第240話 侵攻
領都グラスターは周囲を強固な二重防壁に囲まれた城郭都市である。
外側の壁は街の拡張に合わせて百二十年ほど前に、ドワーフ職人の協力のもと作られたもので、内側の防壁よりも高く、分厚い。その堅牢さはルセリア王国随一とまで言われている。
事実、この百二十年間、街に妖魔の侵入を許したことは一度たりともない。街を囲う防壁は、住民にとって安全な暮らしを約束してくれる絶対的な守護者なのだ。
その守護者が、空から降ってきた深紅の閃光によって、一瞬で消し飛んでいた。
胸壁に立っていた兵士は悲鳴をあげる間もなく蒸発し、周辺にいた者は続く熱風で吹き飛ばされた。
砕けた防壁の一部が上空まで跳ね上がり、流星のように街に降り注ぐ。多くの家屋が押しつぶされ、不運な住民が瓦礫の餌食となった。
だが、それは悲劇の序章にすぎなかった。
街の外で待ち構えていた数千という数の妖魔――
壁の内側で暮らす人々にとって、妖魔は冒険者や行商人が語る非日常の存在だった。
しかし、壁の崩壊によって日常と非日常を分ける境界線は失われた。
突然の襲撃に人々は為す術なく逃げ惑う。あちこちから怒号と悲鳴が上がり、平和だった街は瞬く間に恐怖と混乱の坩堝と化していた。
「おお、神よ……」
壁の崩壊を目の当たりにした神聖騎士ブルームは、とりあえず神に縋ってみた。
だが、すぐに騎士としての本分を思い出し、動揺する心を切り離す。
街の防衛戦略は防壁ありきで定められていた。無論、内部に妖魔の侵入を許した場合の訓練も行われていたが、外側と内側の城門が同時に、それも一瞬で破壊されるというのは完全に想定外の事態である。
加えて、騎士団本部に残っているのはわずかな騎士と、街の治安を維持するために最低限必要な数の衛兵のみ。侵入してきた妖魔の規模はわからないが、たったそれだけの戦力で対処することなど到底不可能だろう。
(ならばどうする?)
ブルームは自分自身に問いかけたが、答えはとっくに出ていた。
彼の任務は領主の娘シンシアを守ることである。
街への侵入を許してしまった以上、街の中に安全な場所などない。
討伐軍がどのような状況にあるかわからない現状で、援軍を当てにして屋敷に立てこもるのは得策ではない。
逃げ惑う民で混乱する北門を避け、西門から街の外へお嬢様を逃がす。
それが最善だとブルームは判断した。
宿舎へ戻ると、ちょうど守るべき令嬢が宿舎の入口から顔をのぞかせたところだった。侍女のメリッサもすぐ後ろに控えている。
「なにごとですか? ものすごい大きな音がしましたが……」
「お嬢様、慰問は中止です。すぐに馬車へお戻りください」
ブルームは表情を殺して事務的に告げた。
その口調からただならぬものを感じ取ったのか、シンシアは表情を硬くする。
「……何が起きたのですか?」
「説明は後でいたします」
「何が起きているのかを先に言いなさい」
思いのほか厳しい口調で命令され、ブルームは仕方なく南門の方角を指し示した。
「南門が何者かによって破壊されました」
「えっ!?」
「街の外には妖魔の大軍がいたとの報告もございます。おそらく、すでに街の中に入り込んでいるはずです」
「で、ですが、南に出現した妖魔はお父様や騎士団の方たちが討伐したと――」
「詳しい状況はわかっておりません。とにかく急ぎここを離れましょう」
ブルームは「さあ」と促した。
ところが、シンシアはその場を動こうとはしなかった。
「お嬢様?」
「……わたくしは行けません」
その声は小さかったが、強い決意が滲んでいた。
「ここにいる方々はどうするのですか? ここには多くの怪我人がいます。なかには満足に動けない方だっているのです。その方たちを置いてわたくしだけ逃げることなどできません」
シンシアがそう言い出すであろうことはブルームも予想していた。
彼女の民を想う優しさと、一度言い出したらきかない頑固な性格については、ランドルフからの申し送りで聞かされていたし、民の窮地に自身の身の安全を考えるようなお方ではないことは、輸送部隊の一件で実際に目の当たりにもしていた。
だが、今回ばかりはそのわがままを許すわけにはいかなかった。
「お気持ちはわかりますが、その者らとお嬢様とでは立場が異なります。お嬢様はこのグラスター領になくてはならないお方。まずはご自身の身の安全をお考え下さい」
「民あっての領地です。守るべき民を見捨てて逃げるわけにはまいりません! わたくしもここに残って皆と共に戦います!」
「失礼ながら、お嬢様がこの場に残ったところで足手まといになるだけです」
ブルームの容赦ない一言にも、シンシアに怯む様子はなかった。
「足手まといなのは百も承知です。たしかにわたくしには戦う力はありませんが、なにかしらかのお役にはきっと立てるはずです」
「お嬢様が命を投げ出すことで民の命が救われるというのならば私も止めませんが、残念ながらそうはなりますまい。となれば、ただの無駄死にということになります」
「かまいません。わたくしはグントラム・ライセットの娘です。最後まで民と運命を共にします!」
興奮するシンシアとは対照的に、ブルームは静かに首を振った。
「お嬢様……あなたが成すべきは民と共に死ぬことではなく、民の為に生き、彼らを導くことです。民を守る為に身を削って戦う役目はすでにお父君や兄君が果たされております。お嬢様にはお嬢様にしかできないことがあるはずです。そしてそれは、ここで剣を手に取って戦うことではないと存じます」
グラスターの民はこの街に住む者だけではない。
領内には他にも数万の民が暮らしているのだ。
グラスターの民にとって、シンシアの存在はとてつもなく大きい。領主に溺愛されていることで有名な令嬢が方々に視察に赴き、領内が平和であることを告げるからこそ、人々は安心して暮らすことができているのだ。
シンシアの笑顔はこのグラスター領の平和の象徴だとさえ、ブルームは思っていた。
「民を想うお嬢様のお心は、グラスターの民ならば誰もがよく存じております。だからこそ、お嬢様がここに残れば、多くの者が自分の身ではなく、お嬢様の身を守ろうと命を捨てることになるでしょう。お嬢様が無事であればこそ、彼らは後顧の憂いなく戦うことができるのです。どうかご再考を」
「……」
シンシアは唇を噛み、下を向いた。
しかし葛藤はごくわずかな時間だった。
すぐに毅然とした表情で顔を上げると、周囲の者に聞こえるように告げた。
「……わかりました。すぐにここを出立します」
その目からは涙がこぼれ落ちていた。
ブルームはその涙を決して忘れまいと心に誓った。
「ではお嬢様、こちらへ――」
「待ってください。せめてサラ様だけでも馬車に同乗させるわけにはいきませんか?」
シンシアの提案に、ブルームは頷いた。上級貴族であるフィンドレイ家の令嬢を見捨てたとあっては今後の両家の関係にも影響が出ると判断してのことだった。
ブルームは近くの衛兵にすぐにサラ嬢の部屋へ向かうよう指示した。
「――その必要はありませんわ」
凛とした声が通路に響き渡った。
声の主はサラ・フィンドレイ嬢その人だった。ドワーフの肩に掴まりながらゆっくりと歩み寄ってくる。すかさずメリッサが駆け寄って支えようとしたが、サラはにこりと笑って「大丈夫です」と丁重に断った。
「サラ様、わたくしどもと一緒に馬車へお乗りください」
「ありがとうござます、シンシアお嬢様。ですが、お気持ちだけありがたく頂戴しておきます」
「そ、そんな、どうして?」
「寝たきりの友人を残しては行けませんもの」
「で、でしたらヴァレイラ様もご一緒に――」
サラはシンシアの言葉を遮るように首を振った。
「ご心配には及びません。私たちは冒険者です。妖魔と戦うのが仕事ですから」
「で、ですが――」
シンシアが反論しようとした、そのときだった。
ひとりの衛兵が転がるように正門から駆け込んできた。
「ほ、報告! 妖魔の群れがすぐそこまで迫っておりますッ!」
「馬鹿な!? いくらなんでも早すぎる!」
衛兵が叫び声をあげた。
街の南部は市街地で、防衛も兼ねて道は不規則に折れ曲がっている。加えて、妖魔は人を喰らうのが本能である。これほどの短時間でここまでたどり着くなど、途中の住民を無視しない限りありえないことだった。
「メリッサ、お嬢様をすぐに神殿の奥へお連れしろ!」
ブルームは素早く頭を切り替えて、神殿での籠城を選んだ。事ここに至っては馬車に乗って逃げることはもはや不可能だった。
指示を受けたメリッサが「さ、こちらへ」とシンシアの手を取って駆け出した。
「他の者は俺と来い! 近くにいる住民を可能な限りここに避難させるぞ! ここは生命の神の聖なる力に守られし神殿だ。外を囲う壁も頑丈に作られている。正門さえ守れば妖魔の侵入を防ぐことは十分にできる! とにかく正門を死守だ!」
だが、兵士達の反応が鈍い。
前代未聞の事態に動揺しているのだ。
すると、シンシアがメリッサの手を強引に振りほどき、振り返った。
「勇敢なるグラスターの戦士達よ! わたくしはあなた方の強さを――この街で暮らす人々の強さを知っています。必ず父やランドルフ卿が戻ってきます! どうかそれまで持ちこたえてください!」
所詮は希望的観測とただの精神論である。言葉だけで状況を打開できるほど現実は甘くないことなど誰もがわかっていた。
ただ、輸送部隊の時もそうだったが、シンシアの言葉には不思議と人の心を奮い立たせる力があるようだった。
兵士たちの目に闘志が宿る。
「よし、いくぞ!」
ブルームは同僚の騎士にシンシアの傍にいるよう頼むと、自身は残りの兵士と共に神殿の正門へ向かう。
「わしも手を貸そう」
いつのまにか戦斧を担いだドワーフが隣をどたどたと走っていた。ノルガドという名の神官戦士である。クルガリの街で彼とは面識があった。
「先に断っておくが、報酬は出せんぞ」
「いらん。ドワーフには『三日住めば我が家』という諺があるでの。わしはもう十年以上もこの街で暮らしておる。自分の家は自分で守る。それだけのことじゃ」
ドワーフは不機嫌そうに応じた。
「俺達も協力するぜ、おっさん」
若い冒険者ふたりも当然のように付いてきていた。
(冒険者か……)
冒険者の存在を軽視するのは騎士にありがちな傾向であり、この時のブルームもまさにそれだった。
ただ、破壊されたのが南門だけだとしたら、北にある冒険者ギルドは無傷で残っているはずである。
セオドニーが積極的に冒険者を誘致したこともあって、この半年でグラスターの街を拠点に活動する冒険者の数は確実に増えていた。彼がこうなることを見越していたとはさすがに思わなかったが、たしかにまだ希望は残されているように思えた。
「……頼りにさせてもらおう」
ブルームは前を向いたままそう答えた。
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