外伝
グラスター戦記外伝 残り火①
そろそろ昼休憩が終わる頃だ。
ロイは手にした剣を近くの木に立て掛けると、枝に引っかけておいた手拭いを取って汗を拭った。
「ふぅ……」
五月のさわやかな風が火照った身体に心地よい。
昼休憩時に家の裏手にある空き地で剣の素振りをする。それが日課だった。どんなに忙しくても一度も欠かしたことがないのがささやかな自慢である。
と言っても、ロイの職業は騎士でもなければ冒険者でもない。鍛冶職人である父の下で働く鍛冶師見習いだ。鍛冶職人の工房は日常的に火を扱うこともあって、街の郊外にあることが多い。ロイの実家もその例に洩れず、街の北東部にある市場から少し外れた場所にある。生活するには少々不便だが、おかげで近所に気兼ねすることなく剣を振り回すことができるのだ。
「さて、そろそろ戻るか」
ロイは剣を手に取り、母屋に隣接する工房へ向かう。
歩くときはどうしても片足を引きずりながらになってしまう。
かつて魔獣ヴァルラダンとの戦いで負った傷は神聖魔法では完治できず、右足の膝から下は今も麻痺が残ったままだ。踏ん張りがきかないせいで最初はよく転んだものだが、最近ではだいぶ慣れ、日常生活を送る分には支障はなくなっていた。
ひょこひょこと数歩進んだところで、母屋から姉のローレアが出てくるのが見えた。小走りに近寄ってくる。その顔には「やっぱりここにいた」と書いてあった。
「まったく、またこんなところでさぼって!」
姉が腰に手を当てながら言った。
「さぼってねぇ。昼休憩中だ」
「何言ってるの。もうとっくに終わってるわよ。他のみんなはとっくに作業再開してるし、お父さんはロイの野郎はどこへ行ったーって怒鳴ってる」
「……おぅふ」
どうやら集中し過ぎて時間感覚が麻痺していたらしい。
遅刻はゲンコツ案件である。鍛冶仕事で鍛え上げられた父の腕力はなかなかのもので、拳は鉱石よりも硬いとご近所でも評判だった。来たる惨劇を想像し、ロイは思わず頬を引きつらせた。
父ジャレットはグラスターでも有数の鍛冶職人で、その腕を見込まれて騎士団の装備品や馬具の鋳造、修繕などを請け負っている。
つい先日、南の大森林で妖魔の大侵攻が発生し、大規模な討伐軍が編成された。騎士団が動員されれば鍛冶屋が忙しくなるのは必然で、ここ数日はまさに目の回るような忙しさだった。
幸い、その討伐軍が勝利したという情報がもたらされたことで街には平穏が戻ったが、今度は先に帰還した即応部隊の仕事が舞い込んできたことで忙しさは継続中である。そんな状況下での遅刻となれば、父が怒るのも至極当然と言えた。
「なんでもっと早く呼びにきてくれないのさ」
言い掛かりなのを承知でロイは文句を言う。
「甘えるんじゃないの。ちゃんと気を付けてれば防げたことでしょ」
「相手がルークだったら呼びにきたくせに」
「当然よ。そもそも、あんたと違ってルークは遅刻なんてしないし」
「色ボケ女」
言った瞬間、頭を叩かれた。
「ってぇな! この暴力女! その凶暴な本性を知ったらルークもきっと結婚を考え直すだろうな!」
姉が無言で拳を振り上げる。
「嘘です。冗談です。ごめんなさい」
ロイは両手で頭を庇いながら全面降伏した。
ルークは父の一番弟子で、鍛冶師としての腕も良く、真面目で誠実な青年である。ロイも兄のように慕っている。そのルークと姉のローレアは、つい先日結婚することが決まったばかりだった。今の仕事が一段落ついたら、ルークの出身地であるキルクアムの街にふたりで店を出す予定なのだ。
ずっと一緒にいた姉が街を出ていくのは寂しいが、それ以上に姉が幸せになるのは弟として喜ばしかった。無論、口には出さないが。
「まったく……いいから、さっさと仕事に戻りなさい」
姉が振り下ろした拳を再び腰に当てて言った。
「いや、慌てて行ったところでゲンコツ確定だから、ゆっくり行く」
「呆れた……。ところでお昼ご飯はちゃんと食べたの?」
「食べたよ」
「嘘おっしゃい。ちゃんと食べないと、午後がもたないわよ」
「一食くらい抜いても大丈夫だって」
「まったくもう……。あとで残り物を持っていってあげるから、ちゃんと食べなさい」
ため息を吐いてから母屋へ戻っていく姉の背中を、ロイは見つめた。
姉は素振りを続けていることについて何も言わないでくれている。それは姉だけでなく、父や母も同じだ。
もう騎士訓練兵ではないのに、なぜ剣の稽古を続けているのかと問われたら、他人を納得させられるだけの理由を用意できる自信はロイにはなかった。
正直、自分でもよくわかっていないのだ。
ロイは手にした剣に目を落とす。習作として打った剣で、とても売り物にはならない酷い出来栄えである。
その不格好な剣が、今の自分と重なって見えた。
鍛冶の修行に身が入っていないという自覚はあった。素振りをする暇があるのなら、もっと鍛冶について学ぶべきだ。実際、兄弟子たちは寝食を惜しんで腕を磨いている。
残り火――そんな言葉が、ふと脳裏に浮かんだ。
騎士への未練……なのだろうか。
別に最初から本気で騎士を目指していたわけではなかった。
幼いころは父に憧れて一流の鍛冶師を目指していた。実際、十二歳から十四歳までの二年間、父の知り合いでもある王都の鍛冶職人の下に、自ら望んで修行に出ていたくらいだ。
ところが、王都での修行を終え、さぁ父の下で腕を磨くぞと意気込んだ矢先、なぜか騎士訓練場に入ることになった。「剣を鍛える者はその扱い方についても知らなければならない」というのが、父の言い分だった。
最初は納得がいかなかったが、訓練兵として剣の修練を積んでいくうちに、父の言いたいことがなんとなく理解できるようになった。
一流の職人は、ただ画一的に良い物を作るのではなく、使い手の心情を汲み取り、その個性に合わせた物を作る……。
ロイは多くの騎士や訓練兵と交流することで、その重要性を理解した。一見遠回りのようだが、自身が使い手の立場になったことで、職人にとって大切なことを学ぶことができたような気がした。
ただ、同時に訓練場での生活はロイの心に変化も生じさせた。
特に、ランドルフやストルアンといった人々を守るために命懸けで戦う若き騎士の姿は鮮烈で、純粋な憧れの気持ちを抱かせてくれた。
元々調子に乗りやすく、周囲の影響を受けやすい性格だったこともあっただろう。
ロイは本気で騎士を目指す同年代の仲間達と寝食を共にし、訓練に明け暮れるなかで、自然と「自分も騎士になりたい」と思うようになっていたのだ。
一流の鍛冶職人になるという夢は、騎士を引退した後でも叶えることができる。
我ながら都合が良すぎると思わなくもなかったが、一度目指すと決めた以上は本気で騎士になる為の修練に打ち込んだ。
ただ、自分に剣の才能がないことには、割と早い段階で気付いていた。年下のレナードにはまったく歯が立たず、後からやってきた修介にもあっさりと追い抜かれた。
なんとか付いていこうと必死に努力したが、周囲との差は開くばかりだった。
「ロイは鍛冶屋を継ぐんだから、そんな必死にならなくてもいいじゃないか」
他の訓練兵達からそう言われたことも一度や二度ではなかった。
それでもロイは決して折れることなく鍛錬を続けた。
そんな折、あの事件が起こる。
言わずと知れた魔獣ヴァルラダンの出現である。
幸か不幸か、ロイは王都での修業時代に攻城兵器の扱いについて学んでいた。その経歴を買われて、騎士見習い兼技師として調査団に加わることができた。
ここで手柄を立てれば騎士に取り立ててもらえるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に、戦いに臨んだ。
だが、結果は惨憺たるものだった。
その戦いで、ロイを庇って尊敬する騎士ストルアンが戦死した。自身も右足に重傷を負い、騎士への道も絶たれてしまった。
自責の念と絶望に押しつぶされ、一時期は死ぬことすら考えた。
立ち直れたのは、家族の支えと、友の励ましがあったからだ。
ただ、心の奥底には決して消えることのない騎士への想いがくすぶり続けていた。
どうしたらこの残り火は消えてくれるのか。
最近は毎日そんなことばかり考えていた。
「なに、あれ……?」
ふと、先に行ったはずの姉の声で、ロイの思考は中断された。
姉は扉に手を掛けたまま空を見上げていた。
ロイもつられて空を見上げる。
どういうわけか空がゆっくりと赤く染まりつつあった。
まだ昼過ぎだ。夕焼けになるような時間ではない。
そのとき、周囲からすべての音が消えた。
ロイは二つの真紅の閃光が空を斬り裂くのを見た。
直後に視界が真っ白に塗りつぶされる。
少し遅れて凄まじい爆音と衝撃波が襲ってきた。
「きゃっ!」
爆風にあおられたローレアが転んだ。ロイはバランスを崩しながらも姉の元へ駆け寄り、覆いかぶさった。砕け散った城壁の一部が放物線を描いているのを視界の端に捉えたからだ。そのままの体勢でじっとしていると、地響きのような音が聞こえてきた。どこかに瓦礫が落ちたのだ。
ロイは立ち上がると、姉の手を引いて引き起こした。
「姉さんは先に親父のところに行け!」
「ロイはどうするの!?」
「俺は母さんを連れてくる!」
そう言って母屋へ入ろうとすると、手首を掴まれた。
「それなら私が行った方が早いわ!」
反論するよりも早く、姉の姿は母屋の中へと消えていた。
たしかにこの足では姉が向かった方が早い。
「くそっ!」
ロイは情けなさを無理やり飲み下し、足を引きずりながら工房へ向かう。
工房の外では、父と兄弟子たちが南門の方を見ながら呆然と立ち尽くしていた。
「親父!」
そう呼びかけると、父ははっとしたような顔になった。
「ロイ、母さんとローレアは!?」
「姉さんは無事だ。いま母屋に母さんを見に行ってくれてる」
すると、すぐに姉が母を連れてやってきた。母の顔は蒼白になっていたが、特に怪我をした様子はなさそうだった。ロイは父と顔を見合わせ、ほぼ同時に安堵の息を吐き出した。
「……いったい何が起きたんだ?」
父の問いかけに、ロイは首を横に振った。
「俺にわかるはずないだろうが」
つい口調が父子のときのそれに戻ってしまうが、この状況下ではさすがに咎められはしなかった。
「俺、様子を見てきます!」
弟子のひとり、トーマスがそう言って止める間もなく市場の方へと走っていった。
ロイはあらためて南門の方を見る。遠くからでも、防壁の一部が抉られたようにごっそりとなくなっているのがわかった。堅牢を誇るグラスターの防壁が破壊されるなど、前代未聞の大事件である。
あの赤い閃光はなんだったのか。
今この街で何が起きているのか。
様々な疑問が頭に浮かんでくるが、口にしたところで明確な答えが返ってくることはないだろう。
父も混乱しているのか、一言も発しない。
しばらくして、様子を見に行っていたトーマスが息せき切って戻ってきた。
「た、大変です! 壊れた南門から妖魔の大軍が侵入したって――」
「なんだと!?」父が叫んだ。「討伐軍は勝ったって話だったろう。なぜ妖魔の大軍が街を襲うんだ!?」
「で、でも、領主様のお屋敷から北の街道へ避難するよう勧告が出てるみたいで、大通りは逃げる人で大混乱になってます!」
トーマスの言葉が正しいことを証明するかのように、風に乗って怒号や悲鳴が聞こえてきた。
「本当に妖魔が街に侵入したんだ……」
ロイはそう呟くと同時に、自分の中で何かが弾けたような感覚を抱いていた。
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