第187話 寝技の鉄則

 そう思い、アーニャの細い腕を取ろうとした瞬間、奴はまるで、蛇を思わせるようなしなやかな動きで、俺の体の下から抜け出し、気がついた時には、背後に回っていた。


 驚く間もなく、俺の首に、何かが巻き付いてくる。


 それがアーニャの腕であり、奴がチョークスリーパーをかけてきたのだと気がついた時には、もうガッチリと腕が首に食い込み、逃れることのできない状態になっていた。


 一旦は俺が有利な体勢になったはずなのに、こうも簡単に、後ろを取られるなんて……っ。


 ギリギリと俺の首を締め上げながら、耳に吐息がかかる距離で、アーニャが甘く囁く。


「さっきのは、なかなか良いタックルだったよ。でも倒した後、数秒、どうするか悩んじゃったでしょ? それじゃあ駄目駄目。倒したら、間髪入れずに有利なポジションを作り上げるのが、寝技の鉄則だよ。ジムで教わらなかった?」

「うっ、がっ、くそっ……!」


 余計なお世話だ!

 もちろん習ったよ!


「あるいは、僕を倒そうとしたとき、首を掴みながら、後頭部を地面に激突させれば、大ダメージを与えられただろうにね。そういう攻撃方法は、思いつかなかった?」


 思いついたよ。

 タックルに行く前に、ちょうど、お前の細い首が視界に入ったからね。


 でも、できなかった。

 そんなことをすれば、小さな首の骨が、激突の衝撃で折れてしまいかねないと思ったからだ。


「……やっぱり、僕が子供の姿だから、そういう『えぐい』攻撃はしたくなかったってことかな? 本当に、優しいんだねえ」


 クソッ……息が、できない。

 酸素の供給を止められた脳に『大体の格闘技はできる』という、アーニャの言葉が思い浮かぶ。

 打撃だけじゃなく、寝技も高いレベルで扱うことができるってことか。


 クソッ。

 こうなってはもう、どうしようもないことは分かっている。

 だが、それでも俺は、みっともなくも激しく暴れ、抵抗を試みた。


 不意に、アーニャの締め上げる力が緩む。

 なんだ?

 暴れた際に、俺の後頭部が、アーニャの顔面に当たったりしたのか?


 ……そうではなかった。

 アーニャは、いつの間にか俺から数メートル離れた場所にいて、右耳に手を当てながら、何やらぶつぶつと話している。


 恐らく、再びご主人様から通信が入ったのだろう。

 短く、「はい」「なるほど」「はい」と返事をした後、アーニャは「わかりました」と言い、ぺこりと頭を下げ、耳から手を離す。


 それから俺に向き直って、優しく微笑んだ。


「お疲れ様。ご主人様が、『もういい』って」

「な、なに? がはっ、ごほっ……『もういい』って、どういう意味だ?」


 解放された喉をさすり、咳込せきこみつつ、掠れた声で問う。

 アーニャは、再び歌うように呪文を唱え、元の姿に戻りながら、答えた。


「僕が子供の姿だと、きみはイマイチ真剣になれないみたいだから、もういいってさ。真剣味のない戦いなんて、見てても面白くないんだって」


「か、勝手なこと言いやがって……!」


「かといって、僕が元の姿で普通に戦ったら、まず間違いなく、きみを殺すか、大怪我させちゃう。だから、もうめちゃくちゃに手を抜いて戦うしかなくなるんだけど、そんな勝負に真剣味なんてあるわけないもんね。だから、今日の勝負はこれでおしまい。引き分けってところだね」


「……何が引き分けだ。お世辞はよせ。誰がどう見ても、俺の完敗だろ」


「そんなことないって。わりと良い勝負だったよ。さっきのタックルなんか、なかなか鋭くてビックリしちゃった。きみが、子供に大怪我させることを躊躇しないような性格なら、今頃、僕の首の骨は、ポッキリいってたかもしれない。これでも、けっこう焦ったんだよ?」

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