地獄の淵の一匹の怪物

Meg

第1話 地獄の淵のできごと

 地獄の片隅の暗闇の中、血の池には、人間の男や女たちがプカプカ浮いていた。血の池の岩の上からは、獄卒ごくそつの鬼たちが、苦しそうな彼らの様子を見物し、ケラケラ笑っている。

 池のふちで、一匹の怪物がその様子を眺め、人間たちや鬼たちをあざ笑っていた。怪物はブヨブヨとした半分液体のアメーバのような姿をしていて、決まった形を持たない。

 ふと、鬼めらが怪物に気づき、怒号どごうをあげて石を投げ、矢を放った。怪物は芋虫いもむしのように体をしきりに伸縮させ、急いでその場から離れた。



 怪物は獄卒ごくそつの来ない場所まで逃げた。走り疲れ、そこらの岩にもたれかかる。

 自分がいつ、どうやって生まれたのか知らない。気づいたら、いつも獄卒の鬼や、亡者どもに攻撃され、うらまれ、呪われていた。だから怪物も、獄卒の鬼や死者たちを攻撃し、呪い、恨んだ。

 うとまれ、嫌われ、石を投げられても、今更なんとも思わない。奴らにも同じことをしてやる。傷つけてくる奴は傷つけてやればいい。誰も頼らない。誰も信じない。誰も愛さない。

 ずっとそうして生きてきた。そうしないと生きていられなかった。

 一方で、怪物は時々地獄へ送られた人間が見せつける、愛というものへ憧憬どうけいもひそかに持っていた。愛を受けた人間は、地獄の中でどんな責め苦にあっても心地良さそうにしていた。怪物は、自分にはそれが絶対に手に入らないとわかっていながらも、その心地良さを味わってみたいと思っていた。



 ある日のこと、怪物は血の池のふちに、人間の女の死体が転がっているのを見つけた。

 魂は抜けている。おそらく魂だけ極楽ごくらくへ飛んでいき、体だけ何かの間違いで地獄へちたのだろう。地獄ではたまにそんな偶然がある。傷一つなく、真っ白で肉付きのいい女の体は、上等な布でできた洋服をまとっていた。

 怪物は思った。おそらく何不自由ない暮らしの中で、誰からも愛されてきた女なのだろうと。憎しみがむらむらわいた。怪物は緑色のドロドロとした腕を伸ばし、女の体を真っ二つに引き裂いた。血の池に投げ捨てようとする。

 だが、腕を止めた。

 引き裂いた女の体の中に、空洞がある。ちょうど怪物が入れそうなくらいの大きさだ。怪物は裂けた女の体をまじまじと見た。

 もしこの女の体をかぶって地上へのぼれば、人間の世界で裕福な暮らしができるかもしれない。獄卒に傷つけられることもなく、大切に扱われるかもしれない。人間の愛を受け、憧れていた心地良さを味わえるかもしれない。

 怪物は恐る恐る空洞に入った。



 女の体をかぶった怪物は、地獄の淵から地上への道をひた走った。途中、何人もの獄卒の鬼たちが、怪物を追いかけた。地獄から地上に昇るのは禁忌きんきである。

 怪物はひたすらに走った。次第にあたりが濃霧のうむに包まれる。地上に近づいてきたのだ。獄卒の鬼たちも、もう見えない。

 霧の向こうへと急いだ。

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