第9話 ゴースト・ラン

 序盤は澄玲すみれ率いる赤組が優勢だった。というよりも圧勝だ。


 プロとアマチュアくらい差が開いている。赤組は序盤から陸上部さながらのフォームで走る子ばかりで、反対に白組はのらりくらりと走る子ばかりだ。


 しかし、中盤を過ぎたあたりから雲行きが怪しくなってくる。


 ほぼトラック一周分のリードがあったはずが、気付けば半周分ほどまで差が縮められている。


 赤組は序盤に速い人を固めて、早いうちからリードを稼ぐ作戦だったのかもしれない。消耗した赤組とは裏腹に、終盤に近づくにつれ白組の子たちの走り方も達者になってきた。


 隣のあいつが「お、走ってる走ってる。頑張れー」と親戚だか従姉妹だか忘れたけど、身内の子を応援していた。


 残すところあと二人。


 赤組の子がバトンを受け取ると、ものすごい速さで走りだした。バトンの受け取り方が他の子とは違ったので、現役の陸上部なんだと思う。


 というより、あの子が本来、アンカーだったんじゃないだろうか。


 白組をぐんぐん突き放して、澄玲にバトンが渡る。


 この時点で、白組とのリードはトラック約半周分。


 最後のアンカーは半周走っていた選手たちとは違い、一周走らなければならない。


 澄玲がバトンを受け取る姿は、なかなか様になっていた。腹が裂けた鮭の筆箱をバトン代わりにして、公園で練習した成果がでている。


 澄玲はえっこらえっこら走る。その後ろで、ひとたび大きい歓声が沸いた。


 白組のアンカーがバトンを受け取ったのだ。ものすごいスピードで澄玲に迫っている。


 チーターが子供のシマウマに噛みつくみたいに、なんのドラマもなく、澄玲が追い越される。


 ああ、と周りからどよめきが聞こえた。


 それはとても、温かく、優しいどよめきだったように思う。決して落胆からの声ではなかったはずだ。


 颯爽と追い越し英雄となった白組の子は、もう最後のコーナーに差し掛かっていた。


「澄玲ちゃん、頑張ったよ」


 隣のそいつがぼやいた言葉は、さっき聞こえてきたどよめきの内情を言語化していた。


 追い越した側と追い越された側の力量には、明らかに差があった。そのことに哀れみ、憂いていたのだ。


 同棲を始めてすぐの頃、街のど真ん中でジェラート片手に澄玲が泣いたことがあった。あのとき、周りにいた大人たちも、今と同じだった。


 優しくて、温かくて、けれど、どこか冷たい。同情と慈しみを含んだ視線は惜しみなくくれるが、実体あるその手だけは誰も伸ばしてはくれない。


 私も、それが正しいのだと思っていた。だからあのときは、母親の死に悲しみ涙する澄玲の横で、ただじっとしていた。


 本当に、あれでよかったのか。今でも疑問に思うことがある。


 そんなことばかりだ。後悔と疑問ばかりが、人生の大半を埋め尽くしている。


 わあっと歓声が起きた。白組の子がゴールしたのだ。


 澄玲はようやく、第三コーナーを曲がる。


 ちょうど観戦していた私たちの前に差し掛かった。


 黒い髪がたなびいて、澄玲の横顔が快晴を彩る太陽に照らされる。


 とても、強い瞳をしていた。


 泣き腫らして真っ赤になった瞼は、もうどこにもない。


 ただ真っ直ぐ、ゴールだけを目指して走り続けている。


 すでに勝敗が決まった勝負。


 白組の応援は終わり、赤組の応援もちょうど途絶えていた。


「ちょっと茉莉、炭酸ジュース、こぼれてるって。どうしたのそんな握りしめて」


 きっと、一位になるからなんて世迷い言は、私以外にも言って回っていたのだろう。アンカーになったのも、クラスメイトたちの粋な計らいなのかもしれない。


 心臓が他の子と比べて弱い澄玲が一位になったら、きっと劇的なゴールになる。澄玲にとって、忘れられない思い出になるはずだ。


 優しさと、思いやりに送り出され、期待と応援を一心に受け走る澄玲。私だったら、絶対に走れない。一位を取るからなんて宣言もしない。恥ずかしいし、苦しい。


 それでも、澄玲はまだ追いつける、追い越せるとでも思っていそうな形相で、地面を蹴り上げ続けていた。


 そんな澄玲を見て、なんとなく、分かった気がする。


 どうして、こんなにも、惹かれるのか。


「澄玲ーーーッ!」


 静まり返ったグラウンドに、私の声がこだまする。


「がんばれーーーーッ!!」


 この場所にいる、すべての人間の視線が私に注がれるのを感じた。


 一瞬の静寂。


 そして困惑と戸惑い。


 今、この場所で一切の迷いを持っていなかったのは、私と澄玲だけだった。


 その静寂を切り裂くように、澄玲が一歩前に出る。


 顔は決して下げることなく、腕をいっぱいに振り、足をあげて走った。


 そんな澄玲を見て、赤組の応援が再開される。それに釣られるように、周りの観客たちも澄玲を応援しはじめた。


 澄玲はようやくゴールして、たくさんのクラスメイトに迎えられた。


 すると、応援ではなく拍手が起きる。まるで、走り抜けたことが奇跡とでも言うような、そんな拍手だった。


 幼児の運動会でも見ているような稚拙な光景に、私は足元に垂れていた炭酸ジュースをウエットティッシュで拭いた。


「ごめん、ゴミ袋ある?」

「ああ、ありますよ」

「あ、ありがとうございます」


 館山さんがビニール袋を渡してくれる。


花芹はなせりさん、いい応援でしたね。澄玲ちゃんも、それで一気に速くなったような感じがしました」

「そうですか? もしかしたら愛のパワーってやつですかね。あはは、へへ、ほほほ……げほっ、げほっ!」


 愛想笑いの嵐で受け答えをするも、咳が邪魔して締まりが悪い。


 喉の奥がヒリヒリする。唾を飲み込むだけで染みるような痛みがあった。


「初めて大声出したかも。いってー……」


 喉を押さえながら、ふと、隣のあいつに目をやった。


 そいつは、まるで幽霊でも見たかのような顔で、私を見つめていた。


 

  

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