第35話ー③ 七夕

 織姫は走っていた足を止めて、誰もいないトイレに籠る。


「はあ……はあ……すう」


 織姫はそこで荒れている息を整え、さっきのことを後悔していた。


 弦太からのせっかくの提案を自分は素直に受け入れられなかった。どうしてそうしてしまったのかはわからない。素直に『会いたい』といえば済んだことなのに……なんでそれができなかったのか――と。


「なんで素直になれないのかな。思っていることをちゃんと伝えないと、相手には伝わらないことくらいわかっているのに……」


 会いたくないはずはない。織姫は自分が奏多に会いたいと思っていることをわかっていた。


 でも会うことが怖かったのかもしれない。


 もうずっと会っていない奏多と何を話せばいいのか、織姫は正直なところ、わからなかった。


 なんなら、こんなお子様のことなんて奏多はもう眼中にないのかもしれないと織姫はそう思っていた。


 大人になればなるほど、自分の価値のなさに気が付き、自分の傍から去っていく。織姫と今まで関わった大人たちはみんなそうだった。


 親戚も両親も……。だからもしかしたら奏多ちゃんだって――。


 もしそうだとしたら、自分の中にある奏多との楽しい思い出に傷がつくことにもなる。それは絶対に嫌だと思っていた織姫。


 織姫は、あの時のきれいな過去のままにしておきたかった。


 だから今は孤独でもいい。過去の奏多ちゃんの目に私が移っているならそれで――。


「はあ。授業が始まっちゃう……」


 それから織姫はトイレを出て、教室へと向かった。




 そしてしばらくすると、織姫は奏多が留学のために海外へ飛び立ったことを知らされた。それは織姫が中学生になった春のことだった。


 桜が咲き乱れる景色を机に肘をつきながら見つめる織姫。


「入学式にも来られないなんて……はあ」


 そう言いながら、織姫は大きなため息をついていた。


 中学生になっても、織姫は今までと変わらず孤独な日々を過ごしていた。


 そしてそんな織姫とは真逆に、弦太は忙しそうな日々を送っているようだった。


 神宮寺家次期当主としていろんな人たちへの顔見せだったり、父に着いて仕事の勉強をしたり。


 なんで弦太ばかりなの? 私は誰にも見てもらえないのに――


 織姫はそんな弦太への嫉妬と劣等感を募らせる。


 本星崎家という名家に生まれた織姫だったが、織姫の名前は本星崎家の跡取りの話の中で一切あがらない。女に生まれた時点で、跡取り問題から除外されているからだろう。


 だから両親は、私に興味がないのかもしれない――。


 織姫はいつしかそんなことを思うようになっていた。


(父様も母様も何も言わないけれど、なぜ生まれたのが女なんだと思っているんだろうな)


「はあ」


 織姫はため息をつきながら、部屋のベッドに寝転んだ。


 そして額に手をあってて目を瞑り、視界に何も入れず、そこにある無を感じていた。


 こうしているときが一番リラックスできて、とても安心する。


 今日はこのまま眠ってしまおうかと織姫そう思っていると、部屋の扉をたたく音が聞こえた。


 織姫は目をあけて、


「はい」と答えた。


「織姫、起きていますか?」


 それは久しぶりに聞く、母の声だった。


 織姫はその声を聞き、すぐに部屋の扉を開けた。


「おかえりだったんですね! お久しぶりです、母様」


 織姫は久々に会う母に、心が躍っていた。


「元気そうで何よりです。……部屋、入ってもよろしいかしら」


 母はそう言いながら、織姫の部屋を指さす。


「ええ、どうぞ」


 そう言って、織姫は母を部屋へと招いた。


 母は織姫の部屋にあるソファに腰を下ろす。


「今日はどうされたのですか? ご帰宅されても、あまり私のお部屋に来ることなんて……」

「今日は織姫にお話しがあって参りましたの」

「私にお話しですか……」


 わざわざ母様が私の部屋に出向いてまでしたい話って何なんだろうか――。


 織姫はそんなことを思い、首をかしげる。



「ええ、今度本星崎家が主催のパーティを開催することになりました。そこに織姫の参加が決まったことの報告をと思いまして」


「パーティ、ですか……」


「業界のお偉方が多数いらっしゃる大切なパーティです。将来の伴侶となる殿方と出会うきっかけにもなりましょう。それに神宮寺家の弦太君も参加することになっているので、織姫もきっと淋しくはなりませんよ」



 そう言って微笑む母の顔を見て、織姫の表情は曇る。


「そうですか……」

「それでは話は以上です。私は仕事に戻りますね。当日までに、マナーのレッスンに励んでください。くれぐれも本星崎家の顔に泥の塗ることのないように。では」


 母様は笑顔で織姫にそう告げた後、部屋を去っていった。


「将来の伴侶、か」


 もうそんなことを考えなくちゃならないなんて……。なぜ私は男に生まれなかったのかな。女じゃなければ、私はこんな思いをせずに済んだかもしれないのに――。


「はあ」


 織姫は深いため息をつき、再びベッドに寝転んだ。

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