ヴェンツェル王への貸付け提案

 ある日、私は父フリードリヒ5世にローマ王であるヴェンツェル王に金を貸し付けることを提案した。

 私がヴェンツェル王に金を貸し付ける提案をしたところ、父は露骨に顔を顰める。

 カール4世に重臣として仕えていたため、ヴェンツェル王の人となりも見聞きしており、ヴェンツェル王への貸付けには否定的な様だ。

 ヴェンツェル王は、はっきり言ってしまえば暗愚であり、享楽的な人物である。政治に対する関心も低く、父であるカール4世に比べると、統治能力は雲泥の差があった。

 ヴェンツェル王が不遇なのも、ヴェンツェル王だけで無く、父のカール4世が負の遺産を引き継いだこともあるのだが。


 ヴェンツェル王は、カール4世から1373年にブランデンブルク選帝侯位を与えられ、1376年のフランクフルトにおけるローマ王選出の選挙で、選帝侯の全員一致でローマ王に選出された。

 こうして、ヴェンツェル王は父カール4世の後継者として内外に明確に認められる。

 しかし、カール4世がヴェンツェル王をローマ王にするため、選帝侯を買収する資金を調達する必要があった。

 そのため、カール4世は自治都市に税金をかけたのである。それに反対した自治都市たちが「シュヴァーベン都市同盟」を結成してしまう。

カール4世はこの同盟を許可せざるを得なかった。しかし、この同盟はヴェンツェルの治世に後々に渡るまで災いをもたらすこととなる。

 また、カール4世は自ら定めた金印勅書に違反し、同盟を許可したことで、帝国諸侯たちを憤慨させることとなった。


 1378年にカール4世が崩御し、カール4世の遺領は、カール4世の3人の息子たちによって分割相続されている。

 ボヘミア王国を主とするカール4世の領地の大部分はヴェンツェル王が相続したものの、ヴェンツェル王が父から与えられたブランデンブルクは弟のジギスムントに与えられることとなった。また、末弟のヨハンはラウジッツの都市ゲルリッツを相続している。

 この分割相続によって、ヴェンツェル王が継いだルクセンブルク朝宗家の力は弱まることとなった。

 カール4世の息子たちとは別に、彼らの従兄弟であるヨープストは、ボヘミア王国に隣接するモラヴィア辺境伯領を父親から相続し、統治している。


 ヴェンツェル王は、1379年からローマ王としての親政を始めたものの、自身をローマ王にするための資金調達から生まれたシュヴァーベン都市同盟と対立せざるを得なくなり、諸侯と団結して都市同盟との戦争に突入することとなった。

 この戦争には、カール4世の重臣だった父も加わっている。ヴェンツェル王はルクセンブルク朝宗家の当主であり、兄ヨハンの義兄となる人物だ。

 兄とマルガレータ皇女の婚姻が成っていないので、ルクセンブルク宗家当主のヴェンツェル王の味方をしない訳にはいかない。

 ヴェンツェル王のために出兵する訳だが、そのためには戦費が掛かっているのだ。


 父フリードリヒ5世としては、財は蓄えているものの、なるべくは金を使いたくないのだろう。

 しかし、私が父にヴェンツェル王への貸し付けを勧めるのは、ヴェンツェル王は後に従兄弟のユープストに借金し、返済する代わりに本貫地であるルクセンブルク公領を譲り渡すからである。

 ルクセンブルク公の叔父が亡くなり、相続した本貫地ルクセンブルク公領を返済に充てるくらいであるから、債務返済能力が無いのか、ルクセンブルクに愛着が無いのか分からないが、上手く行けば、モラヴィア辺境伯ユープストの代わりにルクセンブルク公領を手に入れることが出来るかもしれない。

 何しろ、兄ヨハンはマルガレータと結婚すればヴェンツェル王の義弟となるのである。借金のカタに、ルクセンブルク公領を譲られてもおかしくはないだろう。


 しかし、父フリードリヒ5世にルクセンブルク公領が手に入るかもしれないからとは言いづらいので、借金の返済に領地を与えられるか、もしかしたらフランケン公領の創設を認めてもらえるかもしれないと言うと、父は悩み始めていた。

 父は領地以上にフランケン公領に惹かれた様だ。フランケン公領創設は、公にはなっていないが、我がホーエンツォレルン家がニュルンベルク城伯として勢力を拡大している中での悲願と言える。

 後にフランケン公領を創設するため、私ことフリードリヒの子孫たちで、ブランデンブルク選帝侯の分家であるブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯やブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯たちが、フランケン公領創設のため、第一次辺境伯戦争と第二次辺境伯戦争を引き起こす。

 第一次辺境伯戦争を起こすのは、私の末子であるアルブレヒト=アヒレスであるが。

 両戦争で敵対するのが自由都市ニュルンベルクであり、ニュルンベルク城伯であるホーエンツォレルン家とは敵対関係にあるのだ。

 それは、長らくニュルンベルク城伯としてニュルンベルクを統治してきた当家であったが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が、ニュルンベルク市に対して自治権を認める自由都市としての勅許を与えてしまったため、ニュルンベルク城伯は、ニュルンベルク城(皇帝の城をであるカイザーブルクと、城伯の居城であるブルクグラーフェンブルク)を管理するだけの地位になってしまったのである。

 そこから、ニュルンベルク城伯とニュルンベルク市の対立は本格化することとなった。

 当家は、フランケン地方での勢力拡大に勤しみ、クルムバッハやアンスバッハなどを獲得し、フランケン地方に大きな領地を得ることとなる。

 1273年にハプスブルク家の皇帝ルドルフ1世がニュルンベルクの皇帝管轄の地方裁判所をフリードリヒ3世に託しており、ホーエンツォレルン家にとってこれは、政治的影響力を強める恰好の道具となった。

 かくして、フランケン地方で大きな領土と権力を獲得したホーエンツォレルン家は、公にはしないものの、フランケン公領創設を密かな野望としていたのである。


 結局、父はフランケン公領創設と言う欲望に負け、私の提案を受け入れてヴェンツェル王へ貸し付けをすることとなった。

 個人的には、ブランデンブルク辺境伯領が欲しいが、モラヴィア辺境伯ユープストがハンガリー王ジギスムントからブランデンブルク辺境伯領を得たのは、莫大な借金だけで無く軍事援助をしたのも大きい。

 ヴェンツェル王に与してシュヴァーベン都市同盟と争っている当家が、ハンガリー王に軍事援助するのは難しいからな。

 何とかして、ヴェンツェル王からルクセンブルク公領を毟り取れると良いのだが。そうすれば、父の領地を兄と分割相続する際に、兄はルクセンブルク家の娘婿としてルクセンブルク公領を相続しないといけないので、私がフランケンの領地を相続することとなるだろう。


 この後、私は父にヴェンツェル王へ貸し付ける様に誘導し続けることとなった。

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