃあすみれはまつりの代わりにおトイレ行ってくるね」
澄玲は私にシャーペンを渡すと、トイレに直行した。
広げられたノートに刻まれた文字は、澄玲にしてはものすごく達者で、綺麗な字をしていた。指から伝わる線というものは、性格や見た目とは連動していないことを証明するいい例だ。
トイレから戻ってきた澄玲は、私の手元をジッと見てから、ぐいぐいと身体を押しつけてきた。私を椅子から落とそうとしているのだ。
「やっぱ、自分でやんなきゃ意味ないね」
その言葉は、空気に浮かされるほど軽くはなく、床にごろっと落ちると私のつま先に当たった。
「ご飯の時間までがんばろっと」
自分でやらなきゃ、何も進まない。それは冷酷な真実でありながら、大切な気付きを与えてくれる。
病院で診断を受けてから、私は休みを貰うことなく仕事にはいつも通り行っている。あれほど出すことが難しかった声も、今は当たり前のように出せるようになった。
そして締め切りが迫っている、古田先生の個展に出す絵も、最初から書き直している。
本当は、これら全てから逃げるのも手だった。せっかく診断で病名をいただけたのだから、それを武器にしていろんな理不尽をかき消すことだってできた。
どうしてその道を選ばなかったのかは自分でもわからない。
赤ん坊のときからずっと、謎めいたままだ。
澄玲の向かいに腰掛けて、画用紙を広げる。食卓を囲うために家から持ってきた長机だが、いつのまにか二人分の夢を乗せている。
そんな毎日を延々と、機械的に、時々情熱的に、稚拙に、けれど真っ直ぐ送り続けて秋に別れを告げた。気付けば風は冬の凍てつくような寒さを連れてきていた。
毛玉の取り残しがあるカーディガンを羽織りながら、私は出来上がった絵の表面をなぞり乾燥していることを確認した。
後ろから覗き込んでいた澄玲が「おおっ」と声をあげる。
「できたの?」
「まあ」
やれることはやった。正直、苦しいだけの日々ではあったし、この絵が正真正銘、私にとっての渾身の出来だとは言えないけれど。
最低の出来の中では、最高の出来ではあると思う。公園の砂場から見つけた綺麗な石はダイヤモンドには到底敵わないが、掘り起こすために汚した手のひらは石けんで洗い流すことを惜しむくらいには価値あるものになる。
「十四日が締め切りだから、案外余裕を持って終わった気がする」
「まつり、がんばってたもんね」
頑張っていた、のかは分からない。汗水だって流していないし、倒れるまで描き続けたわけでもない。自分のできる範囲でやっていたことを頑張る言えるほど、私は自信という絶対的な武器をまだ持ち合わせてはいなかった。
「って、十四日?」
「なんだよ、今日が十二日だから、明日速達で出せば間に合うだろ」
澄玲がスマホのロック画面を見ながら、首を傾げた。
「今日十三日だよ?」
「え?」
澄玲がスマホの画面を見せてくる。
うん、確かに十三日だ。
「郵便局って何時までだっけ」
「えっとね、調べたら五時までって書いてあるよ」
「わっつたいむいず?」
「いっつはーふぱすとふぉー」
「おーまいが」
カーディガンの毛玉をこれから取ろうと考えていたのに、もっととんでもないものが絡まり、塊になってひっついてくる。
言葉を発することすら惜しく、私は画用紙を丸めて梱包材の入った筒に詰め込むと、慌ててアパートから飛び出した。
「ま、まつり!? どこ行くの!?」
「郵便局! 四時半ならまだ間に合う!」
「す、すみれも行く!」
私はアパートから離れた駐車場に走り、約一年ぶりに車のハンドルを握った。
「まつりが車乗るの初めて見た」
「人轢きそうで乗りたくないんだよ」
「めっちゃ怖いこと言ってるね」
リスクを減らすのは賢い選択だ。聡明と言ってほしい。
郵便局へは家から十五分ほどで着く。しかし、それは滞りなく進めればの話だ。
運の悪いことに、道路はひどく渋滞していた。どうやら近くで町内の催し物があるらしい。交通規制がかかっているせいで、車が一つの道路に集結しているのだ。
「ぜんぜん進まねー……」
「これ、間に合うの?」
すみれが助手席でそわそわし始める。
時刻は四時四十分。受付のことも考えるとあと十分で着きたいのだが、車は一向に進む気配がない。
「こりゃ無理かな」
古田先生に電話して、平謝りするときの文言をすでに考え始める私の脳は、諦めがいいんだか、切り替えが早いんだか。最悪の事態を常に考えるというのは、悪いことではない気がするのだが。
「すみれ、走って届ける!」
隣のこいつは、そうじゃないらしい。最悪の事態なんて考えず、最高の未来だけを見据えている。
「ええ……いいよ、どうせ間に合わないよ」
「間に合う、大丈夫!」
渋滞はどこまで続いているのか、目視では確認できない。澄玲はすでにシートベルトを外して、靴紐を結び直していた。
「それに、まつり、毎日頑張って描いてたもん。諦めちゃだめだよ」
はい貸して、と差し出してきた手のひらは、とても小さい。
「早く、ほんとに間に合わなくなっちゃう」
私は澄玲の顔とどこまでも続く長蛇の列を見比べて、画用紙の入った筒を澄玲の手のひらに乗せた。
「じゃあ……頼んだ」
「うん! なんか、バトンみたいだね」
不敵と表現してもいい笑顔を浮かべて、澄玲は止まった車の隙間を縫って道路に抜け出た。
澄玲は踵とトントンと地面で叩くと、すぐさま走りだそうとする。
「走る前に準備運動!」
「もー!」
窓を開けて言い放つと、澄玲は頬を膨らませながらもしっかりと身体を動かしてから、風に吹かれて飛んでいくタンポポの種みたいに走り出した。
それから渋滞は三十分後にようやく解消された。
郵便局へ着く頃には、五時二十分になっていた。当日受付はとっくに終わっている。
郵便局の入り口で澄玲が立っているのが見えたので、車を駐車場に停めて声をかけた。
すると澄玲は、誇らしげに笑って、空になった両手を見せびらかしてきた。
「間に合ったよ。明日には届けてくれるって」
「そっか。……よかった」
しかし、澄玲を下ろした場所からこの郵便局までは1キロくらいあったはずだ。あそこから走って十分程度で着くということは、かなりの速度で走ったことになる。
「体調は? 具合悪くない?」
「これくらい平気だよ? すみれ、これでもアンカーでしたから」
ない胸を必死に張って、鼻息を鳴らす澄玲。
それでも、前髪が額に張り付いているのを見ると、澄玲なりに、一生懸命走ってくれたんだろう。澄玲が描いた絵でもないのに。どうして私のためにそこまで。そんな、これまでの人生で何度も反芻した疑問が浮かび上がる。
そして、その疑問に対する答えを私はもう知っている。
「あ、ワンちゃんだ。かわいいー! 撫でていいですか!?」
郵便局の近くを通りかかった犬を見つけると、澄玲は疲れた様子も見せずぴゅーっと駆け寄っていく。犬を連れていた女性は柔和な笑みを浮かべて澄玲に犬を触らせた。
すみません、と会釈をしながら私も合流する。
犬種はゴールデンレトリバーだろうか、しゃがんだ澄玲と同じくらいの大きさだ。澄玲はそんな犬の頭をわしゃわしゃと撫でている。ボール遊びが得意らしく、飼い主の人が持っていたボールをころっと転がすと、その犬はボールを口に咥えて尻尾を振りながら戻って来た。
もう行くそうなので、澄玲が「ばいばい」と手を振ると、犬は澄玲には目もくれず道路の端にある雑草に夢中になっていた。
シカトされたと思ったのか、澄玲は少しだけ寂しげに目を細めた。
「って、まつり?」
「ん?」
「なんですみれの頭撫でてるの?」
「いや、なんとなく」
「すみれ、犬じゃないんだけども」
「そうねえ」
「んー?」
澄玲は撫でられると、撫でている手と、その手の主である私を不思議そうにジッと見つめてくる。わしゃわしゃと撫でる速度を激しくしていくと、澄玲は目を瞑り「わひゃー」と声を出した。
澄玲の髪は静電気を生み出しやすいらしく、撫でられたあとはぴょんぴょんと、草むらのバッタみたいに跳ねて回る。
「澄玲のおかげで間に合った。ありがと」
「へっへ」
荒い呼吸なんだか、笑い声なんだか、よく分からない声を出す澄玲。
「ご飯、何が食べたい?」
「んー、お寿司」
「いいだろう」
「やったあ! ハンバーグとエビ天と炙りカルビいっぱい食べるぞー!」
「邪道め」
絵を完成させ、提出も終えた。これも一つの達成感というやつだろうか。
少しだけ軽くなった心持ちでハンドルを握り、久しぶりに夜の街を走る。
「わー、綺麗な建物。お城みたい」
さっきまで寿司の話をしていたのに、もう道端のラブホテルに夢中になっている澄玲を見ると、自然と笑みがこぼれる。
「へっへへ」
そんな私に気付いた澄玲も、なぜか笑い始めた。
「へへ」
きっと、なにかがおかしいんじゃなく、私が笑っていることが面白いんだと思う。そんな澄玲の心情を想像すると、やはり笑いが堪えられなくなる。
「うっへへ」
「ひゃひゃ」
「ぐへ」
途中から変な笑い方選手権に切り替わって、気味の悪い声を出しながら夜の街で異彩を放つ綺麗なお城を通り過ぎる。
それもまた、面白くて。
「ちょっと、今運転中だから」
お腹を抱えながら「くっくっく」と、声にならない笑いに苦しめられたのだった。
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