第14話 孤独の少女
夕闇の公園に陰鬱な溜息が拡散する。
その息は散り散りに消え失せ、何も残らない。
ベンチに腰を掛け、沈んだ気持ちを鼓舞できるように奮い立たせようとするも、不具合なのか街灯が点いたり消えたりせわしなく、落ち着きがない。
――今の私みたいじゃないか。
自虐じみた言葉を吐き茜色から漆黒に移り変わろうとする夜空を仰ぎもう一度大きく嘆息をする。
私の我儘に付き合わせて、しかも私は楽をして逆にみんなは艱難辛苦に直面している。みんなを追い詰めているのは私のせいだ。
帰り際に見てしまった光景。小スタのドアアイから覗き目に映ったのは綾野と早稀、そして椿さんの三人だけで練習をしていた。
それを見て胸の奥を針で刺したような痛みを感じた。刺した部分からドロリと濁ったものが溢れ私の心を汚染する。汚れた私の心は苛立ちと寂しさを感じた。
――どうして、いったい何に、誰に対してこんな感情を……。
「あら奏音ちゃん、ごきげんよう」
聞き覚えのある優しさを包んだような声音が耳朶を擽った。
「過田先輩……ご、ごきげん……よう」
「ふふ、慣れないなら別にいいのに」
「だって過田先輩に言われたらそう返さないといけないと思いまして」
“ごきげんよう”だなんて、気品のある淑女を思わせる雰囲気の過田先輩だからこそ似合う挨拶だと思う。私なんかがそう易々と使える言葉ではない。
「珍しいですね、こんなところで会うなんて。誰かと待ち合わせとかですか?」
「いいえ、ちょっと……ね」
と言って右手に持つビニール袋から白くもっちりとした大きい饅頭のようなもの取り出す。しかし、饅頭とは違うジューシーで食欲をそそる匂いがした。
「へぇ……意外ですね。肉まん食べるんですか」
「意外ってどういうこと?」
眉根を寄せ怪訝な表情で私を見詰める。
「過田先輩のような上品なイメージのある人が肉まんの買い食いなんて想像つかないですよ」
「もう、私ってそんなイメージ持たれるけど、みんなが思っているよりも普通よ。あの、隣座ってもいい?」
断る理由などなく私はお尻を少し持ち上げ端に寄せ過田先輩に場所を譲る。
ありがとうね、と一言を恭しく言葉を添えると小ぶりな口で肉まんを口に運ぶ。
幸せそうに咀嚼する過田先輩を見て、ふと以前ここで椿さんと二人で一緒に肉まんを食べたことを思い出した。
食べかけの肉まんを手に持ったまま、過田先輩は先ほどの幸福感にあふれた表情とは打って変わって神妙な顔で私を見詰めている。
「考え事をしていたの?」
急な質問に反射的にえっ?と返事する。
「……そんな風に見えますか?」
「いわゆる顔に書いてあるってことかしら。難しい顔をしていたから」
知らずのうちにそんな顔をしていたのかと自分に呆れてしまった。だからまわりに迷惑をかけているのだろうか。
「そんなことありませんよ」
「もしかしてだけれど、責任を感じているの?」
「責任?」
「自分のせいでバンドに迷惑をかけていると」
「……ッ」
核心に迫られ爪が手の内側に食い込む。
「キーを変えた後の練習で誰かがミスをしたときにいつも奏音さんは深刻な顔をしていた。だからそう思ったのだけれど」
……本当によく見ている、この人にはかなわない、そう思った。音楽の才能もずば抜けている。そんな人だからこそ信用してもいいかもしれない。しばし逡巡する。
椿さんは私の悩みを受け入れてくれた。ありのままの自分を認めてくれた。その時、私は誰かに悩みを相談することは悪いことではないと知ることが出来た。
だから私は過田先輩に相談してみようと決心することが出来た。
「……帰る前に小スタの前を通り過ぎたら誰かが練習している音が聴こえて。覗くと綾野と早稀と……椿さんの三人だけで練習しているのを見てしまって」
「あら、三人だけで?」
食べる手を止めお手拭きで口元を拭う。
「はい、なんで私に声をかけてくれなかったんだろうって。しかも私はそれに対して苛立って……最低、ですよね」
「それは……奏音ちゃんの体調を気遣ってのことよ」
「本当にそれだけでしょうか?私を避けているんではないでしょうか。私の我儘がなかったら煩わしい思いをしなくてもよかったのですから」
二人とも黙り、少しの間言葉を交わさなかった。そして私が思うにね、と過田先輩は言葉を切り出した。
「あの子たちは迷惑だと感じていないんじゃないかしら。修正があって手間取ったかもしれない、でもそんなことで奏音ちゃんのことを嫌いになったりなんかしない」
「…………」
私の沈黙を無視し言葉を続ける。
「バンドがどうなるかわからない時、いろいろ議論がでたわ。でもあの子たちは奏音ちゃんを見捨てる選択なんてしなかった。特に椿ちゃんはとてもあなたのことを心配していた」
「椿さん……」
椿さんが私の家に来たことを思い出す。過田先輩の言う通り椿さんが私を心配してくれていたことはよく理解している。
私と同じような傷を持っている彼女。心優しく、人の痛みに共感し、寄り添ってくれる。だから、気にかけてくれたのだと思う。
そういえば、彼女の悩みを聞いたのはこのベンチだったろうか、とふと思い出した。
「彼女は本当にあなたのことを心配していた。選曲をし直す必要が無くなったのも椿ちゃんのおかげよ。綾野ちゃんも早稀ちゃんも一生懸命練習してきた。そんなあの子たちの気持ちを無下にしないであげて」
たしかにそうかもしれない。私はいつも自分しか見えていなかった。周りのことを見ているようで見ていない。
「だから、みんなのために歌って。あなたにはそれができるだけの力があるんだから」
眼鏡越しの真面目な視線がじっとこちらを見る。
――そうだ、決心したじゃないか。
「ありがとうございます。話を聞いてもらって」
今更仲間を疑ってどうする。そんなことを考えている時間があるのなら歌のことを考えている方に時間を使った方がいい。
もう私は迷わない。
ちらついていた街灯は煌々と明かりを灯している。
横を見遣るといつの間にか肉まんを食べ終えて再度口元をお手拭きで拭っていた。
「はあ、でもどうして私は誘ってくれなかったのかしら……」
「上級生はやっぱり声を掛けずらいんですよ。特にみんな過田先輩に頼ってたから余計に」
「そんなこと気にしなくてもいいのに。気持ちだけならみんなと同じ年なのだけれど」
頬を膨らませる姿につい相好を崩し二人とも笑ってしまう。笑うと少しだけ気分が楽になった。
「それにしても本当に椿ちゃんとは仲がいいのね」
「まあ、そうですね、入学式の日からの付き合いですから」
「ふふ、なんだか相思相愛の恋人みたいね」
その言葉にドキリ、とした。
「な、なに言ってるんですか。私たちはそんな……」
例えようのない気恥ずかしさが全身を襲う。
以前みんなでご飯に行ったときに恋愛の話になったけど、その時はそんな風に感じなかったのに……。
「もう、照れちゃって。さあ、帰りましょ」
過田先輩は立ち上がり駅の方へと歩き出す。
何か言い返そうと思ったけれど……否定の言葉を吐くことは出来なかった。
私と椿さんはそんな関係じゃない……と、思うけれど……。
椿さんのことを想うだけで甘美な夢を見るような心地よさを感じていた。
初めて歌うことに触れた時の感情とはまた違う別種のものだ。
小説や歌詞で見聞きしたことのある、一つの感情。
――もしかしたら、私は椿さんのことを……。
はっきりとしない覚束ない足取りで少し先を歩く過田先輩に追い付こうと駆け出した。
「大分良くなったんじゃないかな」
最後に奏でられた音が室内を包み込み、静かに消えると同時に満足そうに奏音さんが呟いた。
「うん!うち的にも今までの演奏で一番手ごたえ感じた!」
まるで今から小躍りを披露するかのように喜びが綾野さんの体から溢れ出していた。
昨日の練習で私と早稀さんが付きっきりで綾野さんの苦手部分を集中的に何度も繰り返し練習をした。
奏音さんと過田先輩が不在だったのか、いつも以上にぎこちなくミスが目立った。 理由を思案した結果、どうやら奏音さんと過田先輩の音を聴きすぎているのが原因だった。
本来、ベースとドラムは同じリズム隊として息を合わせなければいけないのだが、綾野さんはどうしてもメロディーの音に釣られて演奏していた。
だからドラムの音を聴いて演奏することを促すと最初は拙い演奏だったのが段々とドラムのリズムを理解してミスが少なくなった。
昨日の練習は奏音さんと過田先輩がいなかったことがむしろ功を奏したのかもしれない。
「ほんとねぇ、三人だけで練習した成果かしら?」
ふわりと微笑み、過田先輩は尋ねた。
「げぇっ!な、なんで知ってるんですか?」
驚き数歩後退る綾野さん。その表情は叱られる直前の子供のように強張っている。
後になって過田先輩と奏音さんを誘わなかったのはまずかったのではと話し合ったが、どうせバレないだろうという綾野さんの根拠のない結論で練習を終えたのだが……。
「ふふっ、これでも情報通なのよ」
「すみません、誘わなくて。その、お忙しいと思って……」
申し訳なさそうに綾野さんは過田先輩に頭を下げる。
奏音さんはどんな顔をしているのだろうと気になり、恐る恐る横目で見遣る。怒っていたらどうしようと思っていたが、そんなことはなかった。むしろ、微笑ましく二人の会話を見守っている。
「別に気を使わなくてもよかったのに。でも、本当に良くなっているわ」
綾野さんは本当に上手になったと思う。バンドを組んだ時からの彼女の成長を見てきた身からすると感慨深いものがあった。
「……二人のおかげですよ」
真剣な眼差しで綾野さんは私と早稀さんを交互に見る。早稀さんはあからさまに照れくさそうに違うところに目線を向けていた。
「なんや早稀、照れてるんか?」
口の端を少し吊り上げ、綾野さんは問うた。
「……恥ずかしいこと聞くな!まあ、本番でもそれくらい弾けたらいいんじゃないの」
「本番……本番ねぇ……明日と思うと緊張すんなぁ。」
一転して浮かない表情で不安気な声でぼそりと呟く。
「うち、小学生の時とかに学校行事で鍵盤ハーモニカ吹いてて、あの時はもっと多人数やったからそないに緊張せえへんかったけど、5人だけやと思うと寂しいよなぁ。緊張しない方法ってなんかある?」
うーんと私たちは頭を捻らす。
それは私も知りたいことだった。緊張……あと、どうすれば過去の幻影を見ないでいいかも教えてほしい……。
早稀さんが何やら熟考し顔を上げる。
「……お客さんをカボチャだと思い込むっていうのは?」
「ああ、それねぇ……私一度試してみたことあるのだけれど、結局のところ演奏に忙しかったからそれどころじゃなくて“お客さんみんなカボチャだ”って意識できなかったのよねぇ」
嘆息混じりに過田先輩が答えた。すると、頤に指を当て考え込んでいた綾野さんが過田先輩を向く。
「じゃあ、過田先輩はいつもどうしてはるんですか?」
「私?いつも緊張してるけれど」
「えっ!?そうなんですか!全然そうは見えないんですけど」
「悟られないようにしているだけよ。いつも心臓がバクバクしているもの」
その事実に私たちは目を丸くさせた。いつも凛としてそのような雰囲気を一切感じなかったからだ。
「じゃあ、やっぱりええ方法ってないんかぁ……」
肩を落とす綾野さん。そんな彼女の姿をどうにかしてあげたいという感情が沸き上がる。そう思った瞬間、知らずのうちに私の手が綾野さんの肩に手をのせていた。
「ひゃう!?椿さん?」
「大丈夫よ。綾野さんだけが緊張しているわけじゃない。私も、みんな緊張してる。綾野さんだけじゃない。だから、その気持ちで繋がってる。一人じゃないのよ」
一瞬呆気にとられまじまじと私の顔を見ていた。言い終え手を離し、今更自分らしくない行動に気付き、かっと首筋に熱を感じた。
「あっ、これはその……」
「……うん、そうやね。私だけがうじうじしてたらあかんよな!」
そう呟き、照れるように笑った。その笑顔に安堵し私も笑うことが出来た。
「ありがとう、椿さん。それにしても椿さんも随分変わったなぁ」
「えっ、そ、そうかなぁ……」
「そうねぇ、初めは大人しい印象だったけれど、意外と行動的だったし最初のイメージとは違っているわね」
「……同感」
口々に持て囃され身体がさらに熱くなる。
たしかに変わりたいと願った。
何度も不安になって心が折れそうになったこともあったけれど、友人を作ることができ、遠ざけていたギターをもう一度手に取ることが出来た。
でも、元をたどればそれは彼女との出会いが契機だった。
私は隣の少女に視線を向ける。
彼女はそれに気づき恥ずかしそうにだけれども朗らかな笑みを私に向けてくれた。
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