ひとり
@aki0125
第1話
列車は暗闇の中を進んでいく。
踏み切りを通り過ぎる時だけ、ふっとその明かりが車内を照らし、自分が今、地上を走っていることを思い出す。でも、それは一瞬で、すぐに何もない空間に浮かんでいる錯覚にとらわれてしまう。
今日は仕事が長引いて、こんな時間になってしまった。終電に間に合おうと、駅までの道を走ってきたせいで、体が重い。
他に誰もいない車内で、窓辺にもたれかかり、閉じそうになる目蓋を必死に持ち上げる作業を、延々と続けていた。
「…ちゃん」
何かが聞こえた。古い車体がきしむ音にかき消されて、よく聞き取れない。
それに、目の前は真っ暗だ。
「お姉ちゃん」
今度ははっきりと聞こえた。誰かの声。
それと同時に、自分が睡魔に負けて寝てしまっていたことに気づいて、あわてて顔を上げた。
いつのまにか、目の前の座席に男の子が座っていた。
小学校の3、4年生ぐらいだろうか。さらさらの黒髪に蛍光灯が反射して、まるで天使の輪のように見える。華奢で、半ズボンから出た足は透き通るように白かった。
「あ、あの…」
私が急に顔を上げたのに驚いたのか、男の子は困ったようにうつむいてしまった。
「こ、」
こ…?
「…こんばんは」
小さな声で、男の子はそう言った。眠気の残る頭をなんとか動かして、私は言葉を返す。
「こんばんは。」
『次はー、洲原ー、洲原ー。お出口、左側です』
眠たげな車内アナウンスが流れ、列車が減速を始める。やがてホームの明かりが、まるで疲れきった旅人を暖かく迎える宿の玄関のように、車窓に広がった。
駅名を確認する。降りる駅は過ぎていないようで一安心だ。
クリアになり始めた思考は、目の前の男の子のことを考えていた。
「えっと…一人?」
「うん」
こんな時間に子供が乗っているなんて、珍しい。塾の帰りにしても、少々遅すぎるような。
暖かそうなベージュのコートに白いマフラー。首にかけたポーチは、何が入っているのか、はちきれそうに膨らんでいた。
「どこで降りるの?」
「八坂」
自分と同じ駅だ。でも、どこの家の子だろう。
私の住む町は、過疎の最先端を突っ走っている。住民のほとんどは高齢者で、家族連れは見たことがない。
『白鳥行きー、発車します』
列車のドアがしまり、エンジンが低いうなり声を上げる。
「そういえば、さっき、私のことお姉ちゃんって言ってたよね。」
「え…と、それは…」
「前、会ったことあるっけ」
「…」
男の子は頬を染めてうつむいてしまった。
流れていく駅の電灯が、男の子の頬を照らしていく。
きっとすごく内気な子なんだろう。余計なおせっかいかもしれないが、学校で、苦労してないといいけど。
「綺麗」
知らないうちに、そんな言葉が私の口から出ていた。
「え、何…?」
「あ、いや、…あっちのほう、車のライト、綺麗だねって」
私は慌てて、山の合間を走る高速道路を指差して、そう言った。
「…うん、きれい」
そう言って男の子は、窓枠に手をかけて遠くを見つめる。
私はさっき、何を、綺麗と思ったんだろう。
なんだか、この子と話していると、まるで冬の空気のように、心が澄んでいく気がした。
ドアが開くと、冷え切った風が顔に吹きつける。マフラーからはみ出した耳の上半分に、まるで金属を押し当てられたような痛みを感じる。
ホームに降りて振り返ると、男の子もすぐ後について降りてきた。毛糸の帽子を耳まで被り、マフラーに隠れた口元からは、白い吐息が小刻みに漏れていた。
当然ながら、ホームに他に人影はない。運転手が短く笛を鳴らす。
列車はまるで、もうここに用はない、というように加速していく。
遠ざかるライトをしばらく二人で見ていた。
「寒いから、いこっか」
そう声をかけると、男の子は小さく頷いた。
駅舎の灯りがロータリーをぼんやりと照らしている。道の反対側にある売店はもう明かりが消えていて、その先は闇夜が続いていた。
「迎えは?車、まだ来てないみたいだけど…」
バスは数時間前に最終便が出ている。てっきり、家の人が迎えに来ていると思っていた。
「…ない」
「え?」
「迎え、来ない」
「じゃあ、こっから歩いていくの?でも…」
男の子は首を横に振る。
駅から歩いていける距離の民家は、ほとんど無い。こんな時間に子供を一人で歩かせるというのも、危なっかしい。
「どこの家に行きたいの?私、車だから、送ってあげるよ。」
「あの、えっと…」
「ん?」
「家、ない、です…」
「家が無いって…でも、これからどこかに泊まるんだよね」
「…」
男の子はどう説明したらいいかわからないようで、そのまま黙ってしまった。
もしかして家出とか?適当に電車に乗ってここまで来た、みたいな。
そしたらまず保護者に連絡…その前に連絡先、聞かないと。
「ねぇ、お父さんか、おか…」
そう言いかけて、男の子の瞳が潤んでいるのに気づく。手袋越しに、ポーチの紐を握りしめていた。
訳ありっぽいな…それに説得は簡単じゃなさそうだ。
「そうだ、交番」
今更ながら駅の隣に交番があったのを思い出す。警察ならきっと何とかしてくれるだろう。
そう期待して交番の前まで走る。が、赤色のランプが寂しく灯るだけで、中の明かりがついていない。
ドアに貼り紙があった。
『本日は当直者が不在です。緊急の場合は110番へ。』
「えぇ…」
思わず声が漏れてしまう。そういえば少し前に、警察署の組織改編の影響で、一時的に交番を開ける日を減らした、と聞いた気がする。これも過疎の影響なのか…。
北風が駅前のがらんとした空間を吹き抜ける。
「クシャン…ずびっ」
少し遅れてついてきた男の子がくしゃみをして、小さく鼻をすすった。
「うーん。まぁ、しょうがないか。」
暖をとれる場所は辺りに無い。ひとまず休ませてから、警察か保護者に連絡しよう。
「私の家、来る?」
男の子は一瞬目を大きくして私を見つめた後、
「うんっ」
とこれまでで一番はっきりした、でも相変わらず線の細い声で返事をした。
ここは暗いのに、男の子の瞳は、まるで星空のように輝いていて
綺麗
と、こんどは心の中で呟いた。
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