第4話 のぼせないように


「銭湯に行くぞ」


 仁王立ちした私に対して、澄玲すみれも全く同じ立ち姿で迎え撃つ。その手にはすでにバスタオルが握られていた。


「風呂がぶっこわれた」

「知ってる。さっきなんかボガンって鳴ってたし」


 給湯器が悲鳴をあげるのはこれで二度目だった。大家さんもいずれ新しいのに替えるとは言っていたけど、まさか自分からギブアップするなんて。私みたいな給湯器だ。


「そんじゃ行くかー」


 私もバスタオルを袋に詰める。


 二人揃って外出すると、アパートの前を通っていた人が私たちをチラッと見る。姉妹だと思われているだろうか。手を繋ぐだけではその家族愛から脱却できないので、他人を愛するというのはなかなか難しい。主観的ではなく、客観的な問題だった。


 銭湯につくと澄玲がさっそくポンポンと服を脱ぎ捨てる。服を雑に畳んで、浴場へと突進していった。


 澄玲の隣でシャワーを浴びながら、反響する水音に耳を澄ます。澄玲がガボガボとシャワーの水を飲んでいた。うわ、やめなさい! と肩を叩くと「なに!?」と澄玲が驚いて椅子から転げ落ちそうになる。


 澄玲の長い髪が遮光カーテンとなって視界を遮っていた。


 私は髪を伸ばしたことがない。その理由が、手入れの面倒さである。ただでさえ洗うのに時間がかかるのに、ちょっとでもケアを怠ったらあれやこれやと指摘される。百害あって一利なし。髪を伸ばせる人はすごい。


 私が髪を洗い終える頃には、澄玲はまだ自分のロングヘアと格闘していた。


 他に客はいないので、あと一時間くらいそこで髪をテープを巻くみたいにいじってても問題はない。


 身体を石けんで洗いながら、ふと脱衣所を見た。客がきていた。平穏とは突如として破れるものである。


 というか、あの人たち……常連のおばさんたちだな。


 前回銭湯に来たとき、領土を侵犯した澄玲を叱った人たちだ。大人の縄張り意識というものがこの世で一番厄介だ。それらは、まるで正義のように純然とそこにあって、岩のように強固で頑丈だ。


 ゾロゾロと入ってくるおばさんたちは、全部で五人。ああやって知り合い同士銭湯に来るのが日課なのだろう。


 入ってきたおばさんの中の一人が、私たちが座っている場所をじろ、と睨んだ。


「あ、ここもうすぐ空きますんで」


 私が声をかけると、あちらは一瞬驚いたようだった。


「そう? 悪いね」

「いえ、大丈夫です。ほら、澄玲も」


 ようやく髪を洗い終えた澄玲が、後ろに流した髪の重力に負けていた。首を後ろに倒したまま私と、おばさんたちを見る。こら、あからさまに嫌そうな顔をするな。


「まだすみれ洗ってるもん」

「去年それで怒られたじゃん」

「すれみが先に座ってるんだから、すみれ悪くないよ」


 そうやって問答している間にも、私と澄玲の後ろにおばさんたちが並ぶ。他にも空いている場所はある。けど、おそらく五人並んで喋りながらシャワーを浴びたいのだろう。


「どうぞどうぞ」


 自分たちの泡をシャワーで洗い流して、後ろのおばさんたちに席を明け渡す。不満げな澄玲の手を引いて、浴槽に突っ込んだ。


 押し込まれるように着水した澄玲は、じっとおばさんたちを見ながらフグみたいに頬を膨らませていた。


「公共施設なのに」


 澄玲の苦言は最もだった。


 けど、法律にさえ触れなければ何をやってもいいなんて風潮は、歯医者やコンビニほどありふれたものだ。どこに行ってもきっとある。


「でもほら、貸し切りじゃん」


 手足を思い切り伸ばして、浮力に身を委ねる。


 澄玲も私の真似をして、手足を水中に投げ出した。


「きもちー」

「うん」


 浮かんだ澄玲が、水流に押されていく。川の流木にひっかかるビニール袋みたいに、浴槽の端っこでぷかぷかしている澄玲を眺めながら、私も身体の疲れを取ることに専念した。


 五分ほど浸かっていた頃だった。


 澄玲が突然浴槽からあがって、タイルに腰掛けた。


 なにやら胸のあたりをさすっている。


「のぼせた?」

「ううん」


 辛そうな表情というわけではなかった。何かに不満を呈するような、そんな顔で自分の胸を撫でている。


「ちょっとお湯熱いか。水足そうか?」

「だめだよ。おばさんたちに、またなんか言われるかも」


 たしかに、それも一理ある。自分たちの座る席すら決めている人たちだ。お湯の温度は40度以下にしたら許さん! とか言う可能性もある。


「ちょっと待ってな」


 私は浴槽からあがると、シャワーをしていたおばさんたちに話かけた。というかこの人たち、シャワー出しっぱなしでずっと喋ってるし。銭湯を喫茶店とでも思っているのだろうか。


「すみません、浴槽の温度なんですけど、ちょっとだけ下げてもいいですか?」


 とりあえず、一番手前のおばさんに声をかけた。


「あ? ああ、なんだい、熱いのかい」

「はい。すみません」

「別に構わないよ。ここの銭湯は夕方になると急に熱くなるんだ。番台にもよく言ってるんだけどねぇ、今のところさっぱり改善されない」

「そうなんですね」

「設備が古いから温度の調整が難しいんだーなんて言うんだよ。そんならさっさと店閉めちまいな! って話だよねぇ」

「あはは、そうですね」


 乾いた愛想笑いで空気の粘度と強度を下げてから、私は話を切り上げて浴槽に戻った。


「あの人たち、なんて?」


 不安そうに私を見つめる澄玲。調子はさっきと比べてよさそうだった。その証拠に、今度は胸元を両手で隠している。ということは、さっきは隠す余裕もなかったということになるのだけど。


「構わないって。お湯が熱いのはあの人たちも知ってたらしい」


 蛇口を捻って、水を足す。足でかき混ぜながら、お湯が良い具合になるのを待つ。


「ほら、もうぬるいよ」


 澄玲が足を入れて確かめる。大丈夫そうだったのか、そのまま胸まで浸かっていった。


「あー、これくらいがちょうどいいかも」


 澄玲は気持ちよさそうに目を閉じた。


「まつり、よくあの人たちに話しかけにいけたね。去年怒られたのに」

「まあ、あっちは私たちのこと覚えてないみたいだし。それに、怒られること私たちはしてないしね」

「それなのに謝るんだ」

「バカだな。自分が悪いと思ってないときに出る謝罪が一番最強なんだよ」


 本当に悪いと思ってたら、罪悪感に押し潰されて喉なんか開かない。正義か悪かなんて、誰も気にしていないのだ。あるのは責任と都合と、建前と見栄えだけ。


「こうやって大人になっていくんだなあ。まつを」

「誰、まつを」

「私の中に眠る詩人」

「へへっ、へへ」


 変なツボに入った澄玲が、水面で震えていた。


 そんな顔を見るのが、私にとっては何よりの癒しになっていた。




 銭湯をあがって着替えも終わった頃、おばさんたちからフルーツ牛乳を奢ってもらった。


 なんの企みかと勘ぐったが、どうも若い子が銭湯に来るのは珍しいからと、珍獣に餌をあげるような理由だったらしい。


「あ、ありがとうございますっ! すみれ、お風呂あがったときのフルーツ牛乳が一番好き!」


 餌が大好物な澄玲は、すっかりおばさんたちに尻尾を振っていた。そんな無邪気な澄玲に、おばさんたちも自然と笑みを浮かべていた。


「クソババアかと思ってたら良い人だったね!」


 銭湯を出た帰り道、澄玲が当たり前のように毒づいていた。


「良い人ではないでしょ」

「え? でもフルーツ牛乳ごちそうしてくれたよ?」


 火照った身体に当たる夜風は、とても気持ちがいい。うんと背を伸ばして、息を吐いた。


「ただの貸し借りだよ」

「そうなの? なんで分かるの?」

「そういうもんだし」

「大人って?」

「うん」

「へー」


 澄玲が、石ころを蹴りながら地面を見つめる。


「澄玲も、いつかそうならなきゃなの?」


 その問いに対する、正しい答えを私は知らない。ただ、少なくとも。


「私が、そうなりたいだけ」


 私は大人になりたい。


 昔から、色んな人に言われてきた。


『茉莉って、冷めてるよね』


 他人なんてどうでもよかった。久しぶりに再会して「最近なにしてるのー?」って聞ける子たちをすごいと思っていた。誰が今どこで何をしているかなんて本当に興味がなかったし、他人の動向も感情も関っても疲れるだけだと思っていた。


 けど、そういう生き方には限界があって、いつかどこかでポッキリ折れそうになるときが必ず来る。というか、来た。


 そんなとき私はたくさんの人に助けてもらった。


 花屋のみんな。それから、ママに、澄玲に……。


 私を助けてくれた人たち。いつも支えてくれた人たち。


 気付けば私はいつもその人たちの中心にいた。差し出される手を当たり前だと思って、それを鬱陶しいと思って、拒絶していた。その手を取ってしまえば、私も立ち上がらなければならない気がして怖かった。


 他の人が当たり前にする大人としての振る舞いを、私はできる自信がなかった。


 でも、今はそうは思わない。ならなくちゃって思う。できなくても、できるようにならなくちゃ。


 将来の夢や憧れとはきっと違う、使命めいた覚悟。きっとそれは、私だけでは生まれないもので。


「まつり?」


 キョトンと小首を傾げる誰かが隣にいて、そいつのためにって思うと、不思議と背筋が伸びていく。


「あのさ、澄玲」


 目を合わせるのはちょっと苦手で、人の顔を見ながら話すのも怖くてできない。けど、心と向き合うのは少しだけ自信がある。


 ずっと自分にそうしてきたものを、他人に向ければいいだけだ。


「私に、何か隠してることない?」


 琥珀色のビー玉に、淀みが落ちていく。泥が渦を巻くように、無垢な光を吸い込んでいった。


「ない、よ」

「そう」


 胸元をキュッと握った澄玲は、石ころを蹴り損ねてバランスを崩した。


 私の右腕に、ぽすっと顔を埋めた澄玲は、つっかえ棒みたいになりながら、私の腕を抱きしめた。


「言っておくけど、私はまだ澄玲に借りを返してないから」


 きっと、何周も回り回った言葉だった。こんな近くに伝えるべき人がいるのに、全然違うところにすっ飛んでいった私の言葉は、森へ入り海へ潜り、空を駆け壮大な冒険をした後、ようやく故郷に帰ってくる。廃れて擦れて、ボロボロになった身体でようやく告げたその言葉。


 澄玲の頭を撫でると、私の腕を抱く澄玲の力が、ほんの少しだけ強くなった。

  

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