第2話 『不滅』『永久』
惣菜を買うのをやめて自炊を始めたのは、夜にやっていた情報番組がきっかけだった。
身体が成長途中である学生の頃にたくさん栄養のあるものを食べないと丈夫に育たない。ママさんたちの知恵と努力の集大成である時短弁当レシピを発表する番組の企画で、そんな言葉が取り上げられたのだ。
「ねぇ、お醤油がないよ?」
エプロンを着けた
「みりんとかの場所にあるでしょ」
「これただのお醤油だもん。そうじゃなくて、卵かけご飯用のお醤油」
沸騰する鍋の活気を眺めながら、そういえば今朝で使い切ってしまったことを思い出す。
「いいよ、卵かけご飯の栄養なんてたかが知れてるし」
「えー、美味しいのに」
セーラー服の上にエプロンをした舌っ足らずな奴の好物が卵かけご飯。大人と子供を反復横跳びしているみたいだ。というか家に帰ったら脱げばいいのに、澄玲はいつも制服を着たまま過ごす。
「まつり、最近お料理がんばってるね。どうしたの?」
「自炊の方が食費がかからないことに気付いた」
「おぉ、倹約家」
「このままじゃうちは破産する」
「思ったより深刻だった!?」
澄玲がドタバタと部屋を走り回る。いつかコンビニから拝借してきたアルバイト募集の雑誌を探しているのだろう。
「あれー!?」
リビングから聞こえてくる澄玲の声を聞き流しながら、すでに出来上がっていた野菜炒めに卵を載せて食器に盛り付ける。キャベツとにんじんとタマネギときのこと小松菜、それに豚肉と鯖の味噌煮をぶっかけて完成とする。
とんでもなく山盛りになってしまった。
「はいできた」
「わー、前衛的」
「鯖の味噌煮が隠し味です」
「ぜんぜん隠れてないからソースかけたい」
「調味料は塩分過多になるからだめ」
「うぅーん」
唸った澄玲だったが、しばらくして「いただきます」とご丁寧に手を合わせた。
味に関しては、しょうがない。栄養第一。そのために自炊しているのだから。
テレビを観て「ふぉふぁふぁ」と笑う澄玲。背は同年代の中でも、小さい方だろう。
たくさん食べて大きくなってほしいなんて思っているわけではない。このままちんまりとしたまま歳だけ取って、ちゃんと食べているのかとどこの馬の骨とも分からないお節介な大人たちに睨まれたくはないだけだ。
「やっぱお味噌汁にブロッコリーは合わないね。鯖の味噌煮も変な味」
「んー」
栄養をつっこむのは存外簡単だけど、味や見た目を伴うとそこには技術が必要となってくる。私には技術なんてない。あるのは、なんだろう。料理に込めているその一心の思いは……口にすると食卓がいっそう彩られそうだったのでやめた。
「まつりみたいな味がする」
「まるで私を食べたことがあるみたいな言い方するな」
言って、空間が凍った。
いや、よく言うじゃないか。カブトムシみたいな味だ、おい食ったことあんのかーって。そういう、ノリだったんだって。悪かった私が悪かった。
箸を口に咥えたまま何かを口走ろうとしている澄玲を遮ろうと身を乗り出す。
「あるもん」
せめて笑い飛ばしてほしかった。そうやって頬を染めながら目を逸らされると、口の中でまごつくブロッコリーが途端に甘酸っぱくなる。
テレビの音量が勝手にあがる。リモコンに触れてすらいないのに、周りの音が一気に大きくなって、澄玲が動くたびに擦れる制服の音さえも爆音で耳に届く。
「ご飯食べるときくらい、制服脱いだら?」
「脱がない、制服好きだから」
脱ぐ脱がないの問答になると、また口の中に甘酸としたものが広がってドレッシング入らずの料理が完成しそうだったのでやめた。黙々と箸を進め、残りは明日の弁当にするべくラップをかけて冷蔵庫に入れた。
お風呂が沸くと、今度は脱衣所の取り合いになった。しかし、さっきの会話が尾を引いていつものように口が回らない。すでに脱ぎ終わっている私をよそに、澄玲までポンポンと衣服を手放す。
「頭洗って」
浴室の床にぺたんと座る澄玲。贅沢な肉が少しもない、真っ直ぐ伸びた細い身体に、シャワーをぶっかける。
「わぶ」
目を瞑って放水を受け入れる澄玲の顔が面白くて、つい長いこと続けてしまう。顔から首へシャワーを下げていったら「きゃあっ」と澄玲が鳴いたので、すぐさまシャワーを止めた。
「へ、へへ」
お代官様と離反を企てる悪徳商人みたいな笑い方をする澄玲を風呂椅子に座らせる。白い肌に流れていく長い髪は、なんだかもずくみたいに見えた。それを澄玲に言ったら「もっといい例えにしてよ!」と怒られた。
「めかぶ」
「変わってないんだけども」
言いながら、澄玲が肩を震わせる。どうやらツボに入ったようだった。
後ろから頭を洗ってやると、澄玲は「きもちー」と気の抜けた声を出す。毎日ではないが、こうして澄玲の頭を洗うのが日課になっていた。理由もきっかけも、私にはさっぱり見当たらない。もしかしたら澄玲にも、身に覚えはないのかもしれない。
一度甘えた結果、それが存外心地良かったから続けている。なんとも怠惰な、ゆったりとした時間だった。
「身体も洗うか」
「か、身体はダメっ」
その線引きが謎なまま、私は一足先に浴槽に入る。いいよと言われたらそれはそれで冷や汗が滲むので、安堵のため息がこぼれた。
一生懸命自分の身体に泡をひっつける澄玲を見ていると、小さい頃ママとよく風呂に入っていたことを思い出す。
かたつむりの歌を歌ったり、浴槽にアヒルのおもちゃを浮かべたりした。特に記憶に残っているのは、浴室用のクレヨンで絵を書いたことだ。
コマーシャルで見たときから欲しくて、ママにお願いして買ってもらった。いつもは画用紙を使っていたから、浴室という大きなキャンバスに絵を書くのは本当に楽しかった。ワクワクした。
シャワーを浴びるのも忘れて浴室の壁に絵を書いていた私が風邪を引かないよう、ママはたびたびお湯をかけてくれていたっけ。
すごーい、と私の絵を褒めてくれたママは、いったい何を思っていたのだろうか。私に、何を願ったのだろうか。
「おわった!」
「あーい」
澄玲が身体を洗い終えたので、一足先に浴室から出ることにした。最初は一緒にあがっていたのだが、ドライヤーを使う時間が澄玲の方が長いので私が先にあがることにしたのだ。
うちにはドライヤーが一つしかないので、同時にあがってしまうと澄玲のもずくが乾燥していく様を私が傍観するはめになる。
脱衣所で身体を拭いていると、浴室から澄玲の鼻歌が聞こえてくる。
濡れた髪を乾かしていると、鏡に映った私が変な顔をしていた。それが口角のあがる寸前の表情だということに気付いて、化粧水をぶっかけた。
火照った体を冷ましながらテレビを観ていると、次いで澄玲も脱衣所から顔を出した。
いつもは跳ねたり曲がったりと自由奔放な澄玲の髪だが、風呂に入った直後は真っ直ぐと重力に従って下を向いている。横の髪が落ち着くことで元々小さい顔の輪郭が強調されて、澄玲の顔面指数が正常な値を叩き出す。赤みを帯びた顔色のせいでどこか艶っぽく見えるのも、それを助長していた。
「牛乳を飲むぜ」
開けた冷蔵庫を足で蹴って得意気に笑ったせいで、顔面指数がどんどん下がっていく。黙っていればもっと大人っぽく見られるはずなのに。
腰に手を当てて牛乳を飲み干す澄玲のお腹を指で突きに行くと、それを察知した澄玲が後ずさっていく。その間にも牛乳を飲み続けていたのがちょっと面白かった。餌と飼い主どっちを取るか迷ってる犬みたいだ。
それから就寝までの時間は、各々だらっとした時間を過ごす。
「花言葉って信じる?」
暇だったので、仰向けになってクッションを足でくるくる回していた澄玲にそんなことを聞いてみた。
「すみれはよくわかんない。花言葉って、あんまり気にしたことないから」
「そっか」
「でも、花の言葉は信じてる」
なんだそれ。私、今なぞなぞでもかけられてるのか?
クッション回しの継続記録も九回ほどで途絶え、澄玲が起き上がる。
「すみれ、花と喋れるんだ」
どうしよう、私は正常な人間をおかしくするのは得意だが、おかしな人間を正常に戻すのは苦手なのだ。
「よかったねじゃあテレビに出られるじゃん。動物と話せる人と一緒に全国を旅してきなさい」
「ああいう胡散臭いのとは違うもん!」
普通に失礼である。
「じゃあ今から、そこのサンスベリアに話しかけます」
サンスベリアはこの間、店からもらった観葉植物だ。市場から届く花の中には稀に病気の花が紛れ込んでいて、一応薬で治しはするが店に並べていいか微妙なものは従業員に配られる。
花は枯れるから嫌だと言ったら、サンスベリアなら枯れないからと副店長が半ば強引に私に持たせたのだ。
ベランダのそばに置いてあるサンスベリアに視線を合わせるようにうつ伏せになって、澄玲が話しかける。
「いつも元気をくれてありがとー」
知らないうちに元気をもらっていたようだった。私は無機物から元気をもらうという感受性がないため、少しだけ羨ましく思う。
「サンスベリアはなんて?」
「別にそんなつもりじゃありませんって」
「おやすみ」
時間の無駄だった。とんだ茶番に付き合わされたものだ。
「ちょちょちょっと待ってよー! 本当なんだってば!」
布団を敷いていると、澄玲が体操選手みたいに滑り込んできた。埃がぶわっと舞って、くしゃみが出る。
「花はみんなそうなんだよ。花は、すみれのために咲いてるわけじゃないから。だから、すみれが勝手に救われてるだけなの」
「夢も希望もない話だね」
惨い童話の結末のように、それには教訓というものが色濃く滲み出ている。いったい誰に吹き込まれたんだか。
「でも、本当なんだよ、花って、みんなそうなの」
澄玲も自分の布団を敷いて、私の布団に入ってくる。なんでやねん。
「まつりと一緒」
「なんで私?」
「まつりも、そうでしょ?」
ベランダで立ち尽くすサンスベリアと私のどこに共通点があるのかがさっぱり分からない。私の名字と名前が草かんむりで生い茂っていることくらいしか、私に花要素はない。
「その優しさが、嬉しいの」
澄玲が私の横に寄りそうように寝転がり、見つめてくる。
「すみれのために、慣れない料理してくれてありがと」
「いや、あれは食費のために――」
「だから、大好きなんだよ」
澄玲の小さな手が伸びてきて、私の手と結合する。それは溶けてくっついた鉄のように、熱く、固く、解ける気がまるでしない。今この瞬間世界が終わったとしたら、私たちはこのままの状態で化石になりそうな気がした。そういう、終わることのない時間を想像させられる。
「花も、まつりも」
「……うん」
「はい」
敬語になってしまったのはうっかりなのか、気付いて澄玲が笑い出す。しかし、その笑いも長くは続かない。澄玲の潤んだ瞳が、だんだんと近づいてくる。
額と、手と、腰と、つま先が触れた状態は人体の形状を上手に表してるなぁと、おそらく場違いである想像をしているうちに、そこに唇が参戦してくる。きっと人体と人体が折り重なった状態では不自然な箇所の接触。それはきっと、互いの思いが関係しているからで。人間らしいというか、なんというか。
こうやって小難しいことを考えていないと、頭が蕩けてしまいそうになる。
布団をかぶったまま、澄玲と手を繋いで、身体を知恵の輪みたいに絡ませる。解けないよう、ちぎれないよう。
サンスベリアの花言葉を調べようとした私は、もしかしたらとっくに、花言葉というやつに取り憑かれているのかもしれなかった。
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