第11話 描いたものは次の場所へ
体育祭の翌日、打ち上げをクラスのみんなでするらしく、私は澄玲をカラオケボックスまで車で送り届けていた。
「六時には終わると思うけど、終わりそうになったらとりあえずメッセージ送るね」
「あんまはしゃぎすぎるなよ」
「えー! はしゃぐために来たのに」
「じゃあめいっぱいはしゃげ」
芯を根こそぎ持って行かれ、それもそうかと私が折れる。
「まつりも来る?」
「高校生の若さにおばちゃんついていけないわ」
「いやだわ奧さん」
手首をふにゃふにゃ曲げた幼きマダムは、車からぴょんと降りると手をぶんぶんと振ってカラオケボックスに入っていった。
さて、これからどうしよう。
六時まであと四時間以上ある。時間を潰そうにも、潰すものがない。薄っぺらい紙切れ一枚置いたところで、豆腐すら潰れないだろう。
休日は澄玲と買い物へ行くことが多かった。澄玲と暮らす前の私は、どうやって時間を浪費していたのか。思い出せない。記憶がないということは、何もしていなかったのだろう。
とりあえず車を出して、のらりくらりと近くを走る。
ふと書店が見えたので、近くの駐車場に停めて立ち寄ることにした。
専門学校に通っていたとき、よく来ていた店だ。配置は変わっていたが、画材はまだ売っていた。デッサン用の人形が埃を被って横たわっている。懐かしさを感じながら人形を手に取ると、気付けばレジまで持っていっていた。
レシートを受け取って振り返ると、見慣れた顔が店の入り口前に立っていて、あちらも私に気付いた。
「
「ども」
名前を知らないので呼びようがないそいつは、今にも逃げ出しそうに踵を返した。しかし、数秒の葛藤を経て再びこちらに向き直る。
「今日は仕事休みなの?」
「うん。そっちは?」
「ちょっと行き詰まったから、気分転換」
イラストレーターとして活動しているというそいつは、以前、夢を叶えたと嬉しそうに語っていた。しかし、今はどこかやつれているようにも見える。
お互い向き合ったまま、沈黙が続く。
客が店を出入りするたびベルが鳴って、急かされているような気分だった。
「茉莉、いま、暇?」
「まあ、六時くらいまでは暇」
「じゃあ、ちょっとお茶していかない?」
「いいけど」
どうせやることもなかったので承諾する。
そいつは家が近いらしく、歩きできたというので、私が車を出した。
向かった喫茶店は、去年も一度来たところだった。
私がコンポタージュを頼むと、向かいに座ったそいつも同じものを頼んだ。
「コーヒーじゃないんだ」
私がそう言うと、そいつは寂しげに視線をテーブルに落とした。
「そういうのは覚えてるんだね」
「え?」
「ううん」
そいつはウッドテーブルの木目を指でなぞりながら、掠れた声で言う。
「この前は、ごめんね」
「いいよ全然」
なんのことか分からなかったけど、分からないということは根には持っていないということだ。
「茉莉が一方的に
そいつは前髪をかきあげながら、眉間にシワを寄せた。問題文と向き合う受験生のような面持ちに、どこか危うさと焦りを感じる。
「ううん、違うな。ちょっとだけ、期待しちゃってたのかな」
背にもたれていると、コーンポタージュが運ばれてくる。
口を付けるとほどよい甘さと温かさが胃に落ちて、気分が朗らかになる。そいつにも、同じものが運ばれてくる。コーンポタージュを口にしたそいつは「美味しい」とつぶやくと、マグカップを静かに置いた。
「最近までね、彼女と同棲してたの」
そいつは自分の人差し指をさすりながら語った。
「結構長く続いてたんだけど、同棲してたこと、お互い両親に言ってなかったのね。ある日わたしのお母さんが作りすぎたからって料理を持ってきてくれたの。でも、突然だったから彼女とバッタリ会っちゃって。でも、良い機会だから同棲してるんだって伝えたんだ。そしたらお母さん、すごく、呆れて」
「うん」
我ながら、相槌が上手になったと思う。
声に熱が乗って、人間が織りなす波長に寄っていく。
「結婚はどうするんだ、子供は、将来はって、もうそればっかりで。でも、好きなんだから、好きな人と一緒にいられたらそれでいいでしょ? だから、あんな親放っておいてわたしたちは幸せになろうって彼女に言ったの。そしたら彼女……あんな言われ方するならいいやって」
そいつは、コーンポタージュに口を付けようとしなかった。よく見ると、そいつのコーンポタージュだけやけに湯気が立っているように見える。私のとは、温度が違ったのだろう。
「どんなことがあっても一緒にいるって思ってたのはわたしだけで、彼女とわたしには温度差があったの。それで、別れるって話になったんだけど、彼女、借金もあるみたいだったから家のものいくつか持って行っていいよって言ったの。で、ある日家に帰ったら、家にあるもの全部なくなってた」
それは、想像するだけでも辛い気がした。
物がなくなった寂しさや、家具にかけた金銭などではなく、すべてを遠慮なく持って行ける元同居人の心の内が、その何もなくなった部屋に現れている。
「同棲なんて、しなきゃよかった」
最近とは言っていたし、まだ傷も癒えていないのだろう。まるでかさぶたを剥がすように、そいつは顔を歪めた。
「久しぶりに茉莉を見たらさ、ちょっとだけ思い出しちゃって。わたしの、空いた穴を埋めちゃえって、そう思って……ちょっかいかけちゃった。茉莉に好きな人がいるってこと、知らなくて」
「あんまり、ちょっかいかけられたとは思ってないかな」
気にしていないというと、語弊がある。
覚えがない。記憶にかすらない。該当するものが、どこにあるのか。
でも、そのまま口にするのは、よくない気がした。知らないけど、知らなくてもいいことなんだろうけど。
「澄玲ちゃんと、仲良くね」
「ん、まぁ」
「心配いらない?」
「うーん」
喧嘩するなということなら、約束はできない。
別れるなということなら、やはり約束はできない。
今の気持ちをずっと、という意味でなら約束はできる。
「茉莉と澄玲ちゃんがずっと一緒に、幸せにしてくれていれば、わたしもお母さんに証明できる気がするから。同性でも、幸せになれるって……」
随分と大きな括りで、重いものを背負わされた。
性別なんて今まで気にしたことがなかったし、そもそも相手が人間であるかどうかも普段から意識なんかしたことはない。犬だろうと猫だろうと、蛇だろうとタコだろうと、私にはあまり関係のないことだった。
「うん」
私が頷くと、そいつは大きく息を吐いて、それから店員さんを呼んだ。
「すみません、コーヒーください。ブラックで」
そいつは注文を終えると、少しだけ得意気に笑った。
「甘いのはやっぱり苦手」
「よくブラック飲めるね」
「大人になっちゃった」
注文したコーヒーがテーブルに置かれると、マグカップに浮かぶ黒い水面をジッと眺めて、一気に飲み干した。
「新しい相手は、作らないの?」
「んー、今はいい。今は、仕事を頑張りたい。ずっと夢だったイラストレーターの仕事だもん。大変だけど、どこまでいけるか、試してみたい」
向上心があって感心する。
何かに挑戦するというのは、誰でもできるということではない。
「そういえば、コンペどうだった?」
私が聞くと、そいつは渋い顔を浮かべてカバンを肩にかけた。
「実は書店寄ったあと行くつもりだったの。……一緒に行く?」
受賞した作品は、当日会場で発表される。
昨日から展示会は開いているはずなので、もう結果はでているはずだ。
このあとの予定も特にないので、そいつと一緒に美術館に向かうことにした。
テーブルを立とうとすると、まだ一口しか飲んでいないコーンポタージュが目にとまる。
「それ、飲んでいい?」
「ダメ。わたしが口つけたでしょ」
「ええー」
そいつはコーンポタージュをあっという間に飲み干した。
「好きな相手がいるなら、そういうの気を付けなよ」
正論だった。
たしかに、澄玲が聞いたら、怒るかもしれない。
財布の小銭をひぃふぅと数える。すると、そいつはスマホをレジに掲げて、電子マネーでさっさと支払いを終えてしまった。
「いくら?」
「いいよ。話聞いてもらったから」
話を聞くだけでいいのなら、いくらでも話を聞く。というかそれだけでお金を稼ぎたい。心を無にして人の話を横流しするのは得意だった。
けど、そうじゃないのだろう。
他人に弱音を吐き出してしまいたくなるほど追い詰められるということが、今後ないように祈ることが、私の目指す、大人の選択である気がした。
美術館に着くと、真っ直ぐ展示スペースに向かった。
近代のものから中世のものまで幅広く扱っている。私もそいつも、どちらかといえば近代絵画が好きだった。中世は宗教的なものが多く、美しさに目を奪われはするが、作品の奥底に込められた執着とも言える神への信仰を読み取るのは難しい。けど、当時の発展途上の技術を駆使して描かれた抽象的な絵はとても美しい。
そうやって絵画について語っていると、ほんの少しだけだが、専門学校の頃を思い出す。思い出せるということは、何かを、思い描いてはいたのだろう。風化して消え去る惰性の記憶よりはよっぽど、大切にしなければならない記憶な気がした。
コンペの応募作品は、受賞した作品だけが展示スペースに並べられる。
大賞、金賞、優秀賞に佳作とあり、大賞は年によっては選ばれないこともあるらしいが、今年は無事選ばれたらしい。私から見ても、大賞に選ばれるにふさわしい作品だった。
佳作は三作品選ばれていて、技術は拙いが勢いがあり、光るものを感じる。優秀賞はとても美麗で、洗練された作品だった。
「入選もなしかぁ」
息を呑んでいると、隣のそいつが軽い調子でため息を吐いた。
私はこいつの名前も画風も知らないから、作品を見ただけではこいつが入賞したかどうかは分からなかった。
「まあ、ずっとデジタルで書いてたし。絵画も、茉莉の真似して描いただけの付け焼き刃だから、しょうがないんだけど。というか、これで入選したら絵画舐めすぎだよね」
饒舌に語るそいつは、本当に、悔しかったのだと思う。
下唇を噛んで、瞬きもせずじっと選ばれた作品たちを眺め、見上げ、睨み付けるその様相は努力した者だけが手に入れることができる。
悔しいという感情がわいてこないということは、努力していないということになる。呼吸も忘れるほど手を動かし続けても、異常なほどの執着で色を塗り続けても、悔しくないなら努力ではない。
努力が報われなかったことよりも、努力ですらなかったということが悔しいと、そういうことなのだろうか。
「茉莉、泣いてるの?」
そいつがジッと私を見ていた。
瞬きしても、溢れるものなどない。強いて言えば、いつもより瞼への摩擦が少なかったくらいだ。
「びっくりした、見間違いか。なんか泣いてるみたいに見えたから」
宇宙船に穴が開いて、空気がギュオーっと吸い込まれるシーンを映画かなにかで見たことある。なんだっけなぁと記憶を探る。あ、エイリアンか。
最近はよく未知の生命体に出会うな。
「あ、見て。あそこに飾ってあるの、入賞はしなかったけど選考委員による特別賞をもらった作品だって」
作品が展示されている大きな広間の突き当たりに白いレースで覆われた棚があって、その上に作品がいくつか並べられていた。
今回のコンペには選考委員が三人いて、これらは作品のクオリティとはまた別に、その選考委員の好みによって選ばれたものだ。たしかに、万人受けするような入選作品とは違い、やや尖った作品が散見される。
「うわあ、これとかすごい。どうやったらこんな構図思いつくんだろう。絶対これ描いた人、独学だよ」
そいつが一つの作品を指さした。
「『てっぺんを目指して』か。画風はグロテスクなのに、タイトルはすごく真っ直ぐなのがアンバランスで……なんていうか、不思議な作品。わたしはこの作品、好きだな」
茜色の星を目指しているのは、半分が欠損した心臓。剥き出しにした血管から血を流しながら、紫色の花びらを背に付けて這いずるように進んでいる。そして、謙虚とはほど遠い自我のある美しさで花畑の真ん中を独占する心臓の後ろにいるのは、横たわった一羽の小鳥だった。
羽毛は生えそろっているのに、頭だけが雛鳥のままで、目は開いていない。見えないはずなのに、その小鳥はボロボロの心臓の方に顔を向けながら涙を流している。後ろには巣らしき残骸が見えて中には黒や、赤、緑……様々な色に塗れた羽が落ちていてた。
「でも、やっぱりちょっと怖いかも。なんか、サイコっぽい感じ」
「サイコパスっていいたいのかよこら」
「なんで茉莉が怒ってるのか分からないんだけど。別に、貶してなんかないよ。むしろ、羨ましい。こういう、唯一無二の絵が描けるのは。さすが、特別賞って感じだね」
そいつはひどく感心したように絵を眺めていたが、ふいにくすっと笑みをこぼした。
「ちょっと待って、今、作者の名前みたんだけど」
そいつが作品のそばに添えられたネームプレートに人差し指を向ける。
絵の中の小鳥が、その指に吸い寄せられて振り返った……ような気がした。羽毛ばかりが先に生えそろってしまって、まだ自力で飛ぶこともできない歪な雛鳥。しかし、飛び立った巣には生きた証と、前に進もうと足掻いた痕跡がいくつも残されている。
「『ガンジス川よしこ』ってすごい名前だね。いくらペンネームOKとはいってもさ」
握りしめた拳の中に、手汗が滲む。
一心不乱に動かし続けた手のひらが、私の代わりに泣いてくれているみたいだった。
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