第164話 やわらかくなあれ

 頭に浮かんだ疑念を、とりあえず心の隅へと追いやって、俺はアーニャの言う通り、シルバーメタルゼリーだった頃のことを思い出す。


 うぅっ……かえがえすも、嫌な思い出ばっかりだ。

 欲に駆られた冒険者どもに追い回された日々が、今でも鮮明に思い浮かぶ。


 しかし、必死なのもあってか、あの頃の方が今よりも俊敏だったな。

 体もトロットロの軟体で、素早い攻撃も無茶な姿勢で避けることができた。


 ああ、でも、毎日きつかったなあ。

 特に、寝てるときにいきなり襲われるのが、本当にきつかった。

 ううぅ、思い出してたら、なんだか泣けてきたぞ。


 瞳を閉じ、昔に戻ったつもりで、ただひたすらに嫌~な記憶を回想していると、突然アーニャの声が、響いてくる。


「おっ、いいよ、いい感じ。体が柔らかくなってきてる」

「えっ、マジで?」


 言われて、自分の体を見る。

 ……別に、大きな変化は感じない。

 俺は不満げに、ぶーたれる。


「何も変わってないんすけど」

「そんなことないって。ほら、試しにここに向かって、パンチを打ってごらん。位置はそのまま、動いちゃ駄目だよ」


 アーニャは、俺から3メートルは離れた位置で手のひらを前に出し、そこにパンチを打てと身振りで表現する。


「アホか! 届くわけねーだろ! そんな距離、手長族のパンチでも届かんわ!」

「手長族って何さ……。そんなことより、ほら、打ってごらんって、早く」


 反論するのも馬鹿らしくなってきた俺は、溜息を吐き、やる気なさげに、アーニャの手に向かってパンチを放った。


 ビュンッ。

 風を切る、良い音がした。


 少し遅れて、パァンッと、アーニャの手にぶつかる、俺の拳の音。

 自身の右手に手ごたえを感じ、唖然とする。


「えっ、嘘っ、マジで届いた。っていうか、一瞬だけど伸びたぞ、俺の腕」

「そんなに驚くことないでしょ? 見た目は人間だけど、体を構成してる細胞は、軟体のシルバーメタルゼリーのものなんだから。ちゃんと自分は魔物なんだって意識を持てば、ある程度は柔軟に伸縮できて当然だよ。まあ、基本的に人間の形で固定されちゃってるから、伸ばせるのはせいぜい腕か足くらいかもしれないけどね」


 マジかよ。

 こりゃ凄い。


 アーニャは『伸ばせるのはせいぜい腕か足くらい』と言ったが、腕と足が伸びるのは、武術家にとって大変なアドバンテージである。相手の間合いの外から、不意を突いて攻撃できるのだから。


 俺は高揚し、はしゃぎながら声を上げる。


「凄いなこれ! なるほどなるほど、お前の考えが読めたぞ。この伸びるパンチで、ジョン・ブロップの間合いの外から、いきなり攻撃しろってことだな!」


「駄目駄目。素人相手ならともかく、こんな、ただ射程が伸びただけのパンチ、それなりの使い手なら簡単にかわしちゃうよ」


「えー……そんなあ……」


「だいたい、攻撃力が足らないよ。ジョン・ブロップは、身長190cm近い巨漢。君のパンチ力じゃ、たとえ不意打ちしたとしても、一撃で昏倒させるなんて無理な話だよ」


「ちぇっ、じゃあどうすりゃいいのよ」


「やることはあと二つ。まずはパンチの打ち方を変えてみて。さっきみたいに、腕を軟質化させた後は、普通に打つんじゃなくて、鞭を振るうようなイメージで、しならせて打つの」


「俺、鞭振ったことないんだけど……」


「口答えしないの。イメージでいいの、イメージで。誰かが鞭を振るってるところくらい見たことはあるでしょ? ほら、さっさとやる。また、僕の手のひらを狙ってごらん」


「はぁい」


 イメージ……腕を柔らかく……体も柔軟に使って、しならせる。

 こんな感じかな……それっ。


 ピシャァッ!

 雷鳴のような音がして、アーニャの手のひらが軽く後ろに飛んだ。


 おおっ、さっきより、はるかに素早くて、鋭い一撃。

 手ごたえも凄い。

 打ち方を変えただけで、こんなに変わるものなのか。

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